【神の言葉を】 使徒言行録4章23~31節

「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出した。」

今日、わたしたちが開きました聖書は、神の御言葉が語り出されたことを伝えています。

そのことは、この世にあって、またそれぞれに与えられた人生において、大きな希望が明らかに現れ出たということを証言していると言えます。

今日の聖書は新約聖書の使徒言行録です。

この書は、キリスト・イエスの福音を述べ伝える人たちが言ったこと、行ったことを記録した言行録でもありますが、その出来事はこの世にあって大いなる希望を語っていると言えます。

この世においては大きな、また多くの悲しみがあり、苦しみがあります。

人知れずその中に置かれた多くの方々がいます。

「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。憐れみ深い主よ、み顔をわたしに向けてください」と叫び声を、うめき声をあげています。

深い沼にはまり込み、足がかりもなく、大水の深い底にまで沈み、激しい流れが押し流していきます。

そのようなところからわたしを高く上げ、救ってください、との声がこの世には、またわたしたちの心には多くあるのではないでしょうか。

わたしたちの生きるこの世界は、苦悩を持って混乱しているかもしれません。

しかし、苦悩の中で主なる神に立ち返り、主を求めた者たちに、主はその者たちにご自分を示してくださいました。

人々の心の中には甚だしい騒乱が起こり、巻き込まれ、安心することができず、あらゆる苦悩を持って混乱させられ、敗れ壊れてしまうということがこの世においてあるかもしれません。

しかし主なる神はご自分を示してくださったのです。

尋ね求め、心を尽くし、魂を尽くして求める者たちに、神は出会ってくださるのです。

使徒言行録はその希望を語っています。

この世においては苦難、苦悩と混乱があります。

しかし、「勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには必ず報いがある」との御言葉が与えられ、実現したのでありました。

主イエス・キリストに従い、ガリラヤ地方からエルサレムにやってきていた弟子たちは、そのエルサレムにおいて主イエスが苦難を受けられ、十字架にかけられ、主イエスの死と葬られたことを見て経験いたしましたが、主イエスは死からよみがえり復活されました。

そして、主イエスは弟子たちに神の国と平安をお語りになられ、弟子たちの見ているその前で天に上げられました。

主イエスは弟子たちに聖霊が与えられることを約束され、そのことを祈り願い待っていた弟子たちに聖霊が与えられました。

使徒言行録にはその聖霊降臨の出来事が記されていますが、その時の弟子たちには、それがどのくらい待つことなのかということなど全く分かっていなかったのでありました。

その日、その日、その場において、彼らは祈っていたということでありました。

それは、死より復活した主イエス・キリストによる、喜びによることであったのです。

主イエスの弟子のペテロは、主イエスが天に上げられた後、エルサレムにとどまって一同ひとつとなって祈っていました。

聖霊が降り、聖霊に満たされたペテロは語り出しました。

神は主イエスを復活させられたこと、自分たちはその証人であることを語りました。

そして、主イエスは天に上げられ、神の右につかれ、約束された聖霊を父なる神から受けて注いでくださったのです。

弟子たちは主イエスの御名により悪霊を追い出し、新しい言葉を語るしるしが伴ったのです。

人々がこの世の妬みと憎しみにより、十字架につけて死に至らせたイエスを、神は主とし、救い主となさったとペテロはエルサレムにおいて語り出したのです。

それは安全なことでは決してありませんでした。

主イエスを十字架につけた人々、その教派の体制が敷かれているその場所で、ペテロは語り出したのです。

それはこの世の話とは全く違い、この世において、救いが語られ、希望が語り始められたということでありました。

ペテロは自分の罪が赦されるように、悔い改めて主に立ち返りなさいと力強く勧めます。

主のもとから慰めの時が訪れ、主はわたしたちのために前もって決められた全ての人の救い主である主イエス・キリストを遣わしてくださるとペテロは語り出しました。

それは新しい言葉でありました。

その時において、そして今この時において、新しい命の言葉でありました。

新しい葡萄酒が注がれ、新しい革袋が備えられるのです。

すると、この世の力を持つ人々が動き始めました。

エルサレム神殿を中心とした、主イエスを十字架にかけた宗教的・政治的指導者の人々でありました。

主イエスの弟子であるペテロ、そしてヨハネが人々に救い主イエスの話を語っていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。

ペテロとヨハネは民衆に向かって教え、主イエスに起こった死者の中からの復活を語っていました。

そのことに、この世の力を持つ指導者たちは苛立ったのでありました。

それは、ペテロとヨハネ、二人の語った言葉を聞いて信じる者が多かったことにもよります。

救いを求め、慰めを求め、真実を求める人々がそれだけいたのでありました。

この世の力を持つ指導者たちは、ペテロとヨハネを捕らえて牢に入れてしまいます。

そして次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まります。

そして、主イエスを十字架にかけていくことを強力に推し進めていった人物たち、大祭司アンナスとカイアファなど大祭司一族が集まって、議会でペテロとヨハネを取り調べました。

二人を真ん中に立たせて尋問します。

「お前たちは何の権威によって、だれの名によって、ああいうことをしたのか」と。

この世の力を持ったこの世の権威は問いただします。

「ああいうこと」と言っているのは、ペテロとヨハネがエルサレム神殿の「美しい門」という名のついた門で、生まれながら四十年間、足の不自由であった人を癒したということです。

ペテロとヨハネが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と言うと、生まれながら四十年間足の不自由であった人は立ち上がったのでありました。

それは、その人が癒されたということの大きな驚きとともに、何の力によって、何の権威によってこのようなことが神殿において起こったのかということでもありました。

イエス・キリストの名によって起きたことに、この世の力を持つ指導者たちは憤り、妬み、憎しみを増したのです。

しかし、ペテロとヨハネの行った目覚ましいしるしは、人々に知れ渡っており、それを否定することはできませんでした。

そこで、このことがこれ以上、民衆の間に広まらないように、今後イエス・キリストの名によってだれにも話すな、と指導者たちはペテロとヨハネを脅し、決してイエスの名によって話したり教えたりしないよう命令しました。

議員たちは、この二人をさらに脅してから釈放しました。

それはこの出来事について、民衆が神を賛美していたので、指導者たちは民衆を恐れてどうしたらよいのかわからなかったからでありました。

この世の中で、キリスト・イエスの名によって語ることは、神の御業に関わることであります。

キリスト・イエスの名により語り行うことです。

それは今、この時も、困難を伴うことが多いかもしれません。

しかしそのことに救われ、希望を与えられる魂があるのです。

ペテロとヨハネ、釈放され二人は仲間のところへ行きました。

仲間とは、彼らの者、自分たちの者たち、そのところへ行ったということです。

それはこの世の友人という意味だけではなく、聖霊による神の家の者たち、神の家族であります。

釈放された二人はどこか安全な場所に行ったということではありませんでした。

この二人は仲間のところ、すなわち祈る者たちのところへ行ったのです。

それは必ずしも安全な場所ではなかったのです。

しかしこの世の中において、戦う場所、霊的な意味において自分たちの者たちのところであり、それは祈る共同体でありました。

そこで安心、安定しているとは言い難いところで、祭司長や長老たちの言ったことを仲間たちに知らせました。

「お前たちは何の権威によって、だれの名によって、ああいうことをしたのか。そして主イエスの名によってだれにも話すな」ということでありました。

ペテロとヨハネが、自分たちの者たちのところに戻って伝えたのは、主イエスの名によって語ること、行うことをしてはならないという、自分たちが見て聞いてその出来事を経験したその全てのことが閉ざされ、押し流されてしまうかのようなことであります。

しかし、このことは、新しいことへ自分たちを押し出すこととなっていくことを仲間たちは知ったのです。

まだそれがどのようなことか分かりません。

しかし、主キリストは生きておられます。

ペテロとヨハネの言うことを聞いた人たちは、心を一つにし、神に向かって声を上げて言いました。

「主よ、あなたは天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方です。」

彼らはまず主、この主は神の主権を強調する主であります。

全てのものを造られた創造主なる神への全くの信頼でありました。

問題の分析でも、問題の排除でもありません。

その信仰と信頼の土台に立ち、彼らは続けて言っています。

「あなたの僕であり、またわたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。

『なぜ異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』

事実、この都でヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められたことを全て行ったのです。」

「なぜ国々は騒ぎ立ち、人々はむなしいことを企てるのか」とのむなしいこととは、空虚な、意味のないこと、ということです。

しかし、主なる神のなさることは、御手と御心によって実現するのです。

ですから続けます。

「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたのしもべたちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか御手を伸ばし、聖なる下僕イエスの名によって病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

そのように祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出しました。

彼らが祈ったのは、問題がまた迫害が解決するというよりは、神の御手と御心が働くことでありました。

ですから「大胆に」と聖書にはあります。

それは恐れなく、隠さず、ということであります。

自分たちの力によって頼ったのではなく、恐れの時、神の御手が働くことを頼り願ったのです。

神の御心が成就すること、そのことを祈り求めたのです。

聖書には、その時その場所が揺れ動き、揺さぶられ、御言葉が力強く自由に語られたとあります。

今、わたしたちも「主よ」と心に声を上げ、この聖霊の力をお受けいたします。

どうか御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって病気と怪我と傷とがいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

恐れなく、自由に、隠すことなく、神の御言葉をわたしたちの人生で語ることができますように。