「仲間」  マタイによる福音書18章21節~35節

「仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と主イエス・キリストはお語りになられました。

わたしたちの主イエスはこの世に来られました。

お生まれになられ、幼子が成長し、やがて成人となられて、この世において神の御言葉を宣べ伝え始められました。

そして、主イエスご自身が神の御言葉です。

神が、わたしたちと共におられるということが主イエスにおいて実現したのです。

今日の聖書、新約聖書 マタイによる福音書は、主イエスは神の子として、そして、ご自分の民を罪から救うためにこの地上を歩まれました。

それは、この世界の中ではごく小さな一地方においてではありましたが、今から約二千年以上前、パレスチナ地方ガリラヤにお生まれなられ、その後ガリラヤ地方から主イエスは宣教活動をお始めになられました。

主イエスは、町や村を巡られ、神の国を宣べ伝えられ、病をいやされ、悪霊を追い出され、主イエスのもとには大勢の人々が集まっていました。

そして、主イエスに従う者たちも加えられていきました。

また、悪霊を追い出す力があるということだけではなく、主イエスのおられるそこに神の愛があると、心の飢え渇きを覚えた人々は見たのでありました。

主イエスは明らかに人々を救いに導こうとされておられました。

そして、人々を救われました。

一人ひとりは異なっていても、日々、重荷を負って精神的にも肉体的にも苦しんでいる人々は、主イエスのお姿に救いを見、やすらぎさえも感じ、与えられていました。

それは必ずしも社会政治的な安心ではなかったかもしれませんが、魂の慰めと平安をもたらすものでありました。

主イエスは、その行動、行いによって人々に平安をお与えになられたと言えます。

そして、今この時も目には見えませんが、主はここにおられるということにより慰めと励ましを、わたしたちは与えられているのです。

ある時、ガリラヤ地方を巡っておられた主イエスのもとに弟子たちが集まって来ました。

そして、弟子たちは主イエスに言いました。

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」

すると、主イエスは一人の子どもを呼び寄せて、弟子たちの中に立たせてこうおっしゃいました。

「心を入れ替えて、子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と、主イエスはまず心を入れ替えて、とおっしゃいます。

それまで心にあったものを変えるということでありますが、それまでに何が心にあったのでしょうか。

心の中で何を思い巡らし、何が心を支配していたのでしょうか。

弟子たちは、主イエスのおっしゃっておられた天の国では、ということを言っています。

そしてその天の国ではだれがいちばん偉いのかと言うのです。

おそらく弟子たちの質問の中では、天の国ということより重要に思われていたのは、だれがいちばん偉いのか、ということであったのではないでしょうか。

それは、個人の野心、ひそかに望んでいることであったということもできますが、そればかりではなく、その国、その暮らしに、大きく影響を及ぼす要因となるからでもあります。

その国の王、またはその暮らしの長が、人々の生活と命に大きく関わることでもあったからです。

天の国では、だれが最も影響力を持っているのか、だれが一番重要な力を持つ持っている 存在なのか、と弟子たちは聞いているのです。

それに対して主イエスは、心を変えて子どものようになる人が天の国ではいちばん偉いのだとおっしゃいました。

主イエスのお語りになる、天の国は、この世の国とは全く異なりました。

それは子どものようなという純粋無垢な澄んだ心を持って、ということでありました。

天の国とはそのようなところであり、この世において近づくことのできるものであることを主イエスはお語りになられました。

そして主イエスの御名により、天の国を受け入れる者は、主イエスを受け入れる者であるとおっしゃいます。

主イエスのその御言葉は、やがてご自身が苦難を受けられ、人々の罪の赦しのため十字架の死を受け入れられ、しかし復活されることをも含んでおられました。

その主イエス・キリストをお受け入れられる者について、主はあらかじめお語りになられたのでした。

そして主イエスは、このようにもお語りになられました。

「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは 天上でも解かれる。」

そして主イエスは加えてお語りになられます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

主イエスはその場におられないように思う、また、わたしたちの目には見えないように思う。

しかし、主イエスのお名前によって、主イエスの御名により集まるところには、子どものように純粋無垢に主イエスは立っておられるのです。

多くの苦しみと悲しみを知り、多くの痛みを知っておられるのです。

わたしたちは澄んだ目と心を持って、わたしたちの中におられるこのお方を、主イエスの御名により見るのです。

すると、弟子のペトロは主イエスに言った、というのが今日の聖書マタイによる福音書18章21節から35節です。

18章21節にはこうあります。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』」

ペトロと弟子たち、そして人と人との間に、気にかかることがあったのでしょうか。

ペトロは赦しについて主イエスに問うています。

そして、人を赦す回数は七回までですかと言うのです。

当時も、また現在もそうであるかもしれませんが、赦しということについて、その回数は二回、または三回までというのがペテロたちの暮らしの中では共通の認識でありました。

しかし、ペテロはそれを大幅に超えた回数「七回までですか」と問います。

ペテロとしては、特例をさらに超えた回数、数字を言ったということでありました。

しかし、主イエスはお答えになられました。

「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」

 ペトロは赦すのは二回三回までと言われるこの世にあって、あえて二倍以上の七回までで限界ですかと言い、その回数の大きさを強調しようとしていましたが、主イエスのお答えは、七の七十倍までも赦しなさい、ということでありました。

それはもはや回数の問題ではありませんでした。

そこで主イエスは天の国は次のようにたとえられるとおっしゃいます。

「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。家内はひれ伏し言いました。『どうか待ってください。きっと全部お返しします』と しきりに願いました。すると、その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやりました。」

このたとえで示されている一万タラントンの借金というのは桁違いの莫大な金額です。

例えば、一日の労働賃金を一万円とするとローマの単位で一デナリオン。

六千デナリオで、一タラントになります。

ということは、タラントンで換算すると一タラントンは六千万円。

その一万倍ということは六千億円になります。

たとえの家来の借金は一万タラントン、六千億になります。

そもそもとても返せる数字ではありません。

しかし家来は「どうか待ってください。全部お返しします。」としきりに願い、その場限りに答えています。

たとえのこの途方もなく大きな数字は何を表しているのでしょうか。

それは、罪の大きさです。

そして、その返済の期日は、罪の裁きの日、その処断の時を表しています。

この途方もなく計り知れない罪の重みを、主君は憐れに思ったというのです。

主君は、わがことのように思ったのです。

そして、彼を赦してやったというのです。

ところが、例えは続きます。

この家来は、外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言いました。

百デナリオンを円換算すると百万円。

六千億円との対比です。

仲間はひれ伏して「どうか待ってくれ。返すから。」としきりに頼みました。

しかし承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れました。

その仲間たちは事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず、詳しく、主君に告げました。

仲間というのは、家来たちの仲間です。

主君に仕えている者たちです。

主君は、この仲間たちの詳しい報告を聞いて当事者である家来を呼びつけて言いました。

「不届きな家来だ。お前が頼んだから借金を全部帳消ししてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

そして、たとえの主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと家来を牢役人に引き渡してしまいました。

家来は、自分のしていることがわからなかったのでありました。

あまりにも大きな赦しを受けて、お受けしていることを、その大きさのゆえに見失ってしまっています。

しかし、その大きな憐れみと赦しをいただきながらも、心を替えず、また心を替えることも思いつかないことがあります。

自分は憐れみのうちに赦された者だ、ということをすっかり置き去りにし、神の憐れみによる赦しを当然のものとすることに陥ったのです。

主イエスは、七の七十倍の大きさ、すなわち無限の大きさで赦しを語りになりますが、それはただ神の赦しによります。

赦しの源は神にあることを仲間は知っているのです。

それは、二人または三人であるかもしれません。

しかし神は、我らと共にいますというお方が、隣人を、またいと小さき者を、そして仲間を、この上なく愛しておられます。

そしてわたしたちは、主イエス・キリストの名による仲間です。

主イエスはたとえを通してお語りになられました。

「あなたがたの一人ひとりが心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

心から、と主イエスはおっしゃいます。

「なぜ」ではなく「何」をするかです。

我慢をするのではありません。

主イエスは、純粋無垢な澄んだ心に触れてくださいます。

あなたは赦されています。

安心して恐れず進みなさい。

重さに沈むことはありません。

主イエスは仲間を呼び出され、わたしたちを呼び出されました。

力強い、愛と憐れみの御手により導かれ、豊かな恵みの中を共に歩むことが赦されています。