【弟子であること】 ヨハネによる福音書 13章31節~35節
「あなたがたがわたしの弟子である」と、主イエス・キリストはお語りになられました。
今日、わたしたちはお互いに、主イエス・キリストの復活の光の中を進んでいることを、教会の歩みである教会暦は示しています。
復活節という季節は、主の勝利の日とその喜びの季節と言われています。
主イエス・キリストが罪の結びである死と滅びに勝利され、十字架の死を経て復活され、よみがえられたその喜びの季節です。
そしてまた、自然の暦においても春から初夏に向かって行く、気持ちの良い陽気の時でもあります。
光なるキリストをお迎えし、わたしたちがこのお方の光を豊かに浴びて満たされる、その喜びの季節をわたしたちは共に歩んでいます。
しかし、共に同じ時を歩みつつも、それぞれの歩んでいる生活の中で、重く苦しく、また焦燥感で圧迫され押しつぶされそうになっていることが、日々の歩みの中であるかもしれません。
それでも、主イエス・キリストの復活の光は輝き、わたしたちを照らしているのであります。
幾度となく風が吹き、雨が降るような中を歩むこととなっても、主は変わることなく、一人ひとりの心に語りかけておられるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」
わたしたちの社会には大きな不安があります。
経済のこと、健康のこと、また心を痛める事件・事故、大きな災害、日々起こる心をとらえ、心を重くする心配事、それらは消えることがありません。
わたしたちの救い主イエス・キリストも、「あなたがたには」とおっしゃって、苦難があることを全く否定せず、むしろそれらを消してしまうことなく、抹消してしまうこともなく、そのまま見つめておられます。
ありのまま、苦難に対し受け止めておられます。
そこから、すなわち不安から逃げ出すのでもなく、逃亡するのでもありません。
主イエスはおっしゃいます。
「しかし」と、あなたにお語りになっておられます。
「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」
主イエスはこの世に勝利しておられるというのです。
見つめるべきお方はこのお方であり、心を向けるべきお方はこの救い主イエスであります。
主はわたしたち一人ひとりにお語りになっておられるのです。
それは、この世に立つ時、強い風が吹き、強い雨が落ちつけるような時にも、わたしたちをとらえて離さない主イエスを土台とし、中心とすることであります。
このように、すでに「勝っている」お方をもととして、「勇気を出しなさい」と主イエスはおっしゃるのです。
古代の詩人は歌いました。
「目を上げてわたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。」
助けがそこから来る山を仰ぐのです。
前に向かって目を注ぐのです。
前に向かって目を注ぐのです。
目の前に開かれた次の一歩に目を注ぐのです。
そして、自分の足でしっかり歩め、勇気を持て、と言うのです。
わたしたちのいるこの所で、すなわち不安のただ中で、そのようでありなさいと主はおっしゃるのです。
ですから、古代の詩人は「歌え」と言います。
「新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべきみ業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いのみ業を果たされた。」
わたしたちはこの世の中で主に向かい、歌いつつ歩んでいくのです。
強い風の中でも、雨の中でも、主に向かい歌いつつ歩むのです。
主イエスの弟子たちも、主イエスが人々の罪の赦しのため苦難を受けられ、十字架の死に至られるその直前、主イエスとその弟子たち一同が食事をされた時、一同は賛美の歌を歌ったと福音書にあります。
主イエスとその後に従う弟子たちは、一緒に歌を歌ってから出かけたのです。
その時すでに主イエスご自身は、これから起こることをすべてご存知でありました。
しかし「ハレルヤ」と主をほめたたえ、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。」と歌声を合わせたのでありました。
それは、主イエスと共にあって、主イエスの生きる姿を見て、弟子たちも主イエスと共に行き、主のように生きようとするものでありました。
しかし、この世の闇は深く、主イエスの弟子十二人のうちの一人、イスカリオテのユダは、主イエスとその弟子たちの食事の席で、主イエスからパンを受け取ると、外に出て行きました。
かつて、主イエスは、食事のためにユダヤのファリサイ派と呼ばれる人々のある議員の家にお入りになられたことがありました。
そして、その席で主イエスは、このようなたとえ話をお語りになられました。
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたからおいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、「畑を買ったので見に行かなければなりません。どうか、失礼させてください」と言った。ほかの人は『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」
どの人も、この世の中においてはよいことばかりでありますが、招かれているにもかかわらず断ってしまうという、主イエスのたとえ話であります。
この世の人々は、この世の喜ばしいと思えることのゆえに、招きに応じませんでした。
そしてそのことが、まことの幸いと喜びを味わうことから外れてしまうこととなったのです。
主イエスは、その弟子たちの中から外へ外れ、出て行く者がいることをよく知っておられ、そしてまたそれを止めようとはされませんでした。
主イエスは父なる神を知っておられ、父なる神も主イエスをよく知っておられたので、そのことにとどまっておられたのです。
主イエスは従うべきお方を知っておられ、その通りに歩まれたのです。
そしてその者が自由に選ぶことができるように、愛を示されたのです。
それは苦難を受け、十字架の死に至る愛でありました。
主イエスはその愛のうちに、すべて行われることを望みになられたのです。
イスカリオテのユダは、主イエスからパンを受け取るとすぐ出て行きました。
それは暗闇に包まれた夜のことでありました。
ユダが出て行くと、主イエスはその他の弟子たちにおっしゃいました。
「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
主イエスはこの時、この場で、という他に変えることのできない時と場所で、「今や」とおっしゃいました。
それは、この世の闇の中で、不安と恐れが複雑に絡み合い、この世の力が襲い来るその時、そしてまた底深い不安がすべてを覆い尽くしてしまうかのようなその時、この世の中で主イエスは栄光をお受けになられたのでありました。
それは、父なる神の栄光を現わすようにということ、そして父なる神が行うようにと与えてくださった業を、主イエスが成し遂げられることでありました。
主イエスはこの世の、この地上で神の栄光を現されました。
それは全き愛であり、条件のない無条件の愛でありました。
主イエスはこの愛を、世界が作られる前に、父なる神の御もとで持っておられたのでありました。
その栄光が現され、神の愛と赦しが主イエスによって現わされたのでありました。
主イエスはおっしゃいます。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる。わたしが父なる神のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。」
主イエスの栄光は、その広さというよりは、その深さをお語りになっておられます。
一人ひとりのその人において、主イエスは愛を現わされます。
一人ひとりの自由な人格として、その人に対しておられるのです。
そしてその深いところにまで、主イエスは下って来られるのです。
主イエスはおっしゃいます。
「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかもすぐにお与えになる。」
主イエスは父なる神を仰ぎ見たのでありました。
不安と恐れの渦巻く中で、主イエスは手放すべきものを手放され、見つめるべきものを見つめておられました。
「わたしたちではなく、あなたの御名こそ栄え輝きますように。」
不安が募り、人は必ず欺くと思う時にも、神を信じ、人間に頼らず、神を頼りとしたのです。
まっすぐな人には、闇の中にも光が昇るのです。
その光は憐れみに富み、情け深く、正しい光です。
主イエスは弟子たちにおっしゃいます。
「子たちよ、今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すだろう。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないとユダヤ人に言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
主イエスは共にいるその弟子たちに、主イエスご自身がどこに向かっておられるのかを示されます。
それは父なる神の御もとでありました。
主イエス・キリストは人としてこの地上を歩まれましたが、この世に属しておられないのです。
しかしこの世の中で、苦しみと十字架の死により罪を赦し、人々を救われます。
そして新しい掟をお与えくださいます。
主イエスはおっしゃいます。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
主イエスは、強制はされません。
自由のうちにすべてが行われるよう望まれます。
そしてわたしたちを弟子として招いておられます。
主イエス・キリストはその愛によってわたしたちを生かしてくださいます。
父なる神と御子イエス・キリストがその愛のうちにとどまっておられるように、わたしたちがその他のものにとどまるのではなく、まことの益となる愛にとどまるよう招いておられます。
主イエスがわたしたちを愛してくださり、今もなお愛してくださっておられ、その御手は離れません。
だれも奪うことはできないのです。
この愛に生きる者は、神の御手の業に生きる者であり、神の御手の中にあります。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」と主イエスはおっしゃいます。
主イエスが愛してくださいました。
主イエスの御跡に続く者として、前を見て、今もなお生きておられる主イエスにわたしたちはとどまります。
