【心せよ】 マルコによる福音書 8章14節~21節
主イエスは「パン種によく気をつけなさい」とおっしゃいました。
そしてそのパン種は、ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種でありました。
わたしたちは「忘れている」ということがあります。
日常生活の中で、小さな様々なことの一つ一つを取り上げると、数えきれないほど多くのことをと言うこともできるかもしれませんが、今現在のことだけではありません。
親から、また学校などの恩師から愛されていたということを、ひと時忘れてしまっていたということを、ふと日常生活の中で思い起こし、そうであったと何かあわててしまうような気持ちと共に、深く安心するような思いになったりすることがあります。
わたしたちに届けられた旧新約聖書は、主なる神を忘れてしまったかのような民に、預言者、神の語られる御言葉を預かり告げ知らせる者を通して、気づかせ、歩む道を指し示します。
ある預言者は「主はこう言われる」と語ります。
「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したならわたしは彼を見つけられないというのかと主は言われる。天をも地をもわたしは満たしているではないかと主は言われる。」
主なる神は、全知全能なるお方であり、天をも地をも満たしているお方です。
しかし人々は、この世の偽りと欺きにより心を迷わせ、何の益ももたらさないものに心奪われているというのです。
主なる神の御言葉は、偽りと欺きの前にあって火のようであり、岩を打ち砕く槌、ハンマーのようであります。
わたしたちの主イエス・キリストは、父なる神に遣わされ、この世に来られ、町や村を巡られました。
そして神の国を述べ伝え、教えられたと聖書にありますが、それは「開く」ためでありました。
人々の耳を開き、心を開くためでありました。
この世界の中にあって悩み苦しむ人々の命に向かって、父なる神の御心を伝え、再び思い出させるためでありました。
この世の厚い壁によって聞くことができない、その響きも、聞くことができなくなっているその心に、主イエスは神の語られる御言葉を届けようとされておられるのです。
その御言葉を心で聞いた者は、何が神の御心であるのかを聞き分けていくようになるのです。
自分の思いが先行するのではなく、まず神の御心を訪ね求めるようになり、聞き分けていくようになり、人生が厚い壁に阻まれているようであっても、開けて行くようになるのです。
しかしわたしたちには、何も「ない」ということがあります。
今日の聖書、新約聖書マルコによる福音書8章1節以下には、主イエス・キリストが四千人に食べ物を与えるという出来事が記されています。
主イエスは、ご自分のもとに多くの人々が集まってきていることをご覧になられました。
主イエスが病を癒され、悪霊を追い出されるのを人々は聞き、見ていたのです。
人々は群衆となって主イエスのもとにやって来たのでありました。
しかしその時、群衆が大勢いて、何も食べるものがなかったのでありました。
そこで主イエスは弟子たちを呼び寄せてこのようにおっしゃいました。
「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
主イエスは、その場にいる多くの一人ひとりに心を向けられたのでありました。
主イエスと三日一緒にいるのに、「ない」のです。
そして「ない」まま家に帰ると途中で疲れきってしまうだろうというのです。
近くから来ているというだけではなく、遠くからも来ている人がいるからであります。
主イエスは、「ない」ことに人々をかわいそうだと思われたのです。
主イエスは一人ひとりの他者の苦しみや悩みをご自分の内側に感じ取られたのでありました。
その身体で感じ取る力が働いたのでした。
そして、マルコによる福音書8章で、それは食べ物がないということでありました。
主イエスの弟子たちも「こんな人里離れたところでは、これだけ大勢の群衆に十分食べさせることはできない」と言います。
彼らの心配、不安はもっともです。
人々にはないということを主イエスもよくわかって知っておられます。
しかし主イエスはおっしゃいます。
「パンはいくつあるか。」
それに対して弟子たちは「七つあります」と答えます。
そこで主イエスは人々を座らせ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてそれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお命じになりました。
また小さい魚が少しあったので、主イエスは賛美の祈りを唱えて、それも配るようにおっしゃいました。
残ったパンの屑を集めると七籠になりました。
そして群衆を解散させた後、主イエスとその弟子たち一行はその場所を後にして舟に乗って向こう岸へと行かれました。
主イエスの弟子たちは、その奇跡の出来事に驚き、興奮していたことでありましょう。
そこへファリサイ派の人々がやって来ます。
主イエスを試そうとして、また主イエスへの妬みと憎しみを持って、天からのしるしを見せて欲しいと願い出ました。
主イエスは、その宗教的・政治的指導者たちの心にあるものをよく知っておられ、おっしゃいました。
「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。」
そして、「はっきり言っておく。今の時代の者たちには決してしるしは与えられない。」
主イエスのなさった奇跡に、ユダヤの指導者たちはそのしるしを見せて欲しいと言います。
しかしそれは、神を試すことであったのです。
神を神とすること、そのことがユダヤの指導者たちの律法で大切にされている十戒にあるのにも関わらず、指導者たちは神を試すこととなったのです。
彼らは忘れてしまったのでありましょうか。
自分たちは正しいと思っているのでしょうか。
自分の行いによって救われていると考えているのでしょうか。
宗教的・政治的指導者たちを前に、主イエスは心の中で深く嘆いておられるのであります。
しるしは主イエス・キリスト、このお方ご自身にあります。
人々の妬みと憎しみにより苦難を受けられ、十字架の死にかけられる主イエス・キリスト。
しかし三日後に死より復活され、神の大いなる愛と赦しを現わされる主イエス・キリストにしるしはあります。
救いのしるしはこのお方にある。
そのことを主イエス・キリストご自身がご存じであるのにもかかわらず、主イエスはそのことを指導者たちにはお語りなさらず、彼らの行うがままにされるのです。
しるしを見せて欲しいというファリサイ派の人々を後にして、主イエスとその弟子たち一行は、また舟にお乗りになられて向こう岸に行かれました。
その時、気づいたのです。
弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていないことに気がついたのです。
弟子たちの心はすぐさま不安にかられ始めました。
主イエスと同じ舟に乗っていても、主イエスが同舟し一緒におられたとしても、「忘れたこと」に彼らは心配になったのでありました。
その時、主イエスはおっしゃいました。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。
主イエスは戒め、前もってよく気をつけなさい、注意しなさい、とおっしゃったのです。
パン種とは、パンを膨らませるものでありますが、たとえとして主イエスはファリサイ派の人々のパン種、ヘロデのパン種とおっしゃいます。
ファリサイ派の人々のパン種というのは、律法学者の自分の力で完全になろうという律法主義、自分たちこそが正しいとする排外、排斥、そして他者に対する敬意を喪失してしまっていることと言えます。
ヘロデのパン種というのは、ヘロデ王、すなわちこの世の王の強い権力主義です。
これらのパン種は人の心に入り込み、少しずつ膨らみ、やがて大きく腐敗して行くことになるのです。
そのことは神の御心ではありません。
主イエスは苦難と十字架の死、そして復活によって人々を救おうとされます。
まことの命のパンとして、神の愛と赦しにより、人々を救われるのです。
パンを持って来るのを忘れたという弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。
「なぜパンを持っていないことで議論するのか。 まだわからないのか。悟らないのか。心が頑なになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
そして主イエスは思い起こさせます。
「私が五千人に五つのパンを裂いた時、集めたパンの屑でいっぱいになった籠はいくつあったか。」
主イエスは、あの時、あの器には、どれほどのものがあったか、と弟子たちに問われます。
弟子たちは答えました。
「十二です。」
また主イエスはおっしゃいました。
「七つのパンを四千人に与えた時には、集めたパンの屑でいっぱいになったかごはいくつあったか。」
弟子たちは答えました。
「七つです。」
すると主イエスはおっしゃいました。
「まだ悟らないのか。」
主イエスは恵みの大きさを語ります。
必要な分だけ、また有り余る恵みをお語りになられます。
そして一度だけではなかったのです。
命のパンを分け与えられたのは五千人の時、そしてそれとは別に四千人の時と、主イエス・キリストは恵みを共に分かち合って来たのです。
弟子たちが忘れてきたのはパンではなく、恵みを忘れたのです。
目の前には、パン一つしか持たず舟に乗ってしまった、しかも舟は湖の上を進んでいる。
人間的な価値観で言えば欠けています。
そして、主イエス・キリストの恵みとは何かを忘れています。
あれほどまでに多く、繰り返しパンを分かち合ったのに、神の恵みの豊かなることを忘れてしまったのです。
救いは自分の力と行いによるのではなく、自由にしてくださった主イエス・キリストによること、主イエスの恵みによります。
何が妨げとなったのか。
自分の力で何とかしようとする心に、主イエスは「心せよ」とおっしゃるのです。
他人の評価を恐れ、不安になり、他者を、そして自分を裁くのではありません。
神が導き、恵みによって救われたのです。
パンが一つで不安であり、恐れがあってもキリスト・イエスが共におられます。
主の恵みを思い起こすのです。
弱さの中にあっても心して主イエス・キリストを見上げるのです。
心せよ。
恵みは今ここにあるのだから。
