【神の霊に導かれ】 ローマの信徒への手紙 8章12節〜17節

「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。」

主イエス・キリストが約束されていた聖霊が弟子たちに与えられました。その聖なる霊の力は、復活の主イエスが天に上げられ、再び私たちは主イエスを失ってしまったとさえ思っていた弟子たちに、抑えきれない希望を与えました。

それは、主イエスを人々の妬みと憎しみ、肉の思いから十字架の死へと追いやりますが、主は復活されます。その復活された主イエスは弟子たちに現れ、「あなたがたに平安があるように」とおっしゃって、弟子たちに慰めと励まし、そして希望をお与えになられました。

しかし、復活の主イエスはその後、弟子たちの見ている目の前で天に上げられ、雲に覆われ、見えなくなってしまいました。主イエスの弟子たちは、あの主イエスの苦難と十字架の死を再び思い起こし、悲観することもできたはずでした。失ってしまうことの悲しみと苦しみ、そして失望を、主イエスの弟子たちは再び深く味わうこととなり、心も体ももう動かないくらい、ひどく重く感じたことでしょう。

しかし、主イエスの弟子たちは一つとなって熱心に祈っていたのでありました。彼らは復活された主イエスに出会っていたのでありました。その復活の力、神の愛の力、その赦しの力を、彼らは直に知っていたのでありました。

そして、すでに主イエスが「あなたがたに聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける」と約束されていた御言葉が実現したのです。一同が一つとなって集まり祈っているその場にいる一人一人に聖霊がとどまり、聖霊に満たされたのでありました。

聖書には「炎のようなものが」とあるので、その光、その熱が伝わってくるかのようであったのです。それは神の光であり、神の熱情と言えるものが一人一人を満たしました。「あなたがたは聞きなさい」と神が愛をもって語りかけておられるかのような力があったのです。

聖霊は神の霊であり、神そのお方であります。聖霊が下り与えられ、満たされたということは、神が主体となって主権をもって語りかけておられるということであります。そしてその御旨は愛であります。

ですから、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と主なる神は語りかけておられるのです。神があなたを、また私たちを、愛と赦しをもって受け入れてくださっておられるという確信が、聖霊を通して与えられたのです。

聖霊を与えられ、聖霊に満たされた弟子のペテロは、その愛と赦しの力に満たされて力づけられ、語り始めました。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は予言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの下僕やはしためにも、その時にはわたしの霊を注ぐ。すると彼らは予言する。上では天に不思議な業を、下では地にしるしを示そう。血と火と立ちこめる煙がそれだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」

旧約聖書ヨエル書の予言からでありますが、ペテロはこの「神の霊が下り、望む」という予言の御言葉を、聖霊に満たされ語り、証言しました。

その語っていることは、災いと苦難の中にあって「主の名を呼び求める者は皆救われる」ということでありました。その主なるお方、救い主なるお方はイエス・キリストであったのですが、人々はこの主イエスを十字架につけて殺してしまったのです、とペテロは聖霊に満たされ語りました。

それまで家の中に入り鍵をかけ、扉を閉じていたにもかかわらず、聖霊を与えられたペテロは外に出て、大声でこのことを告げ知らせたのでありました。それは聖書の御言葉、神の約束をもとにして語られた言葉でありました。

「神はイエスを主とし、またメシア、救い主となさったのです」とペテロは大胆に証言したのでありました。

これを聞いていた人々は心を動かされ、「私たちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。するとペテロは彼らに答えました。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束はあなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも与えられているものなのです。」

神である主が招いてくださる。そして与えてくださるのです。聖霊はその「誰にでも」与えられているというのです。

しかし、この世は主が招いてくださるということへ向きを合わせようとしないかのようであります。光に向きを合わせることなく、その代わり自らの正しさを誇示し続けるかのようにして進んでいるかもしれません。

ペテロも神の霊である聖霊に満たされ、力強く語っています。「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めています。この言葉は今この時も変わりません。「誰が悪い」「何が悪い」ということでは決してありません。「この曲がってしまった、ねじれてしまった世代から離れて救われなさい」という意味内容であります。

主なる神はその救いの道を、聖霊によってお示しになられたのでありました。これは、文字で書かれた律法に従う生き方ではなく、霊に従う生き方が与えられたということであります。

これは、文字で書かれた律法に従う生き方ではなく、霊に従う生き方が与えられたということであります。

文字で書かれた律法に基づいて生きてきたサウロ、後のパウロ。このパウロは律法学者の中の律法学者であり、もともとキリスト者たちを迫害する者でありました。しかし、復活の主イエスに呼び止められ、招かれたのでありました。悔い改め、改心し、生き方の向きを変えられたということでありました。

そしてそれは、復活の主イエス・キリストの光に委ねたということでありました。自分で何とかするのではなく、手放し、光に委ねたのです。

パウロは「律法は罪では決してない」と言います。むしろ「律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう」と言います。そしてパウロはこう言います。

「掟が登場した時に罪が生き返って、私は死にました。そして命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、私を欺き、そして掟によって私を殺してしまったのです。」

パウロは、罪がその正体を表すために、この律法と掟はあって良いものであるとします。そして「この良いものを通して私に死をもたらした」とパウロは言います。

パウロは、このいくつものことが積み重なり、絡み合ったかのような罪に、限りなく邪悪なものであることが示されていると言います。

パウロはこの人間の置かれている状況について、そして自分自身についてこう語ります。

「私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」

それでパウロは言います。

「善をなそうとする自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づいている。」

そして「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と、内在する罪の問題、人間の悲惨さに言及しています。

しかしパウロには光が昇り、光に照らされ、大きな希望が与えられているのです。

「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか」と自問し、そして答えるのです。

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします。」

人は自分自身を、自らの力で救うことはできません。パウロの言うように、心より罪が内在し、罪の法則の虜となっているからです。しかし、この神から的を外してしまっているという罪を、神は主イエス・キリストを通して取り除いてくださったのです。

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とパウロは言います。「キリスト・イエスにより、罪と死の法則からあなたは解放された」と言います。

主イエス・キリストに命をもたらす霊の法則があるのです。

肉に従って歩む者は肉に属することを考え、霊に従って歩む者は霊に属することを考えます。そして肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和、平安であります。

パウロはこの法則を、復活の主に出会うことにより知り、「キリスト・イエスの霊を持つ者は、キリスト・イエスに属する者である」ことを知ったのです。

「キリストがあなたのうちにおられますように。その命と平和、平安があなたに豊かにありますように」とパウロは願ったのです。

パウロは、曲がりねじれたかのようなこの世の中にあって、キリストが私たちのうちに宿ってくださることを語ります。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊があなたがたのうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたのうちに宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

キリストの力は今も私たちのうちに働いているのです。

この体には弱さがあり、罪に傾く性質があり、恐れや不安、そして罪責感を持ち、生きる力が失われつつあるように感じているこの体に、新しい力が与えられ、希望が宿っているということです。

聖霊は外側から助けるというよりは、内側に宿る存在です。神は遠くにおられるのではなく、内側から変えられます。恐れや不安、そして罪責感を外側から打ち砕くのではなく、内側から打ち破るのです。すなわち、私たちのうちに死を打ち破った復活の力があるのです。

それでパウロはこう述べます。

「兄弟たち、私たちには一つの義務がありますが、それは肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」

パウロは聖霊によって表される栄光を語っています。命と平和、平安が表される。すなわち、生きるのであります。

パウロは言います。

「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

この霊こそ、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子どもであれば相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

パウロは、神との親しい交わりが聖霊により与えられていることを心より感謝しています。それは、私たちが神の子どもたちであるということです。

現在の苦しみは、将来私たちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとパウロは言います。なぜなら、私たちは神の霊により神の子どもとされているからです。

この世の中において神の子どもとされ、神の愛と赦しにより生かされ、キリストと共に苦しみを分かち合い、共にその栄光を受けるのです。

神の霊に導かれる者は皆、神の子であり、その栄光に入るのです。