【いつまでも残る最も大いなるもの】 マルコによる福音書12章28節~34節
主イエス・キリストから「あなたは神の国から遠くない」と言われた人がおりました。
それは、律法学者と言われる人でありました。
夏のとても暑い熱気が落ち着き、万物があらたまる季節となりました。
しかしながら、国内外を問わず、この世界では大規模な自然災害により大きな痛みを負っておられる方々もいます。
心からお見舞いを申し上げますとともに、神さまの助けと支え、そして心と身体をお守りくださいますようにお祈りいたします。
主イエス・キリストは、この世の中を巡り歩いておられました。
神からこの世に遣わされ、人として主イエスは町や村を巡り歩かれました。
どこどこの町に入り、その家に入り、また人々の間に入って行かれたのでありました。
主イエスが歩まれた範囲というのは、現在のわたしたちが思い描く「世界」と比べると、それほど広大な範囲でも長期間でもありませんでした。
そして、紀元一世紀の当時においては、この世の国の王や皇帝の政治的な力や財力の方がはるかに強力であったと、この世の目からは見えたかもしれません。
この世を歩まれた人としての主イエスは、その与えられた時と場所において、神により与えられた働きを父なる神と共になされたのでありました。
主イエスは、ご自身の招かれた弟子たちと共に、ガリラヤ地方から都エルサレムに入って行かれました。
ガリラヤ地方は、主イエスが幼い頃からお育ちになり、成人となられ、そして「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え始められた地域でありました。
主イエスはその地域において、奇跡とも言われる病の癒しを行われました。
それは、神の国が近づいているということのしるしともなりました。
そのように主イエスは人として歩まれ、神の人として神の御心を現しつつ歩まれたのでした。
あなたの生活の中に、今あなたが直面しているそのただ中に、主イエスは入って来られるのです。
それはわたしたちが自分から願ってということではないかもしれません。
自分は全く違う方を見ているかもしれませんが、魂の深いところでは救い主が来られることを、そして救い主がおられることを待ち望んでいる。
そのところに主イエス・キリストは入って行かれたのでありました。
そして主イエスは、人々の日々の暮らしと生活にも深く関わっておられました。
信じる信仰の領域、当時のユダヤの宗教的・政治的中心であった都エルサレムに主イエスは入って行かれたのでした。
そのところで、人々は魂の深いところで求めてはいるものの、日常的な事柄の連続する中で、何を信じ、何を行っているのかがわからなくなってしまっていました。
表面的には正しいことが行われ、また正しいと言われることを行っていたのでした。
主イエスは都エルサレムの神殿にお入りになり、こう強く教えておっしゃいました。
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」
主イエスのおっしゃることに、人々は大変驚いたのでした。
人々はこれまで正しいと思って行ってきたこと、慣習だからと行っていたことを、主イエスが指摘されたからです。
主イエスは、この世において奇跡を行うために来られたのではなく、人々の目を覚ますために来られたと言えます。
それは、父なる神が示された「真の人となりなさい」という道から外れてしまっているところから、目を覚ましなさいと呼びかけているのです。
眠っていたり、まどろんでいたり、この地上に執着していたりする人々も大勢いたことでしょう。
主イエスのおっしゃること、主イエスが行うことに大変反発し、反感を覚える人々もいました。
しかし主イエスは、万物が改まるかのように「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」と、エルサレム神殿の境内にてお語りになられました。
それは主イエスの宣言でもありました。
「神殿とはあなたであり、私である」ということです。
そのところに祈りがあり、涙の祈りがあり、喜びの祈りがあります。
ただ黙している時もあり、語る時もあります。
祈りの交わりがあり、それは家のようだというのです。
そこにいる人々が一つの家で交わっているようであり、一つの食卓を囲んでいるように、貴重な経験を共にしている家のようだと、主イエスは「わたしの家は祈りの家」とおっしゃったのでありました。
主イエスの教えに、その姿にハッとして大変驚いた人々もいましたが、エルサレム神殿の祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、主イエスをどのように殺そうかと図ることとなったのです。
当時のユダヤには二つの大きな勢力がありました。一つはサドカイ派、もう一つはファリサイ派でありました。サドカイ派は神殿を中心とした祭司や貴族たち、ファリサイ派は律法学者たちを代表としていました。
ファリサイ派の人々は律法を重んじていましたが、サドカイ派の人々は復活を認めていませんでした。そのサドカイ派の人々が主イエスに復活の時について尋ねました。
主イエスはその問いの内容に大きな思い違いがあることを指摘されました。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そのような思い違いをしているのではないか。死者の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
死者が復活することについては、モーセの書、柴の箇所で神がモーセにどう言われたか読んだことがないのか。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
主イエスは、復活する時にはめとることも嫁ぐこともないとおっしゃって変容することを示されました。
それは必ずしも人が思い描く姿形ではありませんが、この世から新しい形に作り替えられ、新しく始まることを表していると言えます。
そして天使は、愛し、保護し、導く存在と言われます。
愛の光で照らし、包み守り、その光は導きを与えるのです。
わたしたちは天使によっても愛され、守られ、導きが示されると言えます。
主イエスはおっしゃいます。
「神は生きている者の神なのだ。」
旧約聖書の族長時代と云われるアブラハム、イサク、ヤコブはすでに亡くなっていますが、神は彼らを神の御もとに置いておられるのです。
そして今も神にあって生きており、神により必ず復活することを主イエスは語られます。
ですから、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
それほどまでに神の大いなる力が働いているのであります。
神から離れ、外れてしまい、嘆きと悲しみに置かれている魂を、神は救おうとされます。
主イエス・キリストの十字架の死と復活、すなわち主イエス・キリストの命によって救おうとされ、わたしたちは確かに救われたのです。
このお方とともに生きる者となったのです。
これは神の大いなる愛によるものです。
神は復活の偉大なる力によって、その愛を現わしてくださったのです。
復活はないというサドカイ派の人々に、主イエスは復活の力を語り、神の大いなる愛を示されました。
すると、これらの話を聞いていた一人の律法学者が主イエスに尋ねます。
律法学者たちは律法を重んじていましたが、主イエスが復活の力を語られるのを見て、ここで律法について尋ねたのです。
しかし、ここで尋ねたのはある一人の律法学者でした。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
この律法学者は真剣に耳を傾け、主イエスにお聞きしました。
それは、いつも「どれが第一に大事な律法か」ということを学者たちで議論していたからでもありました。
律法には「こうしなさい」という命令形の戒めが二百四十八、「こうしてはいけない」という禁じる戒めが三百六十五、合計六百十三の規定があったと云われます。
これらを正確に取り扱い、適用していくのは大変難しいことでもありました。
そのようなことからも「どれが第一でしょうか」と聞いたのでありました。
主イエスはお答えになりました。
「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに優る掟はほかにはない。」
主イエスは聖書からの引用、それは旧約聖書の申命記とレビ記、すなわちモーセ五書と呼ばれる律法の書の中からお答えになられました。
「神を、そして隣人を全力をもって愛せよ」という教えです。
心・精神・思い・力をもってというのは、全人格をもってということです。
部分的ではなく、全部、すべてをもってということです。
それはわたしたちのもてる力を全力で尽くすということでもありますが、同時にすべてを委ねるということでもあります。
主のもとに、すべてのものから手を離し、今、目の前におられるお方とともにあるということに満たされることであります。
自分が神の大いなる愛に満たされているように、あなたの隣人も同じなのだから愛しなさい、というのです。
律法学者は主イエスに言いました。
「先生、おっしゃる通りです。『神は唯一であり、ほかに神はいない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
主イエスは、律法学者が適切な答えをしたのを見ました。
そして「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃいました。
その時、もはや誰もあえて質問する人はいませんでした。
いつまでも残る最も大いなるものを、この一人の律法学者は、数多くあるものの中から一つを、主イエスにより見出したのです。
すべてを貫いているのは愛だということ。
人の正しさではなく神の愛がすべての軸となっていることが第一だということを見出したのです。
神の愛に在り、その愛を分かち合うことに気づいたこの人に、主イエス・キリストはおっしゃったのです。
「あなたは、神の国から遠くない。」
いつまでも残る最も大いなるものとお会いし、見たからです。
