【天には】 マタイによる福音書5章1節~12節

今日、この朝、わたしたちは合同追悼記念礼拝に集いました。

これまでの歩みの中で、わたしたちと共に生き、共に歩み、今はこの地上での歩みを終えられた敬愛する方々を偲び、記念しております。

それぞれの方々のお写真を掲示し、それぞれの方々の思い出とともに礼拝をおささげいたします。

共に食卓を囲んだこと、交わされた言葉や表情、何気ない日常のひととき、そして時には励まされたこと、慰められたこともありました。

長い年月を歩まれた方、まだまだこれからと思う時にこの地上の生涯を終えられた方もおられます。

病と闘いながら歩まれた方もおられれば、ご家族やご友人に支えられながら静かに最後の時を迎えられた方もおられます。

合同追悼記念礼拝において、わたしたちは今、主なる神の御前に集いました。

わたしたちは天に召された方々を偲びながら、神の御前に立っています。

この地上にあっても神のご支配があることに思いを向けます。

そして、この地上は天そのものではありませんが、この地上に天が映し出され、告げられていることに思いを向けます。

主イエス・キリストはお語りになられました。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

この地上においては、思いもよらない言葉であるかもしれません。

悲しみは悲しみであって、その悲しみをわたしたちは深く受けとめなければならないのです。

しかしわたしたちは、この地上を超えていくもの、この地上の現実だけがすべてではないことを、神の御前において分かち合うのです。

今日の聖書は、主イエス・キリストが山の上で弟子たちにお教えになられた言葉であります。

主イエスはその時すでに町や村を巡って、多くの人々の病を癒やされ、会堂で教えておられました。

ですから、多くの群衆が主イエスのもとへやって来て、主イエスに従っていたのでありました。

そこで主イエスは群衆を見て山に登られた、と聖書にはあります。

主イエスは多くの人々を目の前にしておられましたけれども、一人ひとりを見ておられたのでありました。

それはこの地上を歩む一人ひとりでありました。

それぞれに歩んできた道があり、今生きている場所があり、思っていること、考えていることも皆それぞれに異なっています。

しかし、この地上では苦しさがあり、悲しさがあり、つらさがあり、そして寂しさがあります。

その一人ひとりをご覧になられた主イエスは、山に登られたというのです。

山というのは、神が重要なことをお語りになられ、人々に大切なことを伝える場所として聖書に記されています。

主イエスは、ここに生きる人々をご覧になられて山に登られたのです。

それは、しばし人々から離れられるということではありませんでした。

むしろその反対です。

主イエスは、人々に命を与えられるために山へ登られたのでした。

そして主イエスは教えるために腰を下ろされると、そのお言葉を聞こうとして弟子たちが近くに寄って集まってきたのでありました。

弟子たちは、主イエスが人生の一歩一歩を定め、かなう道を備えてくださると信頼していたからであります。

「人は倒されても打ち捨てられるのではない。主はその手を取ってくださる。」

そのように信じた者たちに、主イエスはお語りになられたのでありました。

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

主イエスは幸いについてお語りになられます。

主イエスの弟子たち、そして主イエスのもとに集まった人々は、幸いについて聞きました。

しかしそれは、健康であること、仕事や家庭や社会生活が順調で不安がないこととは異なっていました。

心の貧しさを覚える人、悲しんでいる人、正しいことを求めながらも思うようにならない人、人から理解されず苦しんでいる人、そのような人々を主イエスは「幸いである」とおっしゃいます。

それは、天の国はその人たちのものだからです。

天の国、すなわち神の国においては、私たち人間が抱えている弱さや悲しみの中にいること、そのことによって神から見捨てられているわけではないからです。

この世においては、強く動じないことが評価されるかもしれません。

しかし、天の国においてはそうではないのです。

弱さや悲しみが良いのだということではありません。

ただ単に気の持ち方が弱いということでもありません。

自分の力だけでは生きることができないことを知っており、助けを必要としているということなのです。

古代の詩人もこのように歌っています。

「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。

主は打ち砕かれた心に近くいまし、砕かれた霊を救ってくださる。」

この世を歩むとき、自分の力ではもはや立ち上がれないほどの悲しみを負い、希望を失い、頼る術もなく、どのように歩めばよいのか途方に暮れる時にも、主は助け、救い、守ってくださるのです。

主は近くにおられます。

主イエス・キリストは、「悲しんではいけない」とは教えませんでした。

「悲しむ人々は幸いである」とおっしゃいました。

悲しみを抱えたままでよいのです。

その悲しみをそのまま、じっと見つめていてもよいのです。

涙を流しても、声を上げても、また手足が思わず動いてしまってもよいのです。

主イエスは、悲しみを忘れてしまおうとはおっしゃいませんでした。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

そうおっしゃったのです。

慰めとは、言葉で説明できるものではないかもしれません。

何も言わずにただそばにいてくれることが、その人にとって深い慰めになることがあります。

傷つき、悲しむことを許してくれること。失ったことについて共に語り、耳を傾けてくれること。それも慰めであるかもしれません。

主イエスが愛されたベタニアの村に、マルタとマリアという姉妹がおりました。

その兄弟ラザロが亡くなったという出来事がありました。

その中で、主イエスは涙を流されたとあります。

それはただ悲しみのゆえ、だけではありません。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

そうおっしゃる主イエスの涙でありました。

主イエスは人々の罪の赦しのために苦しみを受けられ、十字架の死を遂げられましたが、復活させられました。

それは神の大いなる愛と赦しを現わすこととなりました。

主イエスの涙は、この復活の力、愛と赦しの力によって流されたのでありました。

私たちは、自分たちの持っている思いをそのまま主の御前に持っていくことができます。

悲しみも、痛みも、そして寂しさも、主の御前に持っていくことができるのです。

主イエスは十字架の死と復活の主です。

主イエスは、この地上に天の国を宣べ伝えられました。

この地上にあって生きるすべての人々に、神の愛と赦しがあまねくあるようにとの祈りと願いがありました。

そしてその地上でのご生涯は、神の国、すなわち天の国が近づいたことを宣べ伝えることにささげられたのでありました。

主イエスは神の子として歩まれたのです。

「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」

主イエスは山の上でお語りになられました。

地を受け継ぐというのは、神がご自身のために与えられる祝福を表しています。

柔和な人々とは、神の愛と赦しの力に信頼する人々のことであります。

主イエスは、神への信頼に生きるところに祝福があり、幸いがあることをお語りになられるのです。

わたしたちは、その方々が歩まれる中で残していかれたものを思い起こします。

それは形あるものだけではありません。

生き方そのものがわたしたちに残されたものであり、その姿であり、苦しい時にも希望を失わずに歩む姿であります。

私たちの心には、その姿が残っています。

喜びもあり、悲しみもある人生を、今ここに覚え、わたしたちはそのことを静かに受け止めています。

主イエスはおっしゃいました。

「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

義とは、自分が個人的に正しい人になることではありません。

自分自身の不完全さを認めつつ、神の義が実現することを祈り願うことです。

そして、神のみが義と認めてくださるのです。

そのことを、食べ物を求め、水を求め、命を求めるように、飢え渇く人を、主は満たしてくださるのです。

そして神の憐れみは、主の御名にふさわしくわたしたちを正しい道へ導いてくださいます。

その憐れみに生きる人々に、主イエスはおっしゃいます。

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」

「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

神はよいお方であり、清いお方であります。

ですから、清い心を通して神を見るのです。

わたしたちはこの世にあって、主イエス・キリストを通して神を見ているのです。

そしてわたしたちは、主イエス・キリストによって神に愛されているので、主イエス・キリストの平和を、神の平安を祈り願うのです。

神の子としての生き方の出発点は、神に愛されているという恵みにあります。

ですから主イエスは、この世にあって天を仰ぎ見つつ、山の上でお語りになるのです。

「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

主イエスは、この世に生きるわたしたちに語りかけ、天からの光を示されます。

わたしたちが抱えるすべてのことを神はご存じであるということです。

喜びも悲しみも、人には十分に説明できなくても、神はご存じでいてくださるのです。

言葉にならない呻きや嘆きであっても、神はわたしたちの心をご存じです。

そのことを覚えながら、わたしたちは多くの証人たちに雲のように囲まれています。

そして主イエス・キリストを見つめながら走り抜くのであります。

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

合同追悼記念礼拝、皆さまの上に、神様の平安と慰めがありますよう、心よりお祈りいたします。