【遣わされる】 マルコによる福音書6章6節b〜13節
主イエス・キリストは、呼び寄せられ、遣わすことにされたと、今日わたしたちに与えられ開きました聖書は語っています。
わたしたちは、新しい経験に入るということがあるのではないでしょうか。
これまでの日々から新しく何事かが始まるような経験をすることがあります。
教会の暦では、聖霊降臨節という季節を共にわたしたちは歩んでおりますが、自然の暦では夏至に入り、一年で最も日が長く、夜が短い頃に入りました。
わたしたちは知らず知らずのうちに、その新しい経験へと入って行き、後からそのことは自分たちの力ではなし得なかったことを知るということがあります。
わたしたちの旧約聖書、その旧約聖書にはアモス書という預言書があります。
主なる神の預言の書ということでありますが、アモス自身は「わたしは預言者ではない」と言います。
そして、「預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と言うのです。
しかしアモスは続けてこう言っています。
「主は家畜の群れを追っているところからわたしを取り、『行ってわがが民に預言せよ』と言われた。」
アモスは、紀元前八世紀、北イスラエル王国で活躍した預言者とされていますが、もともとは南ユダ王国テコア出身で、家畜を飼う牧夫であり、いちじく桑を栽培する農夫でありました。
アモスは、祭司でも、学者でも、そして預言者でもなく、素朴とも言える農民であったのです。
しかし、主なる神はそのアモスを直接召し出され、主なる神の御言葉を語る預言者とされたのです。
その時代、北イスラエル王国は経済的繁栄を享受していたと云われます。
しかし、その中で社会の貧富の格差拡大、搾取、そして腐敗が深まり、容易ならぬところまで来ていました。
アモスはそのことを告発するかのように預言したのでありました。
ある者はアモスに言いました。
「先見者よ、行け、ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言せよ。」
そのようにアモスに警告するのです。
それでもアモスは、主の御言葉を人々が聞くことのできるよう預言するのでありました。
「彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った。」
「彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。」
公正に欠け、不正に埋没している者たちの中で、アモスは主なる神の御言葉によって語らずにはいられなかったのであります。
風が立ち、風が吹いて、新しい経験へとアモスは呼び出され、入って行くのでありますが、生きたいが、生きられるだろうかというところまでにも導かれます。
しかし、そのアモスに神の御言葉が豪雨のように注がれるのです。
「わたしを求めよ、そして生きよ。」
風が立った、さあ、生きねばならないというその時に、「わたしを求めよ、そして生きよ」と主はお語りになられるのです。
その御言葉には力があったのです。
そして主はこの世の人々の中でおっしゃいます。
「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。お前たちは弱い者を踏みつけ、彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ切石の家を建ててもそこに住むことはできない。お前たちの咎がどれほど多いかその罪はどれほど重いか、わたしは知っている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」
そして主なる神はアモスを通してこう語られます。
「善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主はお前たちと共にいてくださるだろう。」
「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」
主なる神は、アモスを呼び出し、召し出されて、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きにある人々に力ある御言葉を語られたのでありました。
その力は、主なる神に帰るために注がれたのでありました。
その後、世界史的年数では760年を経て、神は「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」するため、洗礼者ヨハネを立て、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えさせました。
そのころ、ガリラヤのナザレからヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネのもとに主イエスは来られ洗礼を受けられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え始められました。主イエスは、湖のほとりを歩いておられたとき、四人の漁師たちを招かれました。シモンとその兄弟アンデレ、ゼべダイの子やヤコブとその兄弟ヨハネです。
主イエスと弟子たち一行は会堂に入って教え、悪霊を追い出され、多くの人々のいろいろな病をいやされました。重い皮膚病、中風の人も主イエスはいやされました。
そして通りがかりに、収税所に座っていたアルファイの子レビを弟子に招かれました。
主イエスは、ユダヤの律法学者たちと議論をされ、手の萎えた人をいやされ、おびただしい人々が主イエスのしておられることを残らず聞いて主イエスのそばに集まって来ました。
主イエスは、新しい時に入って行くように人々に教え、病をいやされ、汚れた霊、悪霊を追い出されました。
それは、神に帰ることを示されることでもありました。
さらに主イエスは、山に登られ、これと思う人々を呼寄せられると、そばに集まって来た者、十二人の者たちを主イエスは任命され、使徒と名付けられました。
主イエスは歩いておられ、通りがかりに、そして、これはと思われる者たちを弟子としてお招きになられました。
主イエスは彼らをご自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるために任命されたのでありました。
主イエスはその者たちの暮らし、その日常生活のすぐそばを、またその中を通られます。
通りすがりに、というように、たまたまそこを通られたように見えます。
人が分かるように計画し、予定し、行動を前もって定めたようには見えません。
しかし、主イエスはそこを通られ、見ておられるのです。
主イエスは、すぐ近くにお寄りになられ、通りすがり、見られるのであります。
人にはそのように通りすがりのように見えます。
しかし主イエスは近づき、見ておられます。
そして言うのです。
「わたしに従いなさい。」
漁師も徴税人も、風が立ち、風が吹いたように、すぐ立ち上がって主イエスに従って行きました。
なぜでしょうか。
主イエスの言葉には力があり、それは主イエスご自身に力があったからです。
かつて南ユダ王国テコアで家畜を追っていた牧夫であり、いちじく桑を栽培する農夫であったアモスを羊の群れから引き出した、その同じ力が主イエスにあったのです。
その力は、人々を愛と赦しによって救い出そうとします。
自分勝手な思いつきで、あのアモスは主の御言葉を預言したのではありませんでした。
ただ神の愛と赦しの力、神の指し示されたことに従い、行動したのです。
主イエス・キリストはこの世の人々の救いのため、苦難を受けられ、十字架の死につかれ、しかし復活されます。
神の愛と赦しの大いなることを現わされます。
その平安は決してなくなることはありません。
神のもとにあるからです。
このまことの光は輝いています。
しかし、主イエスとその弟子たち一行の歩まれた町や村において、主イエスの愛と赦し、その光を信じ、信頼できない人々の不信仰に、主イエスは驚かれたということがありました。
それでも、主イエスは人々の間を通りすがり、近づき、見ておられるのです。
そこで主イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされました。
この十二人というのは、その人数を表しているということも言えますが、十二部族の古代イスラエル、あのアモスが主なる神の御言葉を神の力によって語り告げたその民を表していると言えます。
主イエスは十二人を呼び寄せ、新しいイスラエル、神の愛と赦しを現わされる主イエス・キリストによる新しい時を始められるのです。
主イエスの名により、二人または三人の集まるところには主イエスがおられ、神の国があります。
主イエスは弟子たちに、汚れた霊を追い出す権能をそれぞれに授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられました。
主イエス・キリストの神の愛と赦しは変わりがありません。
主がすぐ近くに寄られ、見つめ、語っておられる。
そのご支配のもとに、主イエス・キリストが支えになってくださっておられる、その上に、わたしたちは生きるのです。
その信頼を、主イエスは「何も持たず」とお語りになっておられます。
この信頼が現わされるように、主イエスはその姿を指し示されたのでありました。
また主イエスはお語りになられます。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から出て行くまではそこにとどまりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があれば、そこを出て行く時、彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落としなさい。」
「とどまりなさい」とは、心が揺れ動くことがないようにということです。
主イエス・キリストを土台とし、信頼するのです。
主イエス・キリストの愛と赦し、その大いなる平安を受け入れる場所がなく、耳を傾けようともしなければ、足の塵を払って汚れを払うように主イエスはおっしゃいます。
そのように神のご支配は受け入れた者たちにとどまり、その者たちに新しい時を告げて行きます。
その力は主なる神より来ます。
わたしたちに注がれた神の愛と赦し、そのご支配は主イエス・キリストから来ます。
その神の力を、この時この世で受け入れるかどうかは、聞く者の決断にかかっています。
主イエスに遣わされた十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えました。
向きを変え、思いを切り替えることを語り伝えたのです。
また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしました。
遣わされることによって、主イエスが通られ、見つめ、語られ、力が与えられているのを知り、新しい時に入って行きました。
神の力によって生かされ、生きる幸いと平安を共にしたのです。
遣わされる、それはこの町や村で神がおられる神の栄光へと招かれることでありました。
「わたしを求めよ、そして生きよ」とおっしゃる主は、今もあなたと共におられます。
