【福音生涯】 ガラテヤの信徒への手紙1章6節~10節
新しい月、九月に入り、残暑が引いていき、朝夕の涼しさから少しずつ秋の気配が増してまいりました。わたしたちはこの教会礼拝堂に、それぞれの場から、またそれぞれの思いを持って集まってまいりました。
暑い夏を通り過ぎ、喜びを持って来られた方も、また重荷を抱えて来られた方々もおられることでしょう。
与えられた生涯を福音に生きた人物、それがパウロという人物でありました。
それは一般的に社会で用いられる「生涯現役」ということではなく、福音によって立ち上がり、福音によって歩み、そして福音によって希望を持つ、その生涯であったということです。
一般的な意味での生涯現役というのは、何かを行い続けるということでありますが、福音生涯というのは福音によって生かされ続けるということであります。
何かを行うことができなくなって行くということもあるかもしれません。
これまで続けて行ってきたことができなくなってしまったということもあるかもしれません。
しかし、福音によって生かされ続けるという福音生涯は、人生のどの時、どの季節であっても、福音の希望に立ち続けるのであります。
わたしたちの主なる神は、わたしたちをこの世の最後の一息まで、福音の光の中を歩む者として、絶えず招いておられるのです。
この絶えず招いておられる神に対して、わたしたちは忙しく心を閉ざすかのようにして過ごしているのかもしれません。
しかし今日、福音の日、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神を、わたしたちは祝い、礼拝するのです。
それはどんな状態であっても、何かできるようになってから、何かを行ってからではなく、そのままのわたしたちを受け入れ、語りかけ続けておられる神を礼拝するのであります。
神を賛美し礼拝するところに、わたしたちの慰めと励まし、そして力があります。
その喜びの力の源は、永遠の命の希望から来ています。
生涯現役から福音生涯へと、神によって福音によって変えられた人物、それがパウロでありました。
パウロは今日の聖書、ガラテヤの信徒への手紙の始め、1章1節で自身のことをこう述べています。
「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。
神により福音生涯となったパウロは、その歩む人生のどの場面であっても、福音によって生かされ、福音を証しし、福音の希望に立ち続ける歩みをしておりました。
そのパウロは、父なる神によって使徒となったのだと言います。
使徒というのは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える者であります。
そしてその福音とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。
主イエスは人々の罪の赦しのため、苦難をお受けになられました。
捕らえられ、鞭で打たれ、悪口を浴びせられ、茨の冠をかぶせられ、罪がないのに罪人たちとともに十字架にかけられました。
手と足に太い釘を打ち付けられ、十字架上で息を引き取られました。
そのご遺体は布にくるまれ、一度墓に納められましたが、三日後に主イエスは復活されたのでありました。
その後、主イエスは天に上げられ、神の右の座にお着きになられ、今も生きておられます。
このお方によってわたしたちは救われたのです。
このキリスト・イエスの福音を、パウロは宣べ伝えたのです。
そしてその福音は、人々からでもなく、人を通してでもなかったとパウロは言います。
ただキリスト・イエスと、キリスト・イエスを復活させた父なる神によると言うのです。
そしてただこのお方によって、福音を宣べ伝える使徒となったとパウロは語るのです。
今日の聖書、ガラテヤの信徒への手紙のガラテヤ地方とは、現在のトルコ中央部、その中心都市は現在のアンカラです。
パウロはそのガラテヤ地方に宣教旅行に出かけ、第一回宣教旅行は南側、第二回・第三回は北側を巡って教会を設立したのでした。
しかしこのガラテヤの信徒への手紙は、パウロの他の手紙とは違って、冒頭の挨拶の次にやや厳しいとも言える言葉から始まっています。
それは、「人々からでもなく、人を通してでもなく」という言葉から、神の権威を持って語り始めているということからも見て取れます。
わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったキリストにより、パウロは使徒としてガラテヤの教会の人々に語り始めているのです。
パウロはガラテヤの教会の人々に温かな思いを持って述べ始めるのですが、その与えられた福音を明確にし、キリストの十字架が虚しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるのです。
パウロはガラテヤの教会の人々にこのように語ります。
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」
もともとパウロはユダヤのファリサイ派、律法学者であり、キリストの福音を宣べ伝える使徒となってからの宣教旅行においても、ユダヤの会堂を巡って教えておりました。
そしてキリストの福音により教会を設立し建て上げることとなって行くのですが、パウロが次のところへ向かって去った後に、キリストの福音から外れたことを人々に伝える者たちが教会に現れたということであったのです。
それはユダヤの割礼を含めて律法を厳守しなければ救われないというものでありました。
しかしパウロの宣べ伝えるキリストの福音は、キリスト・イエスを信じることによって救われるということであり、信仰によって救われることであり、その信仰は神によって与えられた信仰であります。
これが福音であります。
パウロはキリスト者であり同労者でもある者にこう述べています。
「作り話や、切りのない系図に心を奪われないように。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは自分の言っていることも、主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。」
パウロは、律法は正しく用いるならば良いものであると言います。
しかしパウロは、キリストの福音とは異なったものへと早く離れ、乗り換えようとする人々に驚いているのです。
それは主イエスが例えでおっしゃるように、根がないのでしばらくは信じても、試練に会うと身を引いてしまう人たち、途中で人生の思いやつらさや富の快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちと言うことができます。
その人たちに対してパウロは驚いているのです。
そしてパウロは言います。
「ほかに福音と言っても、もう一つの別の福音があるわけではなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなた方に告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせるようならば、呪われるがよい。」
パウロはキリストの福音の他に福音はないと言います。
人に信仰と希望と愛をお与えになり救われるのは、キリストのほかにはないというのです。
そしてそのキリストはわたしたちの間に、またあなたの内におられるのです。
ですから、惑わし、そらし、覆し、変質させようとすることに、パウロは驚きを隠せないのです。
パウロはやや強い口調でこう述べます。
「わたしたちが前もって言っておいたように、今またわたしは繰り返して言います。あなた方が受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」
パウロは繰り返し警告しているのでありますが、それは敵対しているということでは必ずしもありません。
キリストによる神の愛と赦しから惑わされ、そらされ、覆され、すっかり変質してしまう、この世の力に押しつぶされそうになってしまっている人々を、何とか助けようとしているのです。
「キリストの福音に反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」というのは、「神の怒りに渡されよ」「神に委ねられよ」ということであり、パウロは神に委ねると言っているのです。
パウロは言います。
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは何とかして人の気に入ろうとしているのでしょうか。もし今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」
パウロの人生は神に認められ、受け入れられ、福音に委ねられていました。
人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためであったのです。
わたしたちの大いなる深い喜びはここにあります。
神の喜びです。
神とともに、キリストとともに、そして聖霊とともにある、本当の自分という命の喜びです。
救い主キリストの福音が与えられた、その喜びの福音生涯が、今ここにあなたに備えられています。
