【待望している人たち】 ヘブライ人への手紙 9章23節~28節

「キリストは、ご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださるのです。」

今日、わたしたちはこの公同の礼拝において、敬老祝福の祈りの時を持ちます。 これまでの長い人生を歩まれて来られた方々への感謝と、その歩みを敬い、神さまの福音がさらに豊かにありますようにと祈り願います。 そして今ここにおられます全ての世代、年代の方々の歩みの上にも、主の守りが豊かにありますようにと願います。

一人ひとりが、それぞれに異なる時代の中を歩んでおられると言うことができます。

家族のために、また人のために支え、働き、仕事に励み、さらに教会を支え、地域を支えて、いろいろな時を通ってこられたことでありましょう。

その一人ひとりに、誰にも語り尽くせない物語があります。

これまで与えられたこと、信じたことに背を向けず、本当によく歩んで来られたのです。

ここまで来るまでに、いろいろなことがありました。

嬉しかったこともありました。

苦しかったこともありました。

 「あの時こうしておけばよかった」という時もあったかもしれません。

 「明日は今日より、より良くなっている。」そう思って一日一日を歩んで来られたということもあるでしょう。

しかし、わたしたちの心の内には不安や心配というものもあります。

これから自分はどうなっていくのだろう。

身体が弱くなってきた。

大切な人との別れを経験した。

誰にも言えない悩み、人には話さない苦しみ、また人には見せない涙もあります。

数多くの日々、わたしたち一人ひとりの人生は決して短い物語ではありませんでした。

そしてその一人ひとりの人生には、神さましか知らない、神さまにしか分からない物語があるのです。

人には分からない、また忘れてしまうかもしれない。

しかし今日、わたしたちは聖書が語っていることを共に聞きます。

あなたの人生を神は忘れておられない。

聖書はそのことを、神の御子イエス・キリストに現わされたと語っています。

神はその愛する独り子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、わたしたち一人ひとりにお与えくださいました。

今日の聖書、ヘブライ人への手紙1章1~2節にはこうあります。

「神は、かつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」

今、わたしたち一人ひとりの人生は、かつての方々と多くのかたちでつながっており、また多くのしかたで先祖とつながっているのです。

そして今、聖書は「この終わりの時代」と言って、一つの大きな時代の区切りを設けています。

「終わりの時代」という時代の前には、別の時代がありました。

その時代は終わり、新しい時代が始まった。

それが「終わりの時代」であり、しかしそれは大いなる始まりであり、わたしたち一人ひとりを確かに支える時代が始まったということです。

この大きな出来事は、キリスト・イエスにおいて始まりました。

聖書はこの神の御子イエス・キリストを、万物の相続者と神は定め、また御子によって世界を創造されたと語っています。

終わりの時はキリスト・イエスにおいて始まり、そのキリストはすでに万物の相続者と定められています。

神は世界をキリストによって創造されたからです。

ということは、終わりの時代というのは、全てが終わり消えてなくなるということではなく、新しく始まって行くことであり、キリストによってつくり上げられて行くということです。

神はキリスト・イエスによってこの世を支え、わたしたち一人ひとりを支えようと意図しておられるのです。

神の意図、神がなそうとされていること、その考えは全てキリスト・イエスに現わされています。

このお方はわたしたち一人ひとりの救い主です。

救い主キリスト・イエスは、人々の罪の赦しのため、一度十字架にかかり死につかれましたが、復活し、天に上げられ、今も生きておられます。

キリスト・イエスはわたしたち一人ひとりの救い主です。

聖書が伝えている福音の言葉は今も生きています。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通し、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

キリスト・イエスご自身は神の意図を現わしておられます。

そしてその福音は、わたしたちの思いや考えを見分けるのです。

そのように福音は、わたしたち一人ひとりを生かすのです。

神はわたしたち一人ひとりを決して忘れてしまうことなく、見通してくださるのです。

しかし、今日の聖書、ヘブライ人への手紙の背景にあるのは、ユダヤの人々の宗教的・政治的中心地であるエルサレムの危機が迫っている頃でありました。

そして事実、歴史的にエルサレムはローマ帝国の強大な軍事力により破壊され、崩壊してしまいます。

このヘブライ人への手紙が書き記された時は、まだその前であると云われます。

しかし向かっている方向は、ユダヤのエルサレムで行われていた宗教的祭儀をすべて喪失してしまうという、大きな危機に向かっていたのです。

破壊され、なくなってしまうという悲しみ、その痛みは大変大きな衝撃でありました。

しかし、であります。

神の言葉は生きています。

そしてその力を発揮します。

どんなに辛くても、どんなに悲しくても、神の御言葉は生きており、力を発揮します。

ここに福音があります。

そしてここに救い主イエス・キリストがおられます。

神の意図は救いのため、わたしたちが福音の言葉によく聞き、キリスト・イエスに従うことです。

このお方によって神は、わたしたち一人ひとりにさらに優れた希望を与え、さらに優れた約束を与え、そしてさらに優れた契約をお与えくださったのです。

結ばれた契約とは、主なる神がおっしゃった生ける御言葉です。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべてわたしを知るようになり、 わたしは彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」

このように神は、さらに勝った契約をお与えくださいました。

キリスト・イエスにより、古いものは過ぎ去り、新しいものが今ここにあるのです。

わたしたちの不義をお赦しになるため、主イエス・キリストは血を流され、神に献げられました。

その血によって、わたしたち一人ひとりは清められたのです。

血を流すことなしには罪の赦しはありえないからです。

これは人が成し得ることではなく、神がなしてくださったことです。

時代が大きく変化していく中でも、ヘブライ人への手紙は「新しいもの」「今ここにあるもの」「わたしたち一人ひとりにあるもの」について述べています。

そして今日の聖書、ヘブライ人への手紙9章23節にはこうあります。

「このように、天にあるものの写しはこれらのものによって清められねばならないのですが、 天にあるもの自体は、これらのものよりも優れたいけにえによって清められねばなりません。」

「天にあるものの写し」、その写しとは、この地上にあるものです。

ヘブライ人への手紙が語っているところでは、礼拝を行う聖なるところ、聖所が天の上にあり、その写しがこの地上にあるということです。

この地上にある聖所は、天の上にある聖所の写し、または影にすぎないというのです。

地上では写しであり影であるので、本体は天の上にあるというのです。

エルサレムの神殿はこの地上の聖所であり、その聖所で仕えるのは大祭司です。

それに対して、天の上の聖所で仕えるのはキリストです。

これが本体です。

そして今、私たちはこの地上の生涯にあってキリストを礼拝しているのです。

キリストはわたしたちの救いのために、苦難と十字架により血を流され、命を献げ、わたしたちを清めてくださいました。

キリストは、真のものの写しにすぎない、人間の手で作られた聖所にではなく、天そのものに入り、 今や私たちのために神の御前に現れてくださったからです。

キリストは写しではなく、影でもなく、本物・本体そのものにお入りになったのです。

それはわたしたちのためでした。

わたしたち一人ひとりのために、神の御前に現れ立ってくださるのです。

キリストはあなたのために、神の御前に立っておられるのです。

これが人生を支える最後の土台です。

キリストがわたしたちのために何をしてくださったのか。

ここに救いの確かさがあります。

「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 たびたびご自身をお献げになるためではありません。

もしそうだとすれば、天地創造の時からたびたび苦しまねばならなかったはずです。

実際は、世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて、罪を取り去るために、現れてくださいました。」

聖書は「世の終わりに、ただ一度」と語っています。

「世の終わり」というのは、今ここで新しく始まった終わりの時代です。

この世の終わりにただ一度、この「ただ一度」というのは、一度限り。

なぜかというと、それは完全で十分であるからです。

キリスト・イエスの十字架はただ一度、完全で十分であり、わたしたちの人生もただ一度、キリストがご自身を献げられたことによって支えられているのです。

キリストはわたしたちのこれまでを見て、「もっと頑張れ」とはおっしゃいません。

すべて、ただ一度。

十字架と復活をもって、すなわち愛と赦しを語られます。

聖書は語ります。

「人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださるのです。」

聖書は、死があることを隠すことなく語っています。

そしてその後があることを語っています。

裁きを受ける、それは神の御前に立つということです。

そしてそれが定められ、確定しています。

しかしその時、あなたと一緒に神の御前に立つお方がおられます。

キリスト・イエスです。

ですから、人生は長く生きたか短く生きたかではなく、誰と生きたかなのです。

最後にどなたの御前に立ち、そこに一緒におられるお方はどなたなのか、それが大切なのです。

そしてキリストが何をしてくださったのか、なのです。

多くの罪を負うためただ一度身を献げられましたが、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださるのです。

わたしたちは死を待っているのではありません。

キリストを待っているのです。

老いるということは、単に死に近づくことではなく、キリストに近づくことです。

人生においては痛みも、病も、衰えもあります。

孤独もあり、別れもあります。

しかしこの苦しみの中において、キリストが来てくださる。

キリストにお会いするという希望があります。

この希望の光はわたしたちを最後まで見捨てません。

わたしたちの涙も、祈りも、労苦も、そして失ったことも、愛したことも、主はすべてご存知です。

この平安の光の中を、わたしたちは歩むのです。

なぜなら、キリストは、ご自分を待ち望む人々に救いをもたらすために現れてくださるからです。