【風が吹いて来る】 使徒言行録2章1節~11節
「風が吹いて来るような音が天から聞こえ」と、今日、このペンテコステ礼拝の日、わたしたちの開きました聖書は語っています。
キリスト教会の三大祝日と云われておりますクリスマス、イースター、そしてペンテコステ、今日がそのペンテコステ、聖霊降臨日であります。
イースターから五十日目のユダヤの五旬祭の日に、聖霊が降ったという出来事について、聖書は記しています。
イースターは、ユダヤの過越祭の時と重なりますので、聖書にはこの過越祭と五旬祭の間に起きた出来事を、福音書、そして今日の使徒言行録は証言していることになります。
福音書は、主イエス・キリストが人々の罪の赦しのため十字架刑に引かれて行く道を語っています。
神の御心から離れ、背き、的外れとなり、方向違いとなっている、その結果悲惨なことになっている人々を救うため、主イエス・キリストは十字架への道へと進まれたのでありました。
十字架により主イエスが命を献げられたのは、人々の救いのためでありました。
捕らえられ十字架刑の判決が下されるまでの間、主イエスは罪がないと語るべきではないだろうかと人々が思う時においても、主イエスはそのままでありました。
捕らえる者と訴える者、そして引き渡す者をそのまま主イエスは受け入れられたのでありました。
主イエスはユダヤの大祭司や祭司長たちの訴えによって、ユダヤ州の総督ピラトのもとに十字架刑の判決を得るために送られます。
ピラトが「あなたがたが引き取って自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤの人々は言いました。
「わたしたちは人を死刑にする権限がありません。」
自分たちの法的権限を超えたことを、ピラトに迫ったのです。
ピラトは官邸に入り、捕らえられていた主イエスを呼び出し言いました。
「お前がユダヤ人の王なのか。」
ユダヤの人々が主イエスを訴えたのは、「ユダヤ人の王」と自称したということであり、それは「王である」と名乗ったということでありました。
ピラトの言葉に主イエスは、「あなたは自分の考えでそう言うのですか。」とお答えになりました。
ピラトは言い返します。
「お前の同胞であるユダヤの人々や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのだ。」
ローマの総督であるピラトは、罪を見出すことができませんでした。
ユダヤの法の中で裁くべきことを、宗教的・政治的指導者たちは主イエスを十字架刑に処するためにローマのピラトに強く迫ったのです。
十字架刑はローマの法でしか執行できなかったからです。
主イエスはピラトから尋問される中でこのようにおっしゃっておられます。
「わたしの国はこの世に属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように部下が戦ったことであろう。しかし実際、わたしの国はこの世には属していない。」
主イエスは「わたしの国」とおっしゃいます。
それは主イエスと父なる神の「ご支配される」という意味で、「わたしの国」でありますが、それはこの世には属していません。
この世にあって、神の国は近づき、神の国は来たと言えますが、この世には属していないのであります。
ですから、わたしたちを救うこと、癒すことがおできになるのです。
そして主イエスは、この世に属していないということを現わされていることが以前にもありました。
それは主イエスのもとから多くの者たちが離れたということにも見ることができます。
主イエスが「わたしは命のパンである」と語られた時、 「わたしを食べるならばその人は永遠に生きる」とおっしゃり、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得る」と語られたことがありました。
その時、「これはひどい話だ」とつぶやき言う者たちが現れ、主イエスはそのことに気づかれ、最初から信じない者が誰であるか、またご自分を裏切る者が誰であるかをご存知であったと福音書には記されています。
多くの者たちが離れ去り、もはや主イエスと共に歩まなくなったのでありました。
そして主イエスが十字架にかけられていく時、主イエスの十二人の弟子たちもひと時、離れて行くこととなってしまいますが、そのうち十一人の弟子たちを中心に人々は集まっていました。
主イエスが十字架にかけられたのは過越祭の時。
過ぎ越しの祭りは、かつてユダヤの民が奴隷としてつながれていたエジプトから神によって救い出されたことを祝う祭りでありました。
この祭りの名称は、エジプト人の長子、すなわち初めて生まれた子どもと家畜の初子を滅ぼした神の使いが、ユダヤの人々の家を「過ぎ越した」ことに由来します。
この過ぎ越しの出来事には、人々の重荷が取り去られ、その重荷からの解放が語られていると言えます。
そのことから、罪が取り去られ、罪が赦され、解放されたことへとつながる記念の時となったのです。
主イエス・キリストの十字架の出来事は、この過ぎ越しの時でありました。
主イエス・キリストは十字架にかけられ、血を流され、肉を裂かれ、そのご遺体は白い布に包まれ、一度は墓に納められますが、復活されます。
罪の結果である死と滅びに打ち勝ち、勝利された主イエス・キリストは、神の大いなる愛と赦しをお与えくださったのです。
闇は去り、光が輝いたのです。
主イエスによって暗闇を過ぎ越したのであります。
復活により罪と滅びに勝利された主イエス・キリストによって救われたのです。
救い主であるキリストの愛を知ったのです。
信仰によって、わたしたちの心のうちにキリストを住まわせ、キリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかりと立つものとなりますように。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、ついに神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかることができますように。
闇が去って、すでに真の光が輝いているのです。
光の中を歩み、神の御心を祈り願うのです。
世も世にある欲も過ぎ去って行きます。
しかし神の御心を行う人は、キリストと共にあって永遠に生き続けるのです。
暗闇と罪を過ぎ越し、十字架の死より復活された主イエスは、四十日間にわたって弟子たちに現れました。
それは荒れ野を通って来た者、まだ荒れ野の中を通過中の者、その一人ひとりに復活の主は現れてくださり、「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」とおっしゃっておられたことを再び思い出させることでありました。
そして「わたしは主を見ました」という者を起こし、それを信じる者たちを主は立ち上げられたのであります。
「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」
と復活の主イエス・キリストはわたしたちに寄り添い、心に語りかけておられるのです。
復活の主は「この世に属しておられない」とおっしゃいます。
そして「すでに世に勝っている」とおっしゃいましたが、それはこの世の勢力図というものでは決してありませんでした。
一人ひとりの心に、神の大いなる愛と赦し、そして平安の満ちている神の国、神の支配される領域を指し示すものでありました。
救い主キリスト・イエスは、人々の救いのために神の国をお語りになられました。 そして主イエスのおられるところに神の国があるのです。
復活の主イエスは40日間弟子たちに現れ、何をお語りになっておられたのでしょうか。
主イエスは神の国についてお語りになられました。
そして主イエスがガリラヤ地方からエルサレムへ来られ、神殿にお入りになられ、捕らえられ、苦難を受けられ、十字架にかけられ、しかし三日後に復活されたその出来事があった場所、エルサレムにとどまるよう、主イエスは弟子たちにおっしゃいます。
この世の強い風に吹き寄せられ、この世の奔流にのみ込まれるかのような経験をしたエルサレム。
その場を「離れずにいなさい」と主イエスはおっしゃいます。
そして「待ちなさい」と教えになります。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
復活の主イエスは、約束されたものを待ちなさいと弟子たちにお語りになられます。 そしてその神の約束されたものとは、神の霊、聖霊でありました。
聖霊は主イエス・キリストを証しします。
それが救い主だ、と心に証言します。
そして聖霊は神の霊として人格をお持ちになっておられ、このお方は私たちのすぐ傍らにあって弁護者であります。
弁護者として寄り添い、対面し、聞き、語り、導きます。 救い主イエス・キリストを証しし、救いへと導きます。
私たちはこのお方に信頼し、私たちの魂の中に入り込み、完全に立ち直らせてくださることを知ればよいと語られる、その力をお持ちであります。
その約束されたものを待ちなさいと主イエスはおっしゃり、待ちきれないことの多いこの世の中にあっても弟子たちを励ますのであります。
そしてその時や時期は、父なる神がご自分の権威をもってお定めになっておられるのです。
そして五旬祭の日が来たのです。
その日が来たというのは、神の定めになったそのご計画が満ちたということであります。
神が定めたそのことは、たまたま偶然にではなく、神が主権をもって救いの出来事として起こったということです。
一同が一つになって集まっていた。
復活の主イエスに出会ったという女性たち、主イエスの十二人の弟子たちとその他の弟子たちも集まっていました。
この人たちは主イエスの御名のもとに集まっていました。
すると突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。
そして炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上にとどまり、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出しました。
その時、エルサレムには大勢の人々がやって来ていましたが、それぞれ自分の故郷の言葉で弟子たちが話しているのですっかり驚いてしまいました。
エルサレムにいた大勢の人々は、それぞれ広い地域からやって来ていたので、自分たちが生まれた故郷の言葉をこのエルサレムで聞くことにあっけにとられてしまったのです。
それは、それぞれの日々の生活の中で交わされる言語が用いられ、話されていたのです。
さらに、その姿勢は大胆であったのです。
そして何を語っていたのかというと、その内容は「神の偉大な業」でありました。
わたしたちは全能なるお方を直接この目で見いだすことはできないかもしれない。
しかし神は優れた力をもって治めておられるのです。
それを過越祭から五旬祭へ至る中で、人々は見て聞いたのです。
風が吹いて来たのです。
この世で息も絶え絶えであるかもしれない。
しかし風が吹いてきて、息を吹きかけられ、吹き入れられて、見えなかった光が一人ひとりに輝いているのです。
神の時が満たされ、あなたに風が吹いてきます。
神の命の息をあなたに満たし、あなたが光の中で、また神の炎によって生きることを神は望まれ、そのようにしてくださるのです。
神の炎は静かに燃えています。
創造主なる神は、あなたの、またわたしたちの人生の歩みに新しい導きを創造してくださるのです。
この風は息であり、聖霊であるからです。
主イエスの約束は実現し、わたしたちを力強く導き、支配され、あなたの人生を神の偉大な御業により包み、満たしてくださいます。
この風は天から吹いて来て、天から聞こえて来るからです。
