【労苦とともに】 コロサイの信徒への手紙1章24節〜29節
「労苦している。」
そのように今日の聖書の言葉を記した使徒パウロは述べていま
わたしたちは、この世界の中にあって、労苦と言われるものを避けたいもの、また減らしたいものと感じます。
苦しみから遠ざかり、また心を閉ざしておきたいと感じることも多いかもしれません。
この世界の中において、多くのさまざまな出来事・経験を経ると、恐れと不安を抱くこともあります。
かつて、旧約聖書の創世記に、ヤコブという人物が登場いたします。
現代のわたしたちもそうでありますが、旧約聖書においても、それぞれ個性を持った人物たちが出てまいります。
ヤコブという人の名は、聖書の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と云われるように、旧新約聖書を通して人々の救い、神の救いの歴史を語る上で重要な人物となっていると言えます。
それは、ヤコブという人そのものが、というよりは、ヤコブの経験した出来事に神の御心が現わされているということによります。
ヤコブはこの世界の中で、自分の経験した出来事に、自分の思い考えが実現することをまず第一に追い求めていたのでありました。
自分の力によって、その望むところのものを手に入れたいと強く願っていたのでした。
そのように望み、この世の中で成功したいとヤコブは願っていたのでした。
彼は父イサクから、兄エサウが受けるはずだった家の長子の権利・特権を騙し取ってしまいました。
そのことにより、ヤコブは兄さんから憎まれ、やがて兄エサウは弟ヤコブに対して殺意を持っていることが知らされ、明らかにされて行きます。
そこでヤコブは逃亡し、行く先々でさまざまな経験をして行くこととなるのですが、ヤコブはその所々で労苦しながらも巧みに自分の力を発揮し、多くの年月を重ね、家族を得、多くの財産としての家畜を得ることとなったのでありました。
この世の目から見れば、ヤコブはそれまでにさまざまな経験・出来事を経て成功した人物ということもできるかもしれません。
しかしある時、主なる神がヤコブにおっしゃったのでありました。
「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。私はあなたに幸いを与える。」
ヤコブは主なる神の御言葉に聞き従おうとするのですが、大変大きな恐れがやって来ます。
それは兄エサウのことです。
時はすでに約二十年以上経っていました。
しかし、ヤコブが家から逃亡したのは、兄エサウから長子の権利・特権を騙し取ったことにより、エサウから憎まれ、殺されそうになったということであったからです。
主なる神が「わたしはあなたに幸いを与える」とおっしゃっても、ヤコブは心の底に何か非常に重々しいものを持っていました。
ヤコブは主なる神にこう言います。
「どうか兄エサウの手から救ってください。
わたしは兄が恐ろしいのです。
兄は攻めてきて、わたしをはじめ家族を殺すかもしれません。」
その夜、ヤコブは恐れながらも、兄エサウへの贈り物として何百匹にも及ぶ山羊や羊や牛を選び出し、それを自分よりも先に送り届けて、その後に行くこととしました。
ヤコブは自分に与えられた知恵を尽くし、計画を立て、自分の力で切り抜けようとします。
ヤコブは自分自身の力を発揮してきたのです。
ところが故郷の家を前にし、兄エサウと再会することになる前の夜、ヤコブは贈り物を先に送り、家族を先に渡らせ、持ち物を先に渡らせてしまうと、ただ一人後に残りました。
するとある人が現れます。
聖書はこの「ある人」とは神の使いであるとしていますが、このある人・何者かが夜明けまでヤコブと格闘します。
非常に長い時間、神の使いであればすぐにヤコブを完全に打ち負かすこともできるのにもかかわらず、神はヤコブと格闘し続けることをお許しになられます。
その格闘の中、ヤコブは腿の関節を打たれ、外してしまいます。
しかしそれでもヤコブは離しません。
自分の力で何とか立とうとするけれでもできないヤコブは、しがみつき、離そうとしません。
その時、何者かと言われるその人はヤコブに勝てないと見て言います。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから。」
しかしヤコブは答えています。
「いいえ、祝福してくださるまで離しません。」
それまで自分の力で手に入れてきたヤコブが、自分の力で立つことはできない。
それでもしがみつき、離れようとしないヤコブ。
するとそのある人は言います。
「お前の名は何というのか。」
「ヤコブです」と答えると、その人は言いました。
「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。」
ヤコブは自分の力で生きてきたのです。
名前を尋ねられたのは、「あなたは誰なのか」「あなたはどのように生きてきたのか」が問われたのです。
そして「もうそうではない。
ヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。
神と人と戦って勝ったからだ」と言われるのです。
ヤコブは格闘し、弱さの中でも神を手放さなかったのです。
そして神の祝福を得たのです。
これまで人間的な力で祝福を得ようとしていたヤコブは、神ご自身から祝福を受ける者へと変えられました。
そのことは、それまでのことを背負いながらも人生の新しい段階へと入り、生き方が変わったことを示しています。
ヤコブは格闘により腿を痛め、足を引きずって歩いて行きます。
神との出会いによって傷がなくなったということではありませんでした。
その痛みを抱えながら、それにもかかわらず神の祝福の中を歩む人となったのでありました。
その後に、兄さんが走ってきてヤコブを迎え、抱きしめられ、首を抱えて口づけされ、ともに泣いたという経験を致しました。
それまで多くの労苦がありました。
自分の力をまるで松明の灯りが燃焼するかのように、力の限りを尽くしてことに当たってきました。
格闘し、痛みを負いながらも変えられて、恐れていた争いから助け出されたのでありました。
その争いは人と人との間ということもありましたが、自分自身の中にあったということもできます。
神と向き合うとき、労苦とともに栄光があったのです。
私たちの救い主イエス・キリストに出会ったパウロは、コロサイの町のキリスト者たちに神に感謝しつつこう言いました。
「あなた方がキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべて聖なる者たちに対して抱いている愛について聞いたからです。
それはあなた方のために天に蓄えられている希望に基づくものです。」
パウロは、人が労苦とともに歩むのに大切な信仰と愛、そして希望について触れています。
私たちの希望は私たちの中だけに置かれているのではなく、希望は天に置かれ、蓄えられ、天に保管されていると言っているのです。
ですから私たちがこの世で思い思い感じているように、増えたり減ったり消えてしまうのではありません。
家族のため、病のために誰にも理解されない労苦と共にある人。
しかしそうではあっても、希望はわたしたちの力によって保管されているのではなく、天に蓄えられているのです。
それは日曜日だけでなく、家庭で、職場で、また苦しい時、傷ついた時、労苦と共にある時においても変わりがありません。
ですから神から離れず、しがみつくことができるのです。
そしてパウロは神の御子イエス・キリストを語ります。
キリスト・イエスの苦難と十字架の死、そして復活によってわたしたちを救い出してくださったのです。
わたしたちの労苦は救われるためではなく、救われた者として生きる労苦なのです。
ですからコロサイの信徒への手紙1章24節でパウロはこう述べています。
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
パウロは、苦しむことをただ単に苦しみとすることはしませんでした。
キリスト・イエスのために喜びとしていました。
キリストがわたしたち一人ひとりのために苦しまれたこと、そのキリストの働きと結びついていたのです。
だから「苦しみ」を喜びとし、キリストと共に生きることを喜びとし、神に向かって生きたのであります。
それは、キリストの体である教会のためでもあったのです。
そしてパウロは言います。
「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」
そして、キリストの体である教会を通して伝えられ、届けられている働きは、今この世界の歴史の中で続いています。
キリスト・イエスの福音を運び続けています。
パウロは、その務めを神から委ねられたものとしていたのです。
すなわち、自分の人生は自分自身のものではなく、神から委ねられたものであり、それを感謝を持って受け止めていたのです。
感謝があるので喜びがあるのです。
委ねられたことに感謝し、伝え、仕えることに喜びを持ってパウロは述べています。
「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」
秘められた計画は、秘密であり、誰にもわからない謎ではありません。
今やキリスト・イエスにおいて明らかにされているのです。
キリストがあなたの内におられ、わたしたちの間におられるということです。
人の思い、人の行いを超えて、キリストがわたしたちの内におられます。
そしてキリストがお働きになっておられます。
ですから労苦することができるのです。
希望がわたしたちを救うのではなく、キリストがわたしたちを救ってくださるのです。
キリストの力は力強く、絶大であります。
ですから状況が全く変わらなくとも希望があり、長い長い夜でも希望があり、涙の中にも希望があり、労苦する時にも希望があるのです。
栄光の希望、キリストがそこにおられるからです。
パウロは言います。
「このキリストをわたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このためにわたしは労苦しており、わたしの内に力強く働くキリストの力によって戦っています。」
パウロはキリストを知らせ、教会はキリストを知らせています。
キリストに結ばれて成熟した人となるように。
慰められる者から慰める者となるように。
愛される者から愛する者となるように。
キリストに結ばれて成熟するように、パウロは労苦し歩んだのです。
その心にはキリストがおられるという喜びがあり、希望があったのです。
この世では数多くの労苦があり、涙があり、疲れがあります。
しかし、わたしたちの内におられるキリストの栄光の希望があります。
わたしたちが労苦するから、わたしたちが仕えるから、わたしたちが作り出すから、ではありません。
キリストがおられるからです。
キリストがわたしたちの、またあなたの栄光の希望です。
ここにキリストがおられます。
ですから、わたしたちの労苦の中に、またわたしたちの弱さの中に、キリストは力強く働き、わたしたちはキリストの力によって生きるのです。
