【喜びで満たされる】 ヨハネによる福音書16章19節~24節

あなた方は喜びで満たされると、主イエス・キリストはおっしゃいました。

母の日は1908年、アメリカのとある小さな教会で、ある女性の追悼記念礼拝が行われたことに始まると云われます。

この天に召された方は、かつて教会学校教師を務めていましたが、ある日曜日、子どもたちに旧約聖書モーセの十戒の中から「あなたの父母を敬え」というところを取り上げ、「心から感謝する方法を考え出す人はいませんか」と尋ねたことがありました。

そのことが後に、この女性の娘が、母の大好きであったカーネーションを記念会で飾って紹介したのでありました。

感謝のしるしとしての花が飾られ、贈られたのであります。

ひとりの人の心に神の御言葉が宿り、思い巡らされて感謝の心が人と人との間に花開いたと申し上げることができるでしょう。

旧約聖書のモーセの十戒は、敬うということを通して命への敬意を守ることを伝えています。

それは道徳としてただ守るということだけではなく、愛と信頼から守られることを伝えています。

争いと戦いの中、混乱し、その不安のただ中にあって愛と信頼が壊されていくかのようなこの世にあって、旧約聖書出エジプト記20章のモーセの十戒は、わたたちの知識と知恵を超えた大切なことを伝えていると言えます。

十の戒めの初めの四つは神についての戒めです。

「あなたにはわたしのほかに神があってはならない。」

「あなたはいかなる像も造ってはならない。」

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

これらの「神について」の戒めは、真の神ならぬものを神としてしまっていることへの重要な警告であります。

真の神ならぬものを神としてしまった生き方があり、神ならぬものを造り、それを神としてしまう偶像礼拝、偶像礼賛があり、主の名をみだりに唱え、秩序を無視し、自分勝手に用いて真の神を思う時がないことを警告しているのです。

それはなぜか。

愛と信頼の関係を築き上げるためです。

そしてその関係が続くようにです。

真の神と人との関係は、愛と信頼、すなわち信仰に基づいているのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

昔の人たちはこの信仰のゆえに神に認められました。

信仰によってわたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは目に見えているものからできたのではないことがわかるのです。」

あるキリスト者は、「信仰は生きるか死ぬかという実存的な問題であり、あらゆる理論的な判断とは別の次元に属する」と言いました。

神の御言葉はわたしたちを愛と信頼、すなわち信仰へと導いているのです。

また、十戒の初めの四つは「神について」、その後の六つは「人について」の戒めです。

「あなたの父母を敬え。」

「殺してはならない。」

「姦淫してはならない。」

「盗んではならない。」

「隣人に関して偽証してはならない。」

「隣人の家を欲してはならない。」

これらの戒めは、規則として守られるようにではなく、人と人との間に深い敬意があり、愛と信頼が育まれるようにという、神がお与えくださる命の道への教えです。

この戒めから外れたところに、この世の混乱と不安が渦巻いていると言えるかもしれません。

失ったものを取り戻す、奪われたものを奪い返すということとは全く異なる判断がここにあります。

主なる神は命の道をお与えくださり、そのあたたかさの中に巡り合う奇跡とも言える命との出会いをお与えくださいました。

ここに感謝があるのです。

生まれてきたこと、育ててもらえたこと、出会ったこと、笑ったこと、涙したこと、歌をうたったこと、そのすべてのことにです。

愛と信頼が命の道を造り出すことを信じることが、ささやかな日々の中においても守られますように、神は備えられたのです。

この世にあって主なる神はわたしたちの光であり、わたしたちの救いであります。

しかしわたしたちの心には思い煩いと心配、そして不安があります。

弱っていくのは悲しいということも、年を取るのは辛いということも、また人生には意味がないという思いもあるかもしれません。

それを全く退けてしまうことは大変難しいことのようにも思います。

古代の詩人も記しています。

「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き憐れんで、わたしに答えてください。」

「聞いてください」と言うのです。

「答えてください」と心に呻くのです。

そのように言うこの人自身は、信仰に生きたのでしょうか。

このように続けて言いました。

「心よ、主はお前に言われる。『わたしの顔を尋ね求めよ』と。」

主の御顔は目には見えません。

しかし、わたしたちの心の中で泣きたい時、失望に嘆く時、そんな時にもそばにおられて寄り添う、それは影のように感じるかもしれませんが、神は御顔を向けておられるのです。

愛と信頼を寄せてくださったお方が、わたしたちを造り上げようと励まし、支えてくださったお方です。

わかっているのにも関わらず黙って祈り続けておられたお方のように、主はわたしたちの光であり、わたしたちの救いです。

その主なる神が「わたしの顔を尋ね求めよ」とおっしゃるのです。

その御顔は目には見えませんが、主がお与えくださる十の戒めに、その信頼が、その信仰が現わされているのです。

そして尋ね求め、近づくことを語っています。

後に、キリストの光と救いにあずかった弟子ペテロは、その手紙の中で教会の兄弟姉妹に向けてこう述べました。

「だから思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなた方はそれぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力が世々限りなく神にありますように。アーメン。」

神の恵みが与えられています。

その恵みの善い管理者でありますようにという祈り願いです。

そしてそれは、わたしたちを愛と信頼ではなく、また命の道ではなく、すなわち神の御心から外れてしまっていたところから、その罪から、命をかけて救ってくださった主イエス・キリストにより、神の栄光が現わされるためでありました。

人の栄光ではありません。

神の見えざる御顔があなたにも向けられているのです。

その栄光を現わすために、であります。

ですから、神の御前に、神との関係に忠実なものであるように、主イエスはその弟子たちに語られました。

苦難を受けられ、十字架の死に向かわれるその直前のことでありました。

今日の聖書、ヨハネによる福音書16章19節。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」

主の弟子たちは、主イエスのお語りになっていることに戸惑っていたのです。

主イエスは十字架の道を歩んでおられる。

その張り詰めた緊張感の中、弟子たちは主イエスに尋ねるのも恐ろしくなっていたのかもしれません。

自分たちにはよくわからない。

しかし、主イエスは、エルサレムの都の中で、「あなたがたはわたしを見なくなる」とおっしゃいます。

神の子イエス・キリスト、その御姿を見なくなるとおっしゃるのです。

何のことかわからなくても、そのおっしゃっておられることに、弟子たちはただならぬ恐ろしさを抱いたことでしょう。

しかし主イエスは「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とお語りになったのです。

そのことについて弟子たち同士で「何のことだろう」「何を話しておられるのかわからない」と混乱し、言い合っていました。

主イエスは弟子たちの心の中の動きを知っておられます。

そして先取りされるかのようにお答えになられます。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて嘆き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

弟子たちの恐れ、混乱、そして弱さを主イエスはすべて知り、寄り添い、導かれます。

主イエスは「まことに、まことに」とおっしゃって、十字架の出来事に直接的な涙を伴うことをお語りになられます。

悲しみと嘆きがあります。

しかしこの世は、この世の力はこれを喜ぶとおっしゃいます。

十字架は完全なる敗北だとする者たちは喜ぶというのです。

しかし、悲しむ者たちのその悲しみは、喜びに変わるとおっしゃいます。

そして主イエスはたとえを交えながらこう語られます。

「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」

いわゆる「産みの苦しみ」についてでありますが、主イエスは救いが来る、救いの到来のたとえとしてお語りになります。

そしてその決定的な救いの時が来る、と主イエスはおっしゃるのです。

その救いのゆえに、もはや苦しみを思い出すことはなく、苦しみが記憶に残らないほどの大きな喜びであります。

主イエスは人々の罪の赦しのため、十字架の死より復活されたのです。

悲しみや苦しみが置き換わると言うのではありません。

喜びに置き換わったと言うのではなく、深い悲しみと苦しみから生まれた喜びが生まれ、悲しみが生まれ変わり、喜びへと変質したということなのです。

主イエスによって、そのように十字架の悲しみが復活の喜びへと変わったのでありました。

主イエスはおっしゃいます。

「ところで、今あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日にはあなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

この世においては悲しみがあります。

大切な人との別れがあり、健康や家族の問題、失望による痛み、孤独や不安、そのどれもが心の中で幾重にも重く重なり合っています。

言葉にも声にもならぬ思いが胸に満ち溢れています。

しかし、主イエスは、会う者と共に喜びます。

その喜びを、「あなたがたは心から喜ぶことになる」と主イエスはおっしゃいます。

なぜなら、喜びは奪われないからです。

外から、また人から左右されず、神の働きによる確かな喜びであり、永続する、いつまでも残る復活の喜びであるからです。

このお方、主イエス・キリストの名によって願いなさいと言うのです。

「主イエスの名によって」とは、主イエスのご人格とその御心によってということです。

主イエスが歩まれたその姿とその御顔を尋ね求めながら、神との親しい交わりの喜びの中を歩むのです。

神がお与えになる喜びは、わたしたちの歩む人生を支える力となります。

神のお与えになる喜びは、心の奥底から湧き上がる尽きることのない泉のようであるからです。

そしてこの喜びを誰も奪うことはできないのです。

悲しみを隠さず、悲しみの中で祈り、尋ね求め続ける信仰に生きるのです。

悲しみは慰められ、神の御手の中で喜びへと生まれ変わるのです。

主イエス・キリストの名により、「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたは喜びで満たされる。」

主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださいます。