【恵みもいやませり】 ローマの信徒への手紙5章12節~21節
わたしたちを包んでいる季節は、晩秋から冬に向かいつつあります。
木々の葉も枯れ葉となり、冷たい風に吹かれて舞い落ちています。
わたしたちの生きるこの世界においては、わたしたちの心をすっかり冷やしてしまうかのようなことが起こります。
また、自分では正しいと思っていたことが間違っていたということもあったり、もう二度とは、と思っても再び繰り返し間違ってしまったりということもあります。
このように、人間の弱さや人間の罪ということを思うとき、神から遠く遠く離れてしまっていると感じることもあります。
旧約聖書の創世記には、ノアの箱舟の物語が出てまいります。
主なる神は、この世、この地をご覧になられました。
それは、この地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思いはかっているのをご覧になられたからでした。
そこで主は、地上に人を造ったことを後悔され、心を痛められて、こうおっしゃいました。
「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。」
神の御前に、この地は堕落し、不法に満ちていたのでありました。
そして、「すべて肉なるものを終わらせる時が、わたしの前に来ている。
彼らのゆえに不法が地に満ちている。
見よ、わたしは地とともに彼らを滅ぼす。」
と語られたのであります。
はたして洪水が起きることとなりますが、神に従う無垢な人であったノアとその家族、そして生き延びるよう選ばれた命ある生き物たちは、神が造るよう命じられた箱舟に乗って救われます。
この洪水の後、主なる神はノアとその家族、そしてすべての生き物と契約を結ばれました。
それは祝福の契約であり、「すべてをことごとく滅ぼすことはしない」という契約でありました。
そして、雲の中に虹が現れ、それを見るとき、神と人との間に立てた永遠の契約に心を留めるしるしとなったのでした。
神はノアとその家族を導き、新しい歩みを始めさせてくださったのです。
このことは何を意味しているのでしょうか。
旧約聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。
それは、人間が罪を犯し、神から遠く離れてしまっているように思えても、神は人間を見捨てることなく、救いと希望をお与えになっておられるということを伝えているのです。
ノアは確かに神に従う無垢な人でありましたが、罪がなかったということではありませんでした。
主なる神が契約を結ばれたのは、罪のない完全な人間ではありません。
そしてまた、洪水の後になっても、人間の心の罪がなくなったということではありませんでした。
主なる神は、「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」とさえおっしゃいます。
しかし、それでも地の続く限り、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も止むことはないとおっしゃって、祝福の契約を神は人との間に結ばれるのです。
人間の弱さ、脆さを知りながらも、それでも人間を愛し、希望を持つようにと、主なる神は契約を結んでくださったということであります。
神の愛と赦しは、人からではなく、神ご自身から溢れ出ているのであります。
その神の愛と赦しに満たされたパウロは、旧約聖書をもとに救い主を証言するのであります。
弱く罪ある人間であるけれども、救い主イエス・キリストによって救われたということを語るのです。
パウロは、旧約聖書の創世記から、人間は良いものとして神により造られたことを踏まえながらも、
「一人の人によって罪が世に入った」と言います。
そして、「罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と述べます。
パウロは、聖書で述べられている一人の人、すなわちアダムについて取り上げています。
今ここで、聖書の言葉に耳を傾けているすべての人々に及ぶことを語り始めるのです。
主なる神は人間を良いものとして創造されましたが、その一人の人と言われるアダムは、神の御言葉に従わず、自分で善悪を決めようとしました。
目が開け、神のように善悪を知る者となることを選んでしまったのです。
目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていたものに、人は手を出してしまったのでありました。
それは、「神なしでも生きていける」という人の姿勢であり、神の御心から外れてしまっている罪でありました。
親の心、子知らずとたとえることもできますが、それ以上に神から外れ、背いているのです。
罪が入るとき、死も入ったのでありました。
それは人間の肉体としての死だけではなく、神との交わりが崩れ、神との関係が崩れてしまっているということであります。
神と人との関係が崩れ、破壊されてしまったことにより、人は自分自身を見失ってしまったと言えます。
神が良いものとして人を創造し、御自身にかたどって人を創造されたにもかかわらず、人は自分自身を見失ってしまったというのです。
聖書にも記されています、争い、憎しみ、妬み、また無関心。
それは神から外れ、離れた人間の姿を映し出しているのです。
罪が入り、死が入ることとなってしまった一人の人アダムでありますが、パウロはこのように述べます。
「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」
神から外れ、離れ、遠ざかっているという罪。
その罪は人間の存在全体を支配する力となり、人間を神から引き離すこととなったのです。
現代においても、どんなに進歩しても、どんなに便利なものを作っても、この罪を取り除くことはできないでいます。
人間には、この罪の状態を自力で克服することができないのです。
しかし、とパウロは言います。
今日の聖書、新約聖書ローマの信徒への手紙5章15節です。
「しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。
一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。」
すべての人に及んでいる罪の問題。
誰も自分の力でその問題から自由になることができないでいる。
しかし、というのです。
神の恵みは、アダムの罪をはるかに上回っているというのです。
しかし、とパウロは言います。
今日の聖書、新約聖書ローマの信徒への手紙5章15節です。
「しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。
一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。」
すべての人に及んでいる罪の問題。
誰も自分の力で、その問題から自由になることができないでいる。
しかし、と言うのです。
神の恵みは、アダムの罪をはるかに上回っているというのです。
一人の人アダムにより罪と死が入ったのであれば、一人の人イエス・キリストの恵みは、なおさら大きく、多くの人に神の恵みをもたらすのです。
その影響は罪よりも大きく、神の恵みは罪をはるかに超えて深く大きいのです。
これは賜物であり、神から与えられるのです。
神の恵みの賜物は、罪をはるかに超えているのです。
わたしたちは時に、罪の重さと深さ、罪悪感に耐えかね、そのことにより絶望感にとらわれてしまうことがあるかもしれません。
しかし、神の恵みはその罪の影響をはるかに超えていると、パウロは言います。
わたしたちの罪よりも神の恵みは大きく、わたしたちの失敗や敗れよりも神の赦しは大きく、わたしたちの弱さよりも神の愛は大きいのです。
ですから、パウロは言います。
「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」
イエス・キリストの十字架の死は、人の罪の赦しのためでありました。
罪がなかったことにしようというのではありません。
忘れてしまおうというのでもありません。
罪は赦されたのです。
主イエス・キリストによって。
しかも、多くの過ちがあっても義と認められたというのです。
神の恵みはそれほどまでに大きく、神の愛はそれほどまでに深いのです。
この神の恵みの賜物が働くときには、いかに多くの罪があっても、主イエス・キリストの御名によって無罪の判決が下るということです。
「一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」
パウロは、一人の人アダムによって入った罪と死が、一人の人イエス・キリストの恵みによって赦され、正しいと認められたことを大きな喜びとしています。
それは、「ここまで」と限定されたものではなく、また「必要最小限」というものでもなく、あふれるほど豊かに与えられているというのです。
そしてわたしたちは、それをお受けしているのです。
あふれるほどに。
「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
神は、すべての人に命の義をお与えくださったのです。
罪と死の恐れに縛られて生きることがあっても、永遠の命が約束されているのです。
この世に生きるわたしたちには、病があり、疲弊があり、苦しみがあります。
しかし、それらがわたしたちの主人ではありません。
復活の主イエス・キリストが人生の主人です。
このお方がわたしたちを愛し、赦し、永遠の命の希望をお与えくださったのです。
この一人の人イエス・キリストの正しい行いによって、すべての人が命の義を与えられているのです。
ですから、「一人の人(アダム)の不従順によって多くの人は罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
主イエス・キリストは、父なる神に聴き、従われたのでした。
主イエスのこの行いは、正しい行為であったのです。
主イエスは十字架の死に至るまで従順であり、最後まで父なる神に従われたのでした。
このお方によって、わたしたちは正しい者とされるのです。
わたしたちの罪と背きとが赦され、すべての人が正しい者とされるのです。
もともと律法学者であったパウロは、その律法についても語ります。
「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでした。
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
律法は、人の罪を明らかにし、はっきりと知ることができます。
しかし、その律法は人を救うことができません。
罪を定め、増し加えることはできますが、それを拭い取ることはできないのです。
律法そのものが、わたしたちを罪から救うのではありません。
復活の主、今も生きておられるキリスト・イエスが、私たちの救い主です。
恵みはなおいっそう満ち溢れたのです。
「なおいっそう」とは、「圧倒的に」ということであります。
罪が増したところには、恵みがそれ以上に、圧倒的に満ち溢れたのです。
「こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」
罪がどれほど深くとも、主の恵みはそれを超えて働くというのです。
わたしたちは罪ばかりを見て絶望するのではなく、十字架の死から復活された主イエス・キリストを見上げるのです。
これまでどのような困難があっても、神の恵みはあなたを見捨てず、支えてくださいます。
この世にあって、罪は人を傷つけ、争いによって社会を壊し、神との信頼関係をも断絶させてしまいます。
しかし、それにもまして、神の恵みはイエス・キリストにおいて、なお一層満ち溢れています。
「恐れるな。人間の罪よりも、わたしの恵みは大きい。」
そのように主は語っておられるのです。
主が愛と赦しと命をお与えくださった恵みを感謝し、支えられ、また分かち合いながら、主イエス・キリストと共に歩みます。
