【思い煩うな】 ルカによる福音書12章22節〜34節

「思い煩うな」と、今日わたしたちに与えられた聖書は語っています。

聖書は、主イエス・キリストのお語りになられた言葉を記しています。

主イエスは、かつておられ、今おられ、やがて来られる方です。

そのお方がお語りになられたのです。

わたしたちのこの世の日常生活には、思い悩むこと、思い煩うことが実に多くあります。

過去にあったこと、現在のこと、そして未来のことなど、さまざまな時間の層の中で心配事があると言えます。

社会的にも、このことは必要であった、また必要になってくるのではないかと考え、取り組んでいた多くのことに対して、その脆弱性が発見されたことにより、すべてが止まってしまうということがありました。

情報処理を行う言語の問題ということでありますが、わたしたちは日々、どのような言葉を用いているのだろうかと、今さらのように思ってしまいます。

主イエス・キリストがこの地上に生まれられたその時も、この世において人々はいろいろなことを言い合っておりました。

そして、主イエスがこの地上を歩まれた時、妬みと憎しみを持った者たちが、主イエスの言葉じりを捉えようと願っていました。

主イエスのもとには、多くの人々が集まってきておりました。

その一人ひとりには、さまざまな問題があったことがうかがえます。

それは現代のわたしたちにとっても同様であり、一世紀当時の人々と変わりがないのかもしれません。

健康のこと、仕事のこと、人間関係のことなど、人々の抱える問題や課題は数多くありました。

主イエスのもとには数え切れないほどの群衆が集まり、足を踏み合うことになっていました。

その状況は、人々の問題の多さを物語っているかのようです。

すると、群衆のある一人が主イエスに言いました。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください。」

数え切れないほどの群衆が押し寄せる中、その一人は主イエスと対面することができたのです。

当時、ユダヤの教師であるラビには、人々の争いの仲裁や律法の解釈を行うことが期待されていました。

対面したその群衆の一人は、主イエスにラビとしての役割を期待したのでありました。

そのことに対して、主イエスはおっしゃいました。

「誰が、わたしをあなた方の裁判官や仲裁人に任命したのか。」

主イエスは、その人の依頼をそのまま受けることはなさいませんでした。

そして人々一同に目を向けられ、こうおっしゃいました。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。

有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

そして主イエスは、たとえ話をされました。

「ある金持ちの畑が豊作であった。」

そこでその人は言います。

「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。」

そこでこの人は計画を立てます。

今ある倉を壊して、より大きな倉を建てる、そしてその倉に作物を蓄え、安心を手に入れる。

この計画は合理的でありました。

経済的な観点からしても堅実で賢明に見えます。

しかしそこには神への信頼はなく、神の御心を考慮することもなく、自己完結した人生観が合理的な計画の中に垣間見られます。

この人は、未来が自分の支配下にあると思い込んでいるのです。

しかし、主イエスのたとえ話の中で、神はおっしゃいました。

「愚かな者よ。

今夜、お前の命は取り上げられる。

お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」

古代の詩人もこのように歌っています。

「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。

人々は腐敗し、忌むべき行いをする。

神は天から人の子らを見渡し、探されます。

目覚めた人、神を求める人はいないのか。」

「神などない」と言う者が、生産活動や経済活動で成功したとしても、神との関係において大きな失敗をしていると、主イエスはたとえ話を通して語っておられるのです。

主イエスは、さまざまなことを人は計画し管理できても、自分の寿命を管理することは究極的にはできないのだから、神の御前に豊かになるようにと勧めておられます。

貪欲というのは、偶像礼拝にほかなりません。

神に向けるべき信頼を富に向ける時、それは偶像となってしまうのです。

主イエスのたとえ話の中の人は、倉の作物に安心と安全の保証を求め、神への信頼を向けなかったのでありました。

主イエスは富を否定しているのではなく、人の心の向きをお語りになられました。

そのことこそが、神の御前に豊かになることに重要な意味を持っていたからです。

真の神から離れ、方向を見失い、「これだ」と思った行き先も絶えず変わっていく中で、人は不安に駆られ、心配になり、神との交わりとは異なるものにとらえられてしまうことがあります。

信頼することは大変難しく感じられ、冷笑主義的な態度で生きざるを得ないかのような現代です。

しかし、聖書の御言葉を通して、静かな祈りを通して神との時間を持ち、交わりを大切にすることが、神の御前に豊かになること、感謝へとつながっていくのです。

それから主イエスは、その弟子たちにおっしゃいました。

「だから言っておく。

命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」

だから主イエスはおっしゃいます。

神の御前に豊かになることを忘れないように、と。

持っているものが十分にないと安心できないという恐れ、そしてまた、持っているものが多ければ安心できるという考え方ではないのです。

少なければ少ないことを心配し、持っていれば失うことを恐れ、得られないことを恐れます。

そのことからも、わたしたちの問題は持ち物の量だけではないのです。

わたしたちの心をどこへ向けているのか。

わたしたちは何によって人生の安心を得ようとしているのか。

そのことなのです。

主イエスは、食べ物も着る物も、人が生きていくために必要なことをよくご存じです。

しかし、それらのものがわたしたちの心の主人となってしまい、私たちは必要なものを求めるだけではなく、必要なものへの不安に支配されるようになってしまうことがあります。

命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だと主イエスはおっしゃいます。

食べ物は命を支えるために必要であり、衣服は体を守ります。

しかし、食べ物より命が大切です。

衣服より体が大切です。

それらをお与えくださったのは神であります。

人が自分たちの力や努力で生み出したのではありません。

人がすべてを自分で支配しなければならないと思い込む必要はありません。

わたしたちにはできることがあり、また同時に、できないことがあります。

備えることはできます。

しかし、明日起こるすべてのことを決めることはできません。

病に備えることはできます。

しかし、病を完全に避けられるとは限りません。

友を愛し支えることはできます。

しかし、友の人生のすべてを思い通りにすることはできません。

神に委ねてよいということを知ることなのです。

また、自分には支配できないことがあることを知ることなのです。

そして神に委ねるのです。

主イエスはおっしゃいます。

「烏のことを考えてみなさい。

種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も蔵も持たない。

だが神はカラスを養ってくださる。

あなた方は烏よりも、どれほど価値があることか。」

聖書で烏は、あまり清い鳥として扱われていないと言えます。

しかし主イエスは、その烏をも神が養ってくださると、その思いの深さを語っておられるのです。

神の養いは、人間が決めた価値の基準に閉じ込めることはできません。

もちろん、烏も鳥も何もしないわけではありません。

人間も活動をし、食べ物を得て、将来にも備えます。

主イエスがおっしゃるのは、自分の存在のすべてを自分の力で保証しているのではない、ということです。

わたしたちが生きるのは、多くの恵みによって支えられているということです。

足りないもの、失ったものばかりを数えるのではなく、恵みを一つひとつ数えてみることです。

そして神が支えておられることを知ることなのです。

ですから主イエスはおっしゃいます。

「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さなことさえできないのに、なぜほかのことまで思い煩うのか。」

わたしたちの共同訳聖書では「思い悩むな」となっていますが、言葉の意味合いとしては「思い煩うな」の方が近いかもしれません。

心配すること、気にかけることが多く、わたしたちにやって来ます。

その心配や気がかりなことが心いっぱいになってしまい、不安になって何度も同じことを考え、ついにわたしたちを支配してしまう。

そして、ついには神への信頼を失ってしまうことになってしまうのです。

しかし、神はいつも神でいてくださるのです。

神はこの世を支え、明日を知っていてくださるのです。

ですから、問題を考えないようにするのではなく、その問題を神の御前に持って行くのです。

主イエスは父なる神に目を向け、心を向けられ、人々の罪の赦しのために苦しみを受けられ、十字架につけられました。

しかし、復活させられました。

父なる神に目を向け、心を向け続けてくださったからであります。

そのことにより、わたしたちは救われました。

主イエスはさらに神の養いについて語られます。

「野の花がどのように育つかを考えてみなさい。

働きもせず、紡ぎもしない。

しかし言っておく。

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださるのです。

まして、あなた方にはなおさらのことである。

主イエスは「あなた方にはなおさら」とおっしゃって、小さなものから大きなものへと向けて語られます。

健康であるから、財産があるから、成功したから、何かを所有しているから、能力があるから価値が決まるというのではありません。

それらを失ったとしても、神の御前において命の尊さは変わらないのです。

私たちが心配と不安にとらわれるとき、「ましてあなた方は」と語ってくださる主の愛への信頼に立ち返るよう、主イエスは招いておられます。

「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。

また思い煩うな。

それは皆、世の異邦人が切に求めているものだ。

あなた方の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。

ただ神の国を求めなさい。

そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」

さらに主イエスはおっしゃいます。

「小さな群れよ、恐れるな。

あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

主イエスは、この世にあって「ただ神の国を求めなさい」とおっしゃいます。

この世の価値観、この世の人生観、そしてこの世の評価は変わり、揺らぎ、失ってしまったと思うことがあるかもしれません。

しかし、ただ神の国を求めることにより、神のご支配の中で、すなわち「すべては神がお与えくださったのだ」と人生を受け止めることができるのです。

ですから、「小さな群れであっても恐れるな」と主イエスはおっしゃるのです。

神はあなたのことをどこまでもご存じなのです。

そして神の国はあなたの中に現れるのであります。

私たちの、またあなたの心を占めているものは何であるのでしょうか。

心を支配しているものは何であるのでしょうか。

主イエスは、神が養ってくださることへの信頼をお語りになります。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。

擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。

そこは盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。」

そして、この箇所を締めくくるように主イエスは語られます。

「あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」

神の国ではないもの、すなわち神のご支配でないものに支配されることから、神の愛と恵みによって自由にされ、生きることを主イエスは語っておられるのです。

わたしたちは思い悩み、「どうしたらよいのだろう」と考え込む時があります。

そして、「どうなってしまうのだろう」と心配する時があります。

わたしたちの心が、この世にあって心配と不安に支配されることがあったとしても、わたしたちを養い、顧みてくださる神に信頼して、心の耳を傾けるのです。

救い主イエス・キリストは、今日もここで、

「思い煩うな」

と、恵みのうちに確かに語っておられるのであります。