【主の言葉を賛美した】 使徒言行録 13章44節~52節
「主の言葉を賛美した」と、今日わたしたちの開きました聖書は語っています。
新約聖書、使徒言行録13章です。
わたしたちの日常生活において、何かを賛美するということがあるかもしれません。
それはある物であったり、ある人であったりするかもしれません。
それを褒め称える、称賛するということがあります。
しかし、大変難しいことではありますが、間違ったものを褒め称える道を進み続け、熱狂してしまうことにより、豊かであったものが解体され、破壊されてしまうということがあります。
旧約聖書の創世記では、バベルの塔について記されています。
人々は「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と、自分たちの名を上げることが称賛されたのでありました。
巨大な塔を建て上げることに熱狂したということでありますが、その結果として言語が混乱し、人々の力と力を合わせる協力と一致とが崩壊し、共同体が破壊されてしまいました。
また、旧約聖書の出エジプト記では、金の格子事件がありました。
イスラエルの民の指導者モーセが神とお会いし、御言葉を授けていただくために山に登りましたけれども、山からなかなかモーセが降りてこない。
人々はモーセが山に登っている間、不安になってきて、ついに金の格子の像を作って、それを賛美し熱狂したのでありました。
彼らは待つことができず、間違ったものを褒め称え、称賛したのでありました。
その結果、神との約束・契約が危機に陥り、共同体は混乱し、神と人、そして人と人との関係性も破壊されることとなってしまったのです。
歴史的に、人々が熱狂することの危うさを聖書は証言していると言えますが、同じような過ちを歴史的に繰り返してしまうことがあります。
しかし、それにもかかわらず神は人々を救いへと導こうとされるのです。
神のみ心から外れてしまうことがあったとしても、神はその的外れとなってしまっている罪を赦され、救いに入れようとされるのです。
神は主イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、その命をもって人々の命を救われました。
そしてわたしたちは主イエス・キリストにより、永遠の命の希望に生きることとなったのです。
しかし、キリストを信じる者たちに激しく反対していたパウロは、人々の罪の赦しのため十字架の死に疲れ、復活したキリスト・イエスに出会い、彼の人生は全く変えられました。
今だけ、ここだけ、自分たちだけと思い熱狂していたパウロは、静かに変えられていきました。
この世のためにと手を伸ばしていた彼は、神のために生きる者となったのです。
それは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が「このわたしのためだったのだ」と心に入ってきたことによってでありました。
生きている驚き、それは生かされている驚きでありました。
神により、キリストにより、そして聖霊により生かされていることを彼は知ったのです。
それは守られているというよりは、育てられているということです。
今ここに生かされていることの驚きです。
今も生きておられる復活の主イエス・キリストに出会ったパウロは、その後、シリアのアンティオキアの教会に導かれました。
その教会で預言する者たち、教師たちが主を礼拝し断食をしていると、聖霊が告げたのでありました。
「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
バルナバは、まだパウロを多くのキリスト者が受け入れるのをためらっていた時、パウロを弁護した人物であり、慰めの子、また勧めの子とも呼ばれていました。
主なる神はバルナバとサウロ、すなわちパウロを選び出したとおっしゃるのです。
そしてそれは、普段の礼拝の中で語られたのです。
何か特別に大きな出来事があってということではありませんでした。
ごく普段の日常とも言える礼拝の中で、驚きが与えられるのです。
それは「わたしはわたしのものではなく、神のものであった」ということです。
主なる神はおっしゃるのです。
「あなたがたをわたしのために選び出した。」
そして「わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために。」
バルナバとパウロにとって、それは福音宣教の働きと言えます。
そして今、わたしたちは救い主イエス・キリストを証しするものであると言えますが、その働きには多くの仕方と多くの形があります。
小さな花や大きな花がいつも静かに笑っているということであったり、また何も言わないけれど、そこにただいることを通して働いているということもあります。
その人の感情と心がそこにあり、それがまわりに働きかけているということがあるからであります。
感情が愛と平和に満たされ、その心が赦しと喜びに満たされているなら、そこに愛と平和があり、赦しと喜びがあるからです。
「そこに」というのは、この世界であり、この世においてということです。
聖霊はこのことを導いてくださいます。
バルナバという人物はキプロス島出身ということもあったのでしょうか、パウロとバルナバは聖霊に送り出され、キプロス島に向けて船出することになりました。
そしてキプロスに着くと、そこにキリストへの信仰から遠ざけようとする魔術師が現れました。
そこでパウロは聖霊に満たされ、その魔術師に言いました。
「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないであろう。」
すると、たちまち魔術師の目はかすみ、すっかり見えなくなってしまいました。
その出来事を見たキプロス地方総督は主の教えに非常に驚き、キリストの信仰に入ることとなりました。
パウロは言っています。
「主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。」
この世の中では多くの情報が溢れかえっています。
そこでゆがめられてしまうことも多いのです。
しかし必要なことはただ一つだけ。
良いものを選ぶことです。
主の道はまっすぐであります。
パウロとその一行はさらに船出して、今度はピシディア州のアンティオキアの町に入りました。
そして安息日に会堂に入りました。
会堂では礼拝が行われており、聖書が朗読されていました。
その後、会堂長たちが人をよこしてパウロたちに伝えました。
「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば話してください。」
そこでパウロは話を始めました。
その内容は、イスラエルの民が奴隷としてエジプトの地に住んでいるところからエジプトを出発し、荒れ野を行き、預言者サムエル、サウル王、ダビデ王と続き、神は約束された救い主イエス・キリストが来られる前に洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授け、洗礼者ヨハネは「わたしのあとから来られる方」、救い主イエス・キリストを証ししたことをパウロは会堂にて語りました。
パウロは人々の間を解体し、破壊するためではなく、関連していること、関わり合い、つながっていることを語りました。
神があなたに、またわたしたちに語り伝えているその言葉が告げ知らされ続いているのです。
しかし、とパウロは続けます。
神はその救いの言葉を実現されたのですが、エルサレムに住む宗教的・政治的指導者たちはこの救いの言葉を認めず、主イエスを罪に定め、十字架にかけ、死刑に処してしまったのです。
主イエスは死につかれ、十字架から降ろされ、そのご遺体は墓に納められましたが、神は主イエスを死者の中から復活させられたのです。
復活された主イエスは人々の前にその姿を現され、人々はその福音を告げ知らせることとなりました。
神が約束された救いの言葉が実現し、神は主イエスが死者の中から復活し、もはや朽ち果てることがないようになさったのでありました。
かつて神のご計画に仕えた者たち――サムエル、サウル、ダビデらは、仕えたのち天に召され祖先の列に加えられましたが、神が復活させられた主イエスは朽ち果てることがなかったのです。
パウロは驚くべきことが語られ、その言葉と計画は実現したのですが、人々は到底信じられない、と語ったのです。
安息日、会堂でパウロが話し終えると、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだのでした。
それは何か新しいことをということではなく、関連し、つながっていることを分かち合い、解体し、破壊することではなく、つながっていることを、神と人とが、そして人と人とがつながっており、その愛を、大事なことを分かち合いたいと求めたのでありました。
そして次の安息日にも会堂にて、神の愛と神が大事にされておられること、そして神の御思いをパウロは語るのです。
すると、ほとんどの町中の人々が主の言葉を聞こうと集まって来たのでした。
しかしその中には、このことをよく思わない人々、群衆を見てひどく妬み、罵る人々がおり、パウロの話すことに反対をしました。
激しく反対し非難を唱える人々を前に、パウロとバルナバは聖霊により勇敢に語りました。
それは驚くべきことでもありました。
主イエスを十字架の死にかけた者たちの、この世の力が渦巻く中にあっても、パウロとバルナバは主と共にあったからです。
パウロたちは語りました。
「神の言葉はまずあなたがたに語られるはずでした。
だが、あなた方はそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しないものにしている。」
そしてユダヤの会堂で語っていたパウロはこう言います。
「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。」
と言って、旧約聖書イザヤ書から引用してこう語ります。
「わたしはあなたを異邦人の光と定めた。あなたが地の果てにまでも救いをもたらすために。」
異邦人とは、ユダヤの会堂から出て、ユダヤ以外の人々ということであります。
それはさまざまな国々の人々という広がりを持ち、この光は救いの光となってすべての人を照らすのです。
この世にあって「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」と聖書にはあります。
人々は心から求めていたのです。
解体し、破壊する言葉ではなく、つくり上げ、育む言葉を求め、生きる命の言葉を渇き求めていたのです。
その救いの言葉が今ここに来たこと、ここに語られ、心に入り、残っていることに大きな喜びが広がったのです。
救い主イエス・キリストの御名による救いの言葉を人々は賛美しました。
パウロを、またバルナバをではなく、主の言葉を賛美しました。
命を与え、育み、生かし、導く神の御言葉を賛美したのです。
そして人々は、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入り、こうして主の言葉はその地方全体に広まって行きました。
ところが、ユダヤの人々は神を崇める貴婦人たちや町の主だった人々を先導して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出しました。
パウロたちは追い出した人々に対して足の塵を払い落とし、イコニオンという町へと導かれていきました。
彼らは喜びと聖霊に満たされていました。
この世にあって追い出されるということがあるかもしれません。
しかし、ここに主の救いの言葉があり、主がおられ、聖霊を受け入れ導かれるなら、それは喜びと賛美へと大いに変えられて行くのです。
わたしたちに与えられた安息日に、主の救いの言葉を賛美し、主と共に生きる日々を喜び、主がお一人ひとりを豊かに祝福してくださいますように。
主の言葉を賛美いたします。
