【今は憐れみを受けている】 ペテロの手紙一 2章1節~10節

「今は神の民であり、憐みを受けているのです。」

主イエス・キリストの弟子の一人ペテロは、手紙の中でそのように述べています。

しかしながら、この世を生きるわたしたちは、さまざまな出来事により心を暗くし、胸が塞がれるような気持ちになってしまうことがあります。

そして、この世において神の憐れみ、愛と救いを求めていることが多くあると言えるのではないでしょうか。

わたしたちの主イエス・キリストは、わたしたちの深くにある苦しみに心を動かされて、助け、救おうとされました。

主イエスのお受けになられた苦しみと十字架の死、そして復活は、わたしたちへの愛を現わされたものでありました。

主は、人間の弱さや罪を見捨てず、寄り添い、赦し、救おうとされたのでありました。

愛と憐れみを求める人々に、聖書は祈ることを勧め教えています。

祈りは、憐れみ、赦しをお与えくださった主なる神にお応えすることです。

祈ることが効果があり成果があるからではありません。

主があなたを助け、励まし、忍耐されておられることを感謝し、それにお応えするのです。

ですから、

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなた方に望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」と聖書は勧めています。

わたしたちの救い主キリスト・イエスにおいて、神が望んでおられるのです。

喜んでいること、祈ること、そして感謝すること。

聖霊の火を消すことなく、神の御言葉を重んじ、良いものを大事にするのです。

神の御名により、人と人との間に平和を祈り、願い求めるのです。

弱さを理解し、寄り添い、相手の尊厳を守り、「あなたは大切な存在だ」と主イエス・キリストはお伝えくださったのです。

主の憐れみにより、わたしたちは愛され、赦され、生かされているのです。

ですから、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい、と聖書は勧めています。

主イエスの憐れみと赦しを受けた弟子のペテロは、その体験に根ざし、主イエス・キリストを宣べ伝える使徒となります。

そして今日の聖書、ペテロの手紙一1章1節から2節にはこう記されています。

「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

ペトロはいわゆるユダヤのエルサレムを中心とした地域だけではなく、エルサレム周辺よりもさらに広い範囲の地域に仮住まいしている人々に向けて、この手紙を書き記し始めています。

それは、各地に散って行かざるを得ないという状況がありました。

当時、ユダヤを支配していたローマによる圧力、そして迫害が強まっていたからでありました。

ですから、方々に散って行った人々は、ただ移住していたというよりは、仮住まいをしている離散の民であったのです。

しかし、その離散し困難の多いであろう生活についている人々に「選ばれた人たちへ」と言っています。

それは、現地で苦労し大変な思いをしている人々に励ましと慰めを送るためでありますが、表面的な言葉では決してありませんでした。

ペテロの経験、主イエス・キリストの憐れみと赦しの経験から溢れ出てくる言葉であったのです。

すなわち、ペテロ自身が選ばれたのです。

主によって呼び出され、選ばれたのです。

ペテロは、主イエスが人々によって捕らえられ十字架へと向かっていく中、三度主を否定してしまったことがありました。

主イエスはその時、深い憐れみと愛を持ってペテロを見つめられました。

人の弱さをそのまま無条件に受け入れ、愛されている主イエスに、ペテロの胸の奥から押さえきれない声と涙が溢れ出たのでありました。

ペトロは主イエスの憐れみの深さを、その眼差しを向けられた瞬間、知ったのでありました。

かつてペテロは主に尋ねていたことがありました。

「兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

主イエスはお答えになられました。

「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」

ペテロはその時の主イエスの眼差しと御姿を心に納めていたのです。

何度でも赦しを繰り返す姿勢の主イエスの憐れみの深さを、ペテロは知ったのです。

そしてその受けた愛と憐れみの主イエス・キリストにより、「あなた方は選ばれたのだ」とペテロは言っているのです。

自分が受けた神の赦しに基づく愛によって離散し仮住まいの人々へ、そして今のわたしたちに語っているのです。

ペテロは続けて述べています。

「あなたがたは父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって、聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和があなたがたにますます豊かに与えられるように。」

ペテロは父なる神があらかじめ立てられた御計画と言って、父なる神が知っておられることに基づいて述べています。

それはわたしたちにはわからないことであっても、父なる神はご存知でいてくださるという神に対する強い信頼を表しています。

この神の愛である聖霊によって、わたしたちは神によって選ばれたという意味の「聖なるもの」とされたのです。

能力や功績ではなく、ただ神の恵みによって選び出され、聖なるお方につながれたというのです。

主イエスは「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいました。

「わたしもあなたがたにつながっている」と主イエスはお答えになっておられます。

人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶと主イエスはわたしたちに教えてくださいました。

つながっているとは、主イエスの愛と憐れみをお受けしているということであります。

この愛と憐れみは豊かな実を結ぶというのです。

弱さを覚え、破れを覚える時に、動かずにここに留まっていなさいと主イエスはおっしゃっておられるのです。

離れず、たとえ離れてしまったとしても、再びいつでも何度でも戻って来なさいとおっしゃるのです。

幸いはここにあります。

いつもここにあります。

失望に陥りそうになり、絶望に襲われそうになった時にも一緒にいなさいというのです。

何も言えなくなることがあっても、そのままでつながっていなさいとおっしゃるのです。

主イエスの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちの喜びが満たされるためであります。

そのように主イエス・キリストによってつながれ、清められ、すなわち聖なる者とされていることを神はお望みになっておられるのです。

この世において苦しい場面にあるかもしれない、それでも神の恵みがますます豊かに与えられるように、ペテロは手紙を通して祈り願っています。

「だから」と今日の聖書、ペテロの手紙一2章1節に続きます。

「だから、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように混じり気のない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」

困難の中にある人々に、神の恵みと平安があるようにと願う人々に向けて、ペテロはキリスト・イエスの使徒として勧めています。

悪から遠ざかりなさい。

握っていた手を離し、一切悪をかなぐり捨てなさいと言うのです。

迷うことがないように、霊的に成長することを願い求めなさい。

救いへと成長することができるよう、神の御言葉を純粋に求める姿勢を保つように。

人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の風のように変わりやすい教えに弄ばれたり、引き回されたりすることなく、愛と憐れみにより、あらゆる面でキリスト・イエスに向かって成長して行きますように。

キリスト・イエスに結ばれ、つながられ、その愛によって造り上げられていきますように。

救い主を求める者に主はお答えくださいます。

愛を求める者に、神の愛は答えてくださいます。

この世において脅かすものから、常にわたしたちを救い出してくださいます。

救い主を呼び求める声を主はお聞きくださり、苦難から常に守ってくださいます。

ペテロは言います。

「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた尊い、生きた石なのです。」

ペトロは経験を通して知り、またわたしたちは聖書の御言葉を通して知りました。

主は良い方であることを味わったのです。

恵み深く、その慈しみは絶えることがありません。

「この主のもとに来なさい」とペテロは言います。

主イエスは人々から見捨てられ十字架にかけられましたが、神のもとでは選ばれた尊い、生ける石なのです。

わたしたちは神のもとで見つめ、神のもとで判断することを聖書を通して分かち合います。

神の御心を尋ね求め続けるのです。

そこに消えてなくなってしまうものがありますが、いつまでも残り、消えることのないものがあります。

生ける石です。

生ける石である主のもとに、わたしたちは行くのです。

ペテロは言います。

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして、聖なる祭司となって、神に尊ばれる霊的ないけにえをイエス・キリストを通して献げなさい。

神の愛と赦しにより用いられる生きた石として、あなたがたは立ちなさいと言います。

そして聖霊により、霊的な家を造り上げ、神と人との間にあって仕える祭司たち、その祭司団となり、神に喜ばれる霊的ないけにえを献げることができるように。

霊的ないけにえとは、主に祈り、主をほめたたえること。

霊とまこととをもって礼拝を献げることです。

主のもとに来ることです。

そして神に受け入れられるということです。

ペテロは旧約聖書イザヤ書を用いてこう述べています。

「聖書にこう書いてあるからです。『見よ、わたしは選ばれた尊い要石をシオンに置く。 これを信じるものは決して失望することがない。』したがって、この石は信じているあなた方には掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実はそうなるように以前から定められているのです。」

主イエス・キリストは捨てられたようでありますが、肝心要の生ける石であるのです。

このお方に信頼を置く者は、決して失望することがないのです。

希望はいつまでも残るのです。

この生きた石が盤石の岩となっているからです。

この世の中にあって困惑し、困難の中にある者たちに、ペテロは続けます。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

神のものとなった民を、神は神のためにお造りになられ、「わたしはこの民をわたしのために造った」とおっしゃいます。

神の御業が現れ、神の栄光が現わされるように。

ですから、ペテロは、この世にあって生きる神の民、その愛する兄弟姉妹たちにこう述べます。

「あなたがたは『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」

わたしたちは神のもとに行き、神のもとにあって回復し、神の喜ばれる愛と憐れみへと帰り、神を知るのです。

これこそが神の喜ばれることです。

そして、わたしたちはその中に生きています。

なぜなら、今は神の民であり、神の憐れみを受けているからです。