【善き羊飼い】 ヨハネによる福音書10章7節~18節

「わたしは羊の門である」と、わたしたちを導かれる主イエス・キリストはおっしゃいました。

いつのまにか日の出の時刻は早くなり、また日の入りの時刻は遅くなり、一日の明るい時間が増えています。

わたしたちは復活の光の中、共に歩みを進めています。

日々、その与えられた所々でそれぞれに暮らしていると、わたしたちは言うことができるのですが、復活のキリストの光のもとにあって、わたしたちは共に在ると申し上げることができるのではないでしょうか。

そして今日、この主の日に、共に集い、古代の詩人が心を込めて歌っているように、

「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。 御名の栄光をほめ歌え。 栄光に賛美を添えよ」と、喜びの叫びを上げるのです。

しかしこれは、何も大きな声を出して叫ぶということではなく、その喜びはどこから来ているのか、そして与えられているその喜びの大きさはどれほどまでに大きなものであるかを思い知ることを表しています。

ですから、心の中で静かに喜びの叫びを上げ、そのことを思い巡らすことにより、わたしたちの歩みは光で満ちていることを再び思い起こすのです。

「光で満たされるといいな」というのでも、「光で満たされますように」でもなく、今、光に満たされているという喜びを心から感謝するのです。

わたしたちのもとに届けられた聖書は、この喜びは主から来るということを語っています。

その大きさはキリストの十字架と復活の大きさによります。

主イエス・キリストは、わたしたち人の罪の赦しのため、十字架におかかかりになられました。

道を誤り、それぞれの方角に向かって行ったその罪を、主イエスは負ってくださったのです。

主イエス・キリストは道を備えてくださったのです。

わたしたち人のために苦しみを受けられ、その足跡に続くよう、主イエス・キリストは模範を残されたのです。

罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、父なる神にすべてをお任せになられたのです。

主イエスは変わることのない父なる神の愛、そして赦しをその身をもって現わされました。

自らわたしたちの罪を負ってくださったのです。

そしてこの世において彷徨っていた人々が、このお方のもとに立ち返り、戻ってくることとなったのです。

キリストが道を備え、人々の道からつまずきとなるものを取り除かれたのです。

神の愛と赦しは大きく、復活の力は大きかったのです。

それゆえ、人の霊は打ち砕かれて、へりくだる霊の人と主は共におられ、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させるのです。

わたしたちは主が備えられた道を見たのです。

十字架と復活の出来事を、聖書を読み聞きし、そして見たのです。

そして主は、わたしたちを癒し、休ませ、慰めをもって回復させてくださるのです。

わたしたちに平和があるように、そして平安があるように、主は癒し、回復してくださるのです。

十字架の死より復活された主イエス・キリストは、わたしたちを強め、力づけ、揺るぐことがないようにしてくださいます。

しかしそれは、わたしたち自分自身によってではなく、神の恵みによってであります。

主イエスはこの世を歩まれ、人々にお語りになられました。

そしてある時、たとえを用いてお教えになられました。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに門を通らないでほかの所を乗り越えてくるものは盗人であり、強盗である。門から入るものが羊飼いである。」

当時の人々の暮らしに、羊を飼う羊飼いは身近な存在でもありました。

山や丘や草原で羊を飼い育て、養っていたのでありました。

そしてその飼っている羊たちを守るために囲いが作られ、その囲いの中に羊たちを誘導し、導き入れて羊たちを守ります。

囲いには門がありました。

その門を通って囲いの中に入ります。

しかしその門を通らずにほかのところから囲いを乗り越えて中に入って来る者は盗人であり、強盗であると主イエスはたとえとしてお語りになられます。

囲いの中から入るのは羊飼いであり、羊を愛し、羊を思って囲いを作ったのでありました。

ですから囲いに門を施し、そこから出入りできるようにしたのです。

そしてその囲いの門には門番という人がいて、羊飼いにはその門を開きます。

羊飼いの声を羊たちはよく聞き分けます。

羊飼いは自分の羊の名を呼んで羊たちを連れ出し、先頭に立って進んで行きます。

羊たちは羊飼いの声を知っているのでその後について行き、ほかの声の後はついて行きません。

羊たちがほかの声を知らないとも言えますが、羊飼いの愛と平安に満ちた声を羊たちは聞き分けていたのです。

いつも変わらず語りかけている声を聞いていたのです。

ですからついて行ったのです。

主イエスは門から入り、門を通ってわたしたちを連れ出してくださるお方でもあります。

そしてさらに主イエスはたとえに続けてお語りになられます。

「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 わたしより前に来たものは皆、盗人であり、強盗である。 しかし羊は彼らの言うことを聞かなかった。」

主ご自身は羊の門であると語りになられます。

門は、羊飼いであるか、盗人または強盗であるかを見分けます。

ほかの場所から侵入してくる者は盗人であり、強盗であるのです。

それは本物か偽物かを見分けることでもありました。

主イエスは真の救い主。

それに対して偽りの救い主の存在を主イエスは示しておられます。

後に主イエスの弟子であったペトロは、その手紙の中でこう述べています。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。 あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食いつくそうと探し回っています。」

ですので、神の力強い御手のもとにしっかり踏みとどまりなさいという励ましであります。

この世において盗人であり強盗である存在があることを、主イエスはおっしゃいます。

そしてそのことから、真の救い主の存在を指し示しておられるのです。

「わたしは羊の門である。 そして羊たちは門から入ってくる。」

主イエスは、盗人や強盗の言うこと、その声を羊たちは聞かなかったとおっしゃいます。

それはいつも語っている声が違うからです。

聞き分けることのできる環境、そして習慣があったということができます。

落ち着いた、穏やかな、親しい交わりがそこにはあったのです。

主イエスはおっしゃいます。

「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる。その人は出入りして牧草を見つける。」

主イエス・キリストは救いの門であり、その扉を押して入って行くのです。

そしてまた、その扉を開いて出て、牧草を見いだすのです。

出入りするというのは親しい交わりを言い表し、そのことによって大切なものを得るのです。

そしていつも変わらずそこにあって、わたしたちを見つめ、お守りくださっておられるということです。

門はわたしたちにとって極めて大事なものであります。

主イエスはおっしゃいます。

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

主イエスのおっしゃる「盗人」が表す死と滅び、そしてそれに至る罪にとどまるのではなく、主イエスのもとにあることです。

愛されるために、また愛するために生まれたのですから、神の愛にとどまり、愛する主イエスと一緒にいなさいということであります。

主イエスがこの世に、またわたしたちのところに来られたのは、わたしたちが命を受けるためであり、しかも豊かに受けるためであります。

今日の聖書箇所の前で、主イエスはご自身についてこのようにおっしゃっておられます。

「あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

主イエスのところへ行くこと、主イエスご自身が「わたしのところへ来なさい。そうすれば命を得る」とおっしゃっておられるのです。

そして主イエスはお語りになられます。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

主イエスは良い羊飼いであるとおっしゃいます。

漢字で「良い(良)」という字は、もともとの形は穀物などを入れてその量を測る器の形と云われます。

そしてまた、穀物に風を送って籾殻を取り去り、実だけを残す道具でもありました。

その道具を用いて穀物の良し悪しを選び分け、良いものを選び出す道具ということから、「よい」または「まこと」を表すことになったと、漢字の「良」という字は云われます。

そしてもう一つ、「ぜん(善)」と読む字があります。 この「善」という字は、もともと神への祈りの文を入れた器を前に置き、つまり神の御前で誓約する、原告・被告の誓いの言葉を表す裁判用語であったことから、神の御意志にかなうことを「善」という字は表していると云われます。

そして「よい」という意味と、「すぐれている」「たくみである」「したしむ」といった意味が「善」にはあります。

良い羊飼いである主イエスは、漢字で「善」と書いた善い羊飼いでもあります。

神の御意志であり、神の御心にかなったお方、主イエス・キリストはおっしゃいます。

「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

主イエスは、わたしたちが命を得るため、命を捨ててくださったのです。

ここに大いなる変わることのない愛があります。

常に変わることの多いこの世にあって、このお方の愛と赦しは変わることがありません。

この世にあって、愛と平安を求める人々がいるのです。

主イエス・キリストの御声を聞くことを望んでいる人々がいるのです。

そしてその愛の御声を聞き分ける人に、主イエスはお語りになっておられるのです。

主イエスはおっしゃいます。

「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

主イエスは、神の御前にあってまったく父なる神を信頼しておられ、その交わりは親しいものでありました。

愛があり、平安があったのです。

その御声を聞き分け、その御声に主イエスは。お従いしたのです。

善い羊飼いであるお方は、父なる神の愛のもとにあって命を捨て、そして命を得ておられるのです。

主イエスの御声を聞き分け、主イエスのもとにあって従う時、わたしたちは父なる神の御心の中にあります。

主イエスが善い羊飼いとなられ、救い主となられ、わたしたちを導いておられます。

神の御心であるわたしたちの通る門が、ここに、主イエス・キリストにあります。