【約束されたものを受け継ぐ】 ヘブライ6章4節~13節
「信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ」そのことを、今日の聖書は語り、願っています。
わたしたちの生活には、いろいろな時があります。
晴れやかな秋空のように、澄みわたった喜びに満たされる時、主なる神が共におられると実感できるような時があります。
また、それとは反対に、「神は本当にわたしを導いておられるのだろうか」と思う時もあるかもしれません。
今日の聖書は、その後者、しかも世の中にあって、信仰の、自分の信じていることのさまざまな戦いの中にある人々に語っているのです。
この世において、目に見える、見えない、実に多くの戦いということがわたしたちにはあります。
今までは堅く守ってきたという人にとって、攻めるということが今必要となったということを経験されたことのある人もいるかもしれません。
しかし、わたしたちのそのような場面において、人の目には見えない戦いの中で苦しみ、悲しみ、力落とし、すっかり消耗してしまうということがあるかもしれません。
今日のヘブライ人への手紙は、そのような困難、しかもそれは、この世の中で生きるわたしたちのさまざまな困難に遭っている人々へ向けられ語られています。
この世の人生という旅路を歩んでいる。
しかし、苦しんでいる、悲しんでいる、消耗し意気消沈している。
その現状に、ヘブライ人への手紙は神の霊、聖霊がこう言われると思っています。
「今日あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けた頃、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。
荒れ野で、あなた方の先祖はわたしを試み、試し、四十年の間、わたしの業を見た。
だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。
『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』
そのためわたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」
「兄弟姉妹、あなたがたのうち、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。」
この世の中において、わたしたちはさまざまな出来事や事象を経験する中で、闇を見ることがあり、悪を見ることがあり、暴走を見ることがあります。
心の中で救いを追い求めつつも、光を見失っていることがあります。
自分の心の闇と戦っているようで、実は闇に飲み込まれてしまっているようなことがあるかもしれません。
「悪い心を抱いて」ということは、生ける神から離れてしまう、本来の光から逸れてしまい、怒りや不安や恐れや強欲に支配されてしまった戦いということができます。
ヘブライ人への手紙は、そのような心の中で光が遠ざかり、この世の風が吹き付け、希望のともし火が揺らぎ始める戦いの中で、信頼を語るのです。
この世の中で主なる神を信頼し、歩むことを呼びかけ、語るのです。
旧約聖書の出エジプト記には、エジプトの国に奴隷として捕らえられていた古代イスラエルの多くの人々が、エジプトから救い出されたことが記されています。
指導者モーセを先頭に、主なる神の導きによりエジプトの国を脱出したのでありました。
しかし、後に古代イスラエルの詩人は詩編106編6節以下で、古代イスラエルの民の歩みをこのように歌っています。
「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった。
わたしたちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず、豊かな慈しみに心を留めず、海辺で、葦の海のほとりで反抗した。
主は御名のために彼らを救い、力強い御業を示された。
葦の海は主に叱咤され干上がり、彼らは荒野を行くように深い淵を通った。
主は憎む者の手から彼らを救い、敵の手から贖われた。
彼らを苦しめる者はすべて水に覆われ生き残る者はひとりもなかった。
彼らは御言葉を信じ、賛美の歌をうたった。」
しかし、それにもかかわらず、古代の詩人はこう続けて歌っています。
「彼らはたちまち御業を忘れ去り、神の計らいを待たず、荒れ野で欲望を燃やし、砂漠で神を試みた。」
彼らはたちまち御業を忘れてしまい、待たなかったというのです。
エジプトの国を脱出した民は、主なる神により、葦の海を渡らせていただき、荒れ野で導かれ、水を与えられ、食べ物を与えて下さいました。
それでも民はたちまち忘れてしまったのです。
荒れ野を行く中で、神が盾となられた民の指導者モーセは、神から律法を授けていただくために山に登りました。
しかし、モーセが山からなかなか下りてこない。
すると、人々はモーセの兄アロンのもとに集まって言いました。
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。
エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのかわからないからです。」
そこで押し切られてしまったのでしょうか。
アロンは人々から金を持ってこさせて集め、それを用いて金の子牛の像を造りました。
彼らは待つことがどうしてもできなかったのです。
それは「我慢ができなかった」ということではなく、また「我慢しなさい」ということでもありません。
見えない神を信頼することよりも、目に見えるものに頼ることを選んだということでありました。
主なる神は、彼らをあのエジプトの国から連れ出し、救い出されたのです。
それは彼らの呻きと叫びと嘆き、そして助けを求める声を聞いたからでありました。
主なる神は大きな御業をなしてくださったのです。
それにもかかわらず、今、モーセが見えない。神の御業も見えない。これからどうなるのかも見えない。
彼らは不安になりました。
そして、開いてはならない扉を開いてしまったのです。
不安を埋めるために、目に見える神を造ったのでありました。
待つことが、信頼することが、できない。
そのことに焦って、早くしなければならないと思って苛立ち、神に信頼して待つことをしないで、自分でなんとかしようとしたのです。
勿論、わたしたちは責任を持って事に当たっています。
しかし、その「わからなさ」の中で、主なる神を待つことをやめて、自分の能力のみを頼りにし始め、自分で道を造り出すことが起こります。
金の子牛を造り始めることが起きたのでありました。
その扉を不安になって開くことではなく、主なる神が何もしてくださっておられないように見える時にも、主なる神を信じ続けることなのです。
古代イスラエルの民は、エジプトを脱出する時には、主なる神を信頼しました。
葦の海を目の前にした時にも、主なる神の力を見ました。
海が、海の水が別れるのを見ました。
しかし、たちまち忘れてしまい、モーセが見えなくなり、神の御業が見えなくなると、彼らは待つことが不安になったのです。
主なる神は山にいるモーセにおっしゃいました。
「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道から逸れてしまった。」
主なる神が命じた道とは何でしょうか。
それは祝福の道です。
恵みと幸いの道です。
主なる神はさらにモーセにおっしゃいました。
「わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。
わたしは彼らを滅ぼし、あなたを大いなる民とする。」
しかし、すかさずモーセは主なる神をなだめて言いました。
あなたが大いなる御手をもって導き出されたこと、ご自分の民に下す災いを思い直すこと、アブラハム、イサク、ヤコブに約束した祝福を思い起こすこと、をです。
主なる神は、その民と深く関わっておられるのです。
ですから、その罪を問題とされたのでありました。
民を見捨てるのではありません。
深く関わっておられるからこそ、主なる神は罪を罪とされたのです。
それでもモーセは、罪を犯した民を見捨てることなく、神の御前に立ち、執り成したのでありました。
それはモーセの祈り、願いであり、主なる神を待ち望むことであり、再び主に目を向けることでありました。
主なる神は、ご自身の民にくだすと告げられた災いを思い直されたのでありました。
ヘブライ人への手紙は、さまざまな困難と嘆き、そして不安の中にある人々に、「成熟を目指して進みましょう」と語りかけます。
「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。」
そして、それに加えて、やや厳しいとも言える言葉を語ります。
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来たるべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち返らせることはできません。
神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
主なる神の光に照らされ、救い主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦され、天からの賜物とその恩恵を味わい、聖霊に預かり、神の御言葉と来たるべき力を体験したのです。
それにもかかわらず、その後、「堕落した者の場合には」とヘブライ人への手紙は言います。
その厳しさはひときわ際立っています。
しかし、その言葉は次に続くためにあるのです。
一度照らされた光、そして今も新たに照らされている光に続いているのです。
ヘブライ人への手紙は語っています。
「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」
この警告は「危ない」と叫び、それは命を守るためです。
そしてヘブライ人への手紙は希望に向かって続けます。
「しかし、愛する人たち。こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなた方について、もっと良いこと、救いに関わることがあると確信しています。
神は不義な方ではありません。
あなた方の働きや、あなた方が聖なる者たちに、以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」
わたしたちの人生には、目には見えない荒野を行くことがあります。
心がざわつき、騒がしく思うこともあります。
先のことがわからず、それがいつまで続くのかもわかりません。
自分でなんとかしようとして、待っていることができない。
今見えている現実、金の子牛の方が確かに思える。
しかし、あなたは忠実に仕いなさいと言うのです。
主なる神の時を待ちながら、今日できること、祈ること。
子どもたち、若者たち、教会、地域、弱っている人のために、そして信仰、信頼を失わないために励まし合うこと。
感謝すること。
泣いていても笑顔でいること。
礼拝に仕えること。
主は以前も今も、あなたが仕えておられることをお忘れになりません。
聖書は呼びかけています。
「主なる神の約束を握りしめなさい。」
その約束は神の祝福であり、神の恵みであり、神の幸いであります。
わたしたちはこの約束を受け継ぐのです。
主なる神を信頼し、主なる神の約束を待ち望み、主に仕え歩むのです。
わたしたちの祈り願いは、主なる神に希望を置き、信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐことです。
その歩みが、わたしたちの祈りです。
