【どなたのために】 使徒言行録5章27節~32節

「神に従う人について」今日の聖書はわたしたちに伝えています。

わたしたち一人ひとりは、何に従っているのでしょうか。

この世の中で、わたしたちは命を与えられ、育まれ、成熟し、生きていく中で、その時その時において、何を選び、何を選び取らないかということを数多く経験しています。

そして、そのような経験は、ただ「あれか、これか」と二つに分けられるような単純なものではなく、複雑なことが何重にも重なっているようなことであるかもしれません。

一つの思いや一つの考えが、どうしても解決できない、どうしてもやりきれない、そのような思いに浸ることも、一度だけではなかったかもしれません。

多くの問いがあるのです。

何のために生きているのでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

神の御心に沿うことを願うのでありますが、人の評価や反対されること、また誤解されることに引きずられてしまうこともあります。

勿論、周りの人々、すぐ近くにいる方々と協調し、協力するということは大切です。

自分の考えを押し通すということだけが良いのではありません。

しかし、神よりも人間の声を大きく聞いてしまうような中に置かれた時、どのように立ち続けたのかということを、旧約聖書に見ることができます。

それは、神の御心に沿うことを願い、神に従うその信仰は、神を第一としていたということでありました。

旧約聖書ダニエル書3章に、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の出来事があります。

当時のバビロンの王ネブカドネツァルは、金の像を造り、国中の人々にそれを拝むよう命じました。

角笛、横笛、琴、竪琴など、あらゆる楽器による音楽が聞こえたら、すべての者がひれ伏して金の像を拝まなければならないという命令であります。

もし従わなければ、燃え盛る炉に投げ込まれることになっていました。

王の命令に逆らうことは、命を失うことを意味していたのであります。

そのような中、カルデア人たちがユダヤ人を中傷しようとして進み出て言いました。

「バビロンには、王が行政を任せておられるユダヤ人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおります。しかし、この人々はご命令を無視して王様に仕えず、お造りになった金の像を拝もうとしません。」

これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、三人を連れて来るよう命じました。

三人は王の前に引き出されました。

王は彼らに言いました。

「お前たちは、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、拝むつもりであるならそれでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。」

王は彼らに選択を迫ったのです。

王に従って命を守るのか、それとも神に従って命の危険を冒すのか。

現在のわたしたちには、このような究極的な選択はないかもしれません。

しかし、世界の歴史には確かにこのようなことがあるのです。

人間的に考えれば、王の命令に従うことが賢明であると思えたかもしれません。

心の中では神を信じながら、外側だけは金の像を拝めばよいのではないか。

命を守ってこそ神に仕えることができるのではないか。

そのような考えも浮かんだかもしれません。

しかし、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えました。

「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちの仕える神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことがおできになりますし、必ず救ってくださいます。

そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お造りになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

彼らは、神が自分たちを救ってくださると信じていたのでした。

しかし、それは神が自分たちの望む方法で救ってくださると信じていたのではありません。

「神が救ってくださるなら神を信じます」という信仰ではないのです。

たとえ自分の願った結果にならなくても、「わたしは神に従います」という信仰であったのです。

願いがかなえられることだけに支えられている信仰ではなく、神が神であられるからこそ神を信じ、信頼することを捨てない信仰です。

彼らは神の御前に誠実であったのです。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの答えを聞いた王は、血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすよう命じました。

そして、兵士の中でも特に強い者に三人を縛り上げさせ、炉に投げ込ませました。

彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られていました。

炉は激しく燃え上がっていたので、三人を連れて行った者たちさえ、その炎によって命を落とすほどでありました。

神はどこにおられるのでしょうか。

神は救ってくださるなら、困難に遭うことも、危険の中に置かれることもないようにしてくださらないのでしょうか。

三人が燃え盛る炉に投げ込まれると、王は驚くべき光景を目にします。

そして王は言いました。

「わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。

そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

三人は事前に逃れ、炉の外にいたのではありません。

燃え盛る火の中にいたのです。

しかし、その火の中に、彼らだけではないお方がおられるのです。

王が兵士に縛らせた彼らは、炉の中で自由に歩き回っているのです。

火は燃えていますが、彼らは火による害を受けず、火によって焼かれず、火のにおいもついていません。

四人目はどなたなのでしょうか。

火の中に置かれることがあっても、決して見捨てることのないこのお方は、どなたなのでしょうか。

神の力は、王の権力を超えていたのでありました。

ネブカドネツァルは三人を外に出し、神をほめたたえました。

誰も、何ものも、神の愛から引き離すことはできないのです。

今日の聖書、新約聖書の使徒言行録5章では、主イエス・キリストの十字架の死と復活の後、聖霊を与えられた人々が、宗教的・政治的指導者たちによって捕らえられ、牢に入れられてしまいました。

ユダヤの指導者たちが十字架につけてしまった主イエス・キリストの御名によって、多くのしるしと不思議な業を人々が行っていたからでありました。

ユダヤの指導者たちは妬みに燃えていたのであります。

そして、その火と炎は激しく燃え上がっていました。

人々は捕らえられ、牢に入れられてしまいましたが、その夜中に主の天使が現れ、牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、「この命の言葉を人々に語りなさい。」と告げました。

「この」という言葉は、遠くにあるのではなく、すぐ近くにあるという意味です。

ですから、「この命の言葉」であるのです。

使徒たちは、「この命の言葉を」民衆に語り伝える使命が与えられているのです。

使徒たちは、エルサレム神殿の境内で再び人々に語り、教え始めていました。

主イエス・キリストは救い主であるということをです。

そこで、神殿守衛長は下役たちを率いて人々を連れて来ましたが、民衆を恐れて手荒なことはしませんでした。

そして、連れて来た使徒たちをユダヤの最高法院の中に立たせたのでありました。

最高法院の議長は大祭司であり、議員は七十一名でした。

行政と司法の権限を持つユダヤの自治機関であり、律法に関する最高法廷、それが最高法院でした。

主イエスも十字架につけられる前、この最高法院で裁かれています。

人々が大祭司の前に立つと、大祭司は尋問しました。

「あなたたちには、あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。

それなのに、お前たちはエルサレム中に自分たちの教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」

大祭司は、この世の権威ある者たちの命令に従わない使徒たちを問い詰めました。

ただ単に、使徒たちが語っていること、教えていることを問題にしているのではありません。

この世の権威が命じていることに従わず、主イエスの御名を宣べ伝え続けることを問題にしているのです。

すでに警告しておいたはずではないか、と言うのです。

何をすればよいのか、何をやめなければならないのかを告げていたはずだ、と言うのです。

しかし、人々は自分たちの考えを広めようとしていたのではありませんでした。

また、自分たちのために行っていたのでもありませんでした。

彼らは主イエス・キリストの復活の出来事に出会い、それを証言し、宣べ伝えていたのです。

彼らの中心としていることは、どこにおいても変わらないのであります。

それは、人間的に強かったということでは決してありません。

むしろ、その反対であったかもしれません。

しかし、主イエス・キリストは人々の罪の赦しのために苦難を受けられ、十字架の死を遂げられ、そして復活させられたのでありました。

大祭司は主イエスの十字架の死までを語っています。

「あの男の血を流した責任を負わせようとしている」と。

この世の権威は、自ら拭うことのできない恐れと不安を語っています。

しかし、神の愛と赦しは広く深いのです。

主イエスの弟子であり使徒であるペトロと他の使徒たちは、大祭司、そして議員たちに答えます。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

この「従わなくてはなりません」という言葉の中には、神の愛と赦しを受けた者として、この世の権威ではなく神の力に生きる者としての声があります。

それは彼らの深いところからの声であり、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた声であり、永遠の命の希望の声であります。

ペトロたちは言います。

「わたしたちの先祖の神は、あなた方が木にかけて殺したイエスを復活させられました。」

ペトロの言う「わたしたちの先祖の神」とは、大祭司と宗教的・政治的指導者たち、そして民衆を含めての「わたしたち」です。

人はイエスを十字架にかけました。

しかし、わたしたちの神は、その大いなる愛と赦しを現わし、イエスを復活させたと言うのです。

だからこそ、神の示されたそのことに従わなければならないと言うのです。

ペトロたちはさらに言います。

「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手として、また救い主として、ご自分の右に上げられました。」

神が主イエスを高く上げられたのです。

そして導き手、救い主とされ、罪から、罪の不安から、恐れや罪悪感から自由に歩けるようにしてくださったのです。

人の判断ではなく、神の判断がここに人を救ったのです。

主イエスは先に歩まれ、苦しみをご存じです。

このお方がわたしたちと共に歩んでおられるのです。

この導き手であり、救い主であるお方に、心の向きを合わせて立ち返るのです。

人の正しさを守る生き方から。

人の評価に支配される生き方から。

神の恵みと神の御言葉に信頼する生き方へと向きを変えるのです。

悔い改めるとは、向きを変えることであります。

しかし、それとともに、その意味の中には「手放すこと」「赦すこと」が含まれています。

そして赦しは、他者だけではなく、自分を赦すことをも含んでいます。

ペトロは言います。

「わたしたちはこの事実の証人です。また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

ペトロの深いところからの声は、神の霊、聖霊の声でもあったのです。

神が愛してくださり、主イエス・キリストが愛してくださったのです。

ですから、 「わたしもあなたに従いたいのです」と、ペトロは祈り願ったのでした。

主に従う人の救いは、主から来るのです。

ですから、今も生きておられる救い主イエス・キリストの御前で、愛をもって使徒たちは言ったのです。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」