【すでによみがえりて】 マルコによる福音書16章1節~8節
イースターおめでとうございます。
今日わたしたちは、主イエス・キリストが十字架の死より復活されたことを特別に記念する礼拝に集いました。
キリストの復活を覚えて、この時「イースターの大逆転」と言われることがあります。
この世を覆い支配する闇によって、死と絶望の中に置かれ、すべてが支配されてしまったように見えた、しかし神は「復活」という大逆転とも言える、全く正反対の出来事をもって、死に打ち勝たれました。 これを「イースターの大逆転」と、キリスト教会の歴史の中で言われることがあります。
笑いということは、固く閉ざされたところから開かれることに通じています。
罪の支配から開かれ、脱出し、新しく始まる。
また、新しく始める、そのように開かれているのです。
わたしたちの日常生活では、いつも通っている通路が閉ざされ、通行止めとなっていることがあるかもしれません。
また、ここを通ることが時間的にも距離的にもふさわしいという経路が閉ざされていることもあります。
その先にあることを思い悩むと、心配になり、不安になることもあるでしょう。
しかし、「開かれる」という出来事が起きる時、 「今、わたしはここにいます」、「今、わたしはここに生きています」 と表明していることに気づくのではないでしょうか。
キリストはこの世に遣わされました。
父なる神の御心により、わたしたちのもとへ来られたのであります。
閉ざされ、重くなったこの世の中に、主イエス・キリストは近づき、来られました。
そして、主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため、開かれたのでありました。
しかしこの世は、その道を閉ざし、頑なに閉ざし続けようとしていました。
主イエス・キリストは、神の御心である愛と赦しを人々の間で実現するため、人々の心を開こうとされました。
しかしこの世の人々の心は固く、重くなってしまっていたのであります。
神の御業が働き、神の愛と赦しが豊かに注がれているにもかかわらず、全く受けようとしない人々がいたのでありました。
それでも、またそれだからこそ、主イエスはこの地上を歩まれ、神の国をお教えになり、神の支配について教えられました。
主イエスは神の愛と赦しによるご支配が実現するようにと、町や村で、また会堂で語られましたが、この世の人々は反抗し、妨害しました。
罪とは、神の御心の実現に反抗し、妨害し、また無知であることと言えます。
キリストは、神の憐れみが豊かに注がれ、この世の人々が救われるようにと切に願われました。
しかし、心頑なとなった人々には届きません。
罪が、すなわち神の愛と赦しのご支配が実現することに反抗し、妨害し、そのことに無知であったのです。
そればかりではなく、救い主である主イエスを受け入れられず、押しのけ、退け、排斥しようとします。
そしてついに、当時のユダヤの指導者たちは主イエスを十字架刑につけて行くことになるのです。
主イエス・キリストはそのことをすべてよくご存じでした。
その上で、すべてを受け入れ、人々の罪をその身にお受けになられました。
主イエスの弟子の一人ペトロは、主が捕らえられ十字架へ引かれていく時、主イエスを否定してしまいます。
主イエスはそのことを予告されていました。
しかも弟子ペトロは「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことなど知らないとは決して申しません」と言ったにもかかわらず、三度、すなわち完全に否定してしまったのです。
ペトロは自分の言ったことの重さにたまらなくなり、外に出て激しく泣き出してしまいます。
裁判にかけられ、罪がないにもかかわらず、主イエスの十字架刑が決定し、判決が下されます。
総督ピラトには妻から伝言がありました。
「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢でずいぶん苦しめられました。」
ピラトもキリストに罪を見出せませんでしたが、ユダヤの指導者たちの圧力、そして民衆の声に押し切られるようにして、主イエスの十字架刑は進められていきました。
十字架につけられた主イエスは 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 と叫ばれ、息を引き取られました。
主イエスは人々の罪をその身にお受けになりました。
神の御心から外れ、反抗し妨害さえする人々の罪、そして人の無責任という罪をも主イエスは受け入れ、十字架の死に至られたのです。
主イエス・キリストは自ら苦しみを受けられ、貧しい人の苦しみを決して侮らず、蔑まず、捨てることをなさいません。
その御顔を覆い隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。
主イエス・キリストにより、私たちの魂は必ず命を得るのです。
主イエスが十字架上で息を引き取られた時、エルサレムの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。
開かれたのです。
固く閉ざされた神殿の幕が裂け開かれ、神の御心がキリスト・イエスにより実現したのです。
大いなる愛と赦しが実現したのです。
主イエスに向き合って立っていたローマの百人隊長は 「本当に、この人は神の子だった」 と言いました。
ガリラヤ地方からエルサレムへ主イエスと一緒に出てきていた女性たちも、遠くから見守っていました。
この世の力が、主イエスの十字架に近づくことを、この人たちに許可しなかったのです。
主イエスが十字架につけられたのは午前9時、そして息を引き取られたのは午後3時。
キリストは6時間、十字架にかけられていたことになります。
しかしこれは通常よりも短い時間であったと云われます。
ピラトは息を引き取ったという報告を受け、不審に思いました。
しかしユダヤの安息日が始まり、行動が厳しく制限される時刻が近づいています。
主イエスのご遺体をそのまま十字架につけたままにしておくことはできないと、アリマタヤ出身の身分の高い議員ヨセフという人物は、勇気を出してピラトに、主イエスのご遺体を引き渡してくれるよう願い出ました。
ヨセフは前日の夜、主イエスを裁いた最高法院の議員でもありました。
そのようなヨセフがピラトのもとに申し出ることは、とても大胆で勇気のいることでした。
聖書はアリマタヤのヨセフについて「この人も神の国を待ち望んでいたからである」と語っています。
ピラトは主イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せてすでに死んだかどうか尋ねました。
そして百人隊長に確かめさせた上で、既に息を引き取られた主イエスのご遺体をヨセフに渡しました。
ヨセフは天布を用意し、ローマ兵の手を借りながら主イエスを十字架から降ろし、その布で巻き、岩を掘ってつくってあった墓に納めました。
墓の入り口には大きな石を転がして蓋をしました。
主イエスと一緒にガリラヤから出てきていた女性たちは、主イエスのご遺体を納めた場所を見つめていました。
全世界が墓のようでありました。
深い悲しみと深い嘆き、そして重い沈黙の後、安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメは、主イエスのご遺体に油を塗るため香料を両手いっぱいに買いました。
そして週の初めの日、すなわち日曜日の朝、日が昇るとすぐ墓に行きました。
この人たちは、すでに見ていた墓の入り口の大きな石のことを思い出していました。
閉じられている。
しかも大きく重く、動かすこともできない。
「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか。」
この人たちは墓に急ぎながらも、どうすることもできないことを思って話し合っていました。
ところが「目を上げると」と聖書にはあります。
この人たちは暗く重い気持ちでいたからでしょうか、無我夢中で急いで視界が狭くなっていたのでしょうか。
目を上げてみると、石はすでに転がしてありました。
石は非常に大きかったのであります。
女性たちはどうしてなのかと不思議に思いながらも、墓の中に入っていきました。
すると、右側に白く長い衣を着た若者が座っているのが見え、女性たちは非常に驚きました。
白い衣の若者は言いました。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方はすでによみがえり、ここにはおられない。納められた場所はここである。」
ガリラヤ地方から主イエスと一緒に出てきた女性たちは、主イエスのご遺体を墓の中に見出そうとしましたが、白い衣を着た若者、主の御使いは「ここにはおられない」と言います。
ですので、それだからこそ御使いは言います。
「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。 あの方はあなたがたに先立ってガリラヤに行かれる。かつておっしゃっていた通り、そこでお会いできる。」
女性たちは大変驚き、また恐ろしくなって墓を出て逃げ去りました。
震え上がり、正気を失っていました。
そして誰にも一言も語りませんでした。
しかし、開かれました。
すでによみがえり、復活された主イエスが、その後、女性たち、そして弟子たちに現れたのでありました。
御使いが「ここにはおられない」と言っていた墓の場所ではなく、主イエスご自身が一人ひとりに向かい、主の方から見つめ、会ってくださったのです。
何にも妨げられることなく、復活の主イエスにお会いできます。
「ここにはおられない」と言われていたお方が、ここにおられるのです。
わたしたちが新しい命に生きるためです。
古い自分がキリストとともに十字架につけられ、罪に支配された体が滅ぼされ、神の御心である愛と赦しの支配へと開かれたのです。
わたしたちはキリストと共に死に、キリストと共に生き、神に対して生き、存在しています。
わたしたちの魂はこの豊かさを楽しみ、喜び、祝うのです。
よみがえり、今も生きておられるキリスト・イエスに見出されたわたしたちは、この世にあって生きることへと開かれ、神の喜びを受け、感謝し、大いに喜ぶのです。
