【わたしの主】 ヨハネによる福音書20章24~29節

トマスは答えて「わたしの主、わたしの神」と言った、と今日わたしたちの開きました聖書は述べています。

トマスとは主イエス・キリストの弟子の一人でありました。

新約聖書の福音書は主イエス・キリストのこの世でのご生涯を記し語っていますが、同じようにその弟子たちの生涯の一部をも証ししています。

そして、その弟子たちの生涯の一部は、今も生きるわたしたちの人生の一部と重なっているということができるのではないでしょうか。

わたしたちキリスト教会では、主イエス・キリストの復活を特別に記念し祝うイースターを先週迎え、教会暦では復活節という季節に入りました。

「新しい歌を主に向かって歌い、美しい調べとともに喜びの叫びをあげよ」と古代の詩人が歌っているように、この地は主の慈しみに満ちている、そのことを思い起こす時でもあります。

わたしたちの心には新しい季節が到来し、その美しい調べとともに喜びの声を合わせるのです。

それはわたしたちの罪の赦しのため、十字架の死につかれましたが、よみがえり、復活された主イエス・キリストの慈しみにわたしたちが生きるためであります。

この世にあって迷い、戸惑い、向かっていく方向がわからなくなっていた人々が、主イエス・キリストの負われた傷により癒され赦され、救い主のもとに立ち返ることができたのです。

十字架の死よりよみがえり、復活された主の憐れみによります。

これにより、救い主とわたしたちは共にいる喜びをかみしめ、その喜びを分かち合うことができるようになったのであります。

しかし、主の復活による十字架は、多くの人々に大きな痛みをひと時与えることとなったのでありました。

主イエスが捕らえられ、苦しみを受け、十字架につかれて行く、その最中で、その大きな悲しみと嘆きに深く沈む者たちがいたのです。

わたしの、またわたしたちの中にあった何か大いなるものが失われてしまったことによる深い悲しみです。

光り輝きを全く喪失してしまったような痛みであったのです。

そして、それは全く希望を失ってしまったかのような苦しみでありました。

主イエスが十字架の死につかれ、そのご遺体が墓に納められた時、主イエスの後についてきた人々は、全く愛と希望を失ってしまったことに心を重くしたのです。

そして、苦難と十字架の死にすっかり言葉を失い、悲しみに沈んだのでありました。

しかし、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、主イエスはよみがえり復活されたとの知らせが女性たち、弟子たちに伝わります。

そして、墓に納めた主イエスのご遺体が何者かによって持ち去られたと思い、墓の外に立って泣いていた者に、復活の主イエス・キリストは現れました。

主イエスは、何か自分自身の思いや考えで思い違いをしている人に現れます。

主イエスの十字架の死は滅びへと至り、愛と希望を失ってしまうことで全て終わってしまったと取り違いしている人に、主イエスは現れました。

主イエスは父なる神から遣わされ、父なる神と共におられるのであります。

そして、主イエスを見た者は神を見たのでありました。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、それは、この世の暗さが残っているうちに「わたしは主を見ました」と伝えた者がいたのでした。

そのことに大変驚き、心に疑いを起こす者もいました。

その出来事は、主イエス・キリストご自身が苦難を受けられ、十字架につけられ、死につかれ、復活させられる前にすでに予告されたことでもあったのです。

すなわち、父なる神がその愛を全力で注いで主イエスにお頼みになられ、お任せになられ、託されたことを、主イエスはすでにその時点でもうそうなっている事実を表しておられるのです。

しかし、この世に生きるわたしたちには暗く重く沈んだ心があります。

それによって見えなくなってしまうことがあります。

心が何らかのことで、また言葉で閉ざされてしまっていることがあります。

あるキリスト者は次のような文章を残しています。

「わたしたちが目に見えないものに目を注ぎ続けるようにと、神は願っておられます。

なぜなら、わたしたちはいとも簡単に見えるものに心を奪われてしまうからです。

もしペトロが水の上を歩き続けるつもりなら、彼は歩く必要がありました。

また、もしイエスのところまで泳いでいくつもりなら、泳がねばなりませんでした。

両方を一緒にすることはできません。

鳥が空を飛ぼうとするなら、自分の翼の浮力を信じて垣根や木々から離れなければなりません。

もし地上にすぐ届くような範囲で飛ぼうとするなら、上手に飛ぶことはできないでしょう。

神はアブラハムに自らの力の限界にまで至らせ、自分の体では何もできないことを悟らせる必要がありました。

彼は年老いた体が死んだと同様であると見出し、それゆえ神がすべての業をしてくださると信頼しなければなりませんでした。

彼が自分自身から目を離し、ただ神だけを信頼した時、彼は『神はその約束されたことをまた成就することができる』と確信したのです。

これこそ神がわたしたちに教えようとされていることです。

わたしたちが神を全く信頼するようになるまで、神は喜ばしい結果を遠ざけられます。そしてわたしたちが信じた通りに、神は喜んでご自身の御言葉を現実のものとしてくださいます。

御言葉が真実であることを証明してください、と神に求めるようなことはしません。

また「わたしが信じることができるように、まずそれを見せてください」とも願いません。

ただ、神がそのように言われたゆえ、それは真実であると知るだけでわたしは十分です。

変わることのない神の御言葉に、わたしたちはわかるようになるまで信頼し続けるのです。」

週の初めの日の朝早くの出来事から弟子たちは大きな驚きとともに、強く不安を抱きました。

主イエスを十字架にかけて行った者たちが、今度は弟子たちにどう出てくるかわからないという恐れがやって来たのです。

弟子たちは州の初めの日の夕方、主イエスを十字架にかけた人々を恐れて、人たちのいる家の所に鍵をかけていました。

主イエスの弟子たちは外に出ないで閉じこもっていたのです。

その日の朝に主イエスはよみがえったとの知らせが伝えられ、「わたしは主を見ました」という人がいても弟子たちは、自分たちのいる家にだれも入ってくることができないよう鍵をかけ、外に出ることもしないで恐れて閉じこもっていたのでした。

するとそこへ、復活の主イエスが来られて、皆の真ん中にお立ちになられておっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように。」

それは穏やかであり、和やかであり、和らぎであり、平安があるようにという御言葉でした。

恐れではなく、不安ではなく、また罪責感ではなく、復活の主イエスと共にあるように。

主イエスはそうおっしゃって、十字架の傷を弟子たちにお見せになられ、重ねておっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように。」

復活の主は希望を確かにお届けになられました。

しかし、復活の主イエスが弟子たちのいる家に来られた時、弟子十二人の内の一人でディディモと呼ばれるトマスは、主イエスが来られた時、彼らと一緒にいませんでした。

そこで他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言いました。

するとトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。

トマスは復活の主が弟子たちのいる家に来られた時、どうしたことかそこにいませんでした。

そのことから、トマスはほかの弟子たちとの間に何か気まずいような、お互いの気持ちがしっくり合わないような何かがあったのでしょうか。

頑なになっていたのでしょうか。

自分がその場にいなかったことを痛く気にしていたのでしょうか。

「見なければ、触れなければ、決して信じない」と言います。

しかしトマスは、かつて主イエスとその弟子たちと一緒にガリラヤ地方を歩んでいた時に、「わたしたちも行って一緒に死のうではないか」とさえ言っていた人物でありました。

主イエスに対する忠実さと勇気を持ち合わせ、他の弟子たちにその覚悟を呼びかけていたのです。

そしてまたトマスは主イエスに、「どこへ行かれるのか分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と率直に尋ねています。

主イエスはトマスの訴えにこうお答えになられました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

主イエスご自身が道そのものであるとおっしゃったのです。

そしてそのお答えを引き出したのはトマスでありました。

主イエスが復活された、主イエスを見た、という知らせを聞いてから八日が経ちました。

一週間の間、トマスの心はざわつき、心が騒ぎ、道が見えないようでありました。

心が沈み、力が失われ、闇の中を、重荷を負って歩んでいるようでありました。

それでもトマスは弟子たちと一緒に家の中におりました。

一週間経っても家の戸にはみな、鍵がかけてありました。

しかしそうであったのに、主イエスが来られて真ん中にお立ちになられ、「あなたがたに平和があるように」とお語りになられました。

そしてトマスにおっしゃいました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

またあなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

道であり真理であり命である復活の主イエスは、「見なければ触れなければ信じない」とトマスが言っていたそのままの言葉に合わせるようにしてお答えになられます。

トマスの言葉を、トマスの心を、そしてトマスの重くなり、悩み、静まらない魂を、主イエスはそのまま受け入れてくださったのです。

見なければ、触れてみなければ決して信じないと言っていたトマスに、道が開かれたのです。

真理に向かって、命に向かって、トマスは歩み出すのです。

トマスの顔は輝いていました。

待ち望んでいた光を目の前にし、心を騒がせていたけれども、平安が溢れたのです。

トマスに復活の主イエスは来てくださいました。

十字架の死で亡くなり失われ、すべて希望を失ったと思っていたトマスに、平和が訪れたのです。

トマスは答えて言いました。

「わたしの主、わたしの神よ。」

そこで主イエスはトマスにおっしゃいました。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである。」

もはやトマスは主イエスのお身体には触れませんでした。

主イエスはトマスを励まされました。

「あなたに平安があるように。」

心の中に霧がかかったように、言葉にできない不安があり、混乱している者に、主イエスは外に求めるのではなく内に、すなわち、主イエスが父なる神を百パーセント信じ、信頼したように、信じ、信頼する道に入る者に、真理を指し示し、永遠の命の希望、その光をお与えになられました。

わたしたちは今も生きておられる、わたしたちの主、わたしたちの神と共に道を歩んで行きます。