【まっすぐな道を】 ヘブライ人への手紙12章11節〜13節
わたしたちの生きる大地は大きく揺れ動きます。
九州・熊本での大地震により、災害で大変な思いをされておられる方々を覚え、心よりお見舞い申し上げます。
今もなお大きな不安と困難の中にあり、落ち着かない状況で過ごしておられる方々に、主の守りと慰め、そして回復への道を導いてくださいますようにお祈りいたします。
平和へのまっすぐな道を祈り求める今日、わたしたちのもとに届けられ開かれました聖書は、新約聖書に収められています「ヘブライ人への手紙」です。
この手紙は紀元七十年以前に記されたユダヤ人キリスト者たちに向けて書かれました。
ヘブライ人という名称はユダヤ人のことでありますが、旧約聖書の中にある通り、ユダヤの律法や預言、そしてその歴史をよく知っている人々と言うことができます。
そして、この信じる信仰の内容は旧約聖書に登場してまいりますアブラハム、イサク、ヤコブの神でありました。
その神が救い主をこの世にお送りくださった。
それが主イエス・キリストであります。
待ちに待った待望の救い主がこの世に来られ、到来したにもかかわらず、当時の宗教的・政治的指導者たちは主イエス・キリストを十字架刑にかけてしまいます。
主イエスに対する妬みと憎しみによってです。
しかし、十字架の死より主イエスはよみがえり、復活されました。
その出来事は、神の愛と赦しが人の思いを超えて大きく深いことを示されたのでした。
主イエスを救い主と信じるユダヤ人キリスト者たちがそこにいました。
「そこに」というのは、特にエルサレムにおいてということでありました。
救い主が来られたという喜びに満たされてはいましたが、当時この人々は大変大きな苦難を前にしていたのであります。
ユダヤの人々は、エルサレム神殿を中心とした様々な制度を持っていました。
神殿について、律法について、神殿に仕える祭司についてなど、ユダヤの人々にとって大切な制度を、エルサレム神殿を中心として行い、守っていました。
しかし、当時の社会的情勢により、ユダヤはローマ帝国より強力な圧力を受けていたのであります。
ユダヤ州はローマ帝国の属州として支配されていましたが、ユダヤの人々はそのことをよく思っていませんでした。
エルサレム神殿においても親ローマ派の人々とそうでない人々がいましたが、そのような中でユダヤの人々は周辺の各地域に移っていくか、またはエルサレムを中心とした地域において硬く政治的な結束を強めていくこととなっていたのであります。
その中で、主イエス・キリストを十字架にかけていった指導者たちは、自分たちの正しさを証明するかのように、キリスト者たちへの迫害を既に始めていたのです。
ヘブライ人への手紙、そのヘブライ人、ユダヤの人々の日常生活は大変な緊張感の中にあり、大きな危機がすぐそこまで迫っていました。
その中で、この手紙は書き記されています。
恐れと不安は社会情勢によりその度合いを大きく増していました。
その強い恐れと不安により、無関心・無気力になってしまうこともあったことでしょう。
自分ではどうすることもできないと思い込み、その意識から倦怠感さえ生じていたことでもありましょう。
意識を向けるその先を見失い、そのまま後ずさりしてしまうこともあったかもしれません。
しかし、ヘブライ人への手紙はそのような大きな恐れと不安の現実の中にある人々に向けて語り出します。
「神は、かつての預言者たちによって多くの形で、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には御子によってわたしたちに語られました。」
エルサレム神殿はユダヤの人々が神への礼拝を捧げる場所でありましたが、今やローマ帝国による崩壊の危機が迫っていました。
そのような中で、ヘブライ人への手紙は、かつての預言者たちが神の御言葉を預かり、人々に多くの形で多くの仕方で知らせたと語り始めるのです。
ある時はこのようなことが神により語られました、またある時はこのようなことが神により行われましたと、いろいろな多くの形で、また仕方で示されたのです。
大きな不安と恐れの渦巻く中で、この大地が揺れ動き、社会の制度が揺れ動き、経済が、暮らしが、健康が、そして人生が激しく揺さぶられる時があるかもしれません。
そのただ中で、ヘブライ人への手紙は意識を落ち着かせるように語り出すのです。
「神は御子によって語られました。」
御子というのは救い主イエス・キリストであります。
このお方は、わたしたちの不安と恐れ、そして強い罪責感、すなわち罪からわたしたちを救うため、十字架の死に疲れ、復活され、神の御座についておられます。
神の御座についておられるとは、永遠の内におられるということであります。
しかしわたしたちはこの世において揺さぶられます。
胸を痛め、息を詰まらせ、気力もくじけて元気を失ってしまうこともあります。
それでも、神がお遣わしになられ、今も生きておられる主イエス・キリストがおられるので、わたしたちには何も欠けることがありません。
「死の影の谷を行く時も、わたしは災いを恐れないのです。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの杖、それがわたしを力づけるのです。」
十九世紀から二十世紀初頭、カナダのある牧師で作家である人の作品に、このような物語があります。
「グエンという少女が出てくる物語です。
グエンはわがままな上、とても頑固で、何でも自分の思い通りにやっていました。
ある日、彼女は事故で足が不自由になってしまいましたが、このため反抗的な性格は一層ひどくなったのでした。
ところが、この不満だらけの彼女のもとに、地元の宣教師が訪ねてくるようになりました。
彼は、峡谷―幅が狭く、両側が切り立った崖になっている谷―その寓話を聞かせてくれました。
昔は峡谷などなく、ただ広大な平原が広がっていただけだったのです。
ある日、主はただだだっ広い平原を歩きながら、こう尋ねられました。
「花はどこに咲いているのかね。」
それを聞いた平原は、こう答えました。
「ご主人様、わたしは花の種など持っていないのです。」
そこで主は鳥たちに命じて、あらゆる種類の花の種を持って来させ、くまなく全体に行き渡るように種をまかれました。
まもなく平原には、クロッカス、バラ、キンポウゲ、野生のヒマワリ、オレンジ色のユリが花を咲かせました。
ところが主は、お気に入りの花がないことに気がつき、平原にこう尋ねられました。
「クレマチス、オダマキ、スミレの花はどこだ。花の咲く灌木はどこだね。」
そこで主はもう一度鳥たちに命じて、全種類の花の種を持って来させ、くまなく平原にまかれました。
しかし今回も、大好きな花が咲いていませんでした。
主は尋ねられました。
「わたしの大好きな花はどこにあるのかね。」
平原は悲しそうな声を上げました。
「わたしはその花を守ってやることができないのです。
風が激しくわたしの上を吹き抜けます。
太陽はわたしの頭上から照りつけます。
そのため、あなたと花たちはしおれて吹き飛ばされてしまうのです。」
そこで主は雷に命じて、鋭い閃光とともに平原の心臓にまで達する亀裂を入れさせられました。
そのため平原は大きく揺らぎ、苦しみ、うめき声をあげました。
その後、何日もの間、平原は深く切り裂かれた傷の痛みを恨んでつぶやいていました。
しかし、水がその傷口に流れ込むと、水と共に豊かな黒い土も運ばれてきました。
鳥たちは再び花の種を運び、谷間にまきました。
それから長い時間を経て、ゴツゴツした岩肌は柔らかな苔と蔓に覆われ、切り立った崖はカーテンがかかったようにクレマチスとオダマキの花で埋め尽くされました。
巨大な楡の木は太陽にまで届くかのように枝を伸ばし、その根元には香りの良いヒマラヤ杉とバルサムの思いの木がびっしりと生えていました。
スミレ、アネモネ、クジャクシダは至るところに花を咲かせ、その谷間は安らぎと平和、喜びに満ちた主のお気に入りの場所になったのです。
そして宣教師はグエンにこう言いました。
「御霊の実は、愛・喜び・平和・寛容・善意・柔和だよ。
この中には、谷間でしか育たないものがあるんだよ。」
穏やかな口調でグエンは尋ねました。
「どれが谷間で育つ花なの。」
宣教師は答えました。
「寛容と善意と柔和だよ。
愛と喜びと平和の花は平原でも咲くけれど、谷間で育った花に比べると美しさも香りも劣っているんだよ。」
グエンはしばらく何も言いませんでした。
やがて唇を震わせながら言いました。
「わたしには花など一本も咲いていない。
あるのはごつごつした岩だけ。」
宣教師は優しく答えました。
「グエン、いずれ咲く日が来るよ。
主が見つけてくださる。
わたしたちの目にも見える日が来るよ。
わたしたちの父なる神は、私たちの益となるように、神の価値あるものに預からせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。」
苦難を前にして、困難の中、試練の痛みを神より授かり、神がわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦となり、苦難の時必ずそこにいて助けてくださるのです。
その信頼にかえるよう、ヘブライ人への手紙は語るのです。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になると、それで鍛え上げられた人々に義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
主イエス・キリストによってわたしたちに語られた神との正しい関係が結ばれ、人の心の内に平和と平安が実るのです。
神に従う人は恐れることなく、神が正しい道を歩ませてくださるという確信、勇気、そして安心があります。
だから「萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい」とヘブライ人への手紙は語り、あなたを支えます。
あなたは倒れたままで終わる存在ではないのです。
また、「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。立ち上がり、まっすぐな道をつくりなさい」と言うのです。
弱いものが脱線して外れてしまわないように道をつくりなさい。
わたしの道を歩みなさい。
そして人は倒れたままではなく、癒されると語るのです。
わたしたちの痛みは、まっすぐな道をつくるためです。
痛みの現実の中で、主イエスと共に立ち上がり、まっすぐな道を整えるのであります。
