【十字架】 マルコによる福音書15章21節~32節

主イエス・キリストが十字架につけられたことを、今日わたしたちの開きました聖書は語っています。

そしてわたしたちは「棕梠の主日」と呼ばれる主の日を迎えました。

主イエス・キリストが十字架につけられていく、その一週間が始まるのです。

この週は教会暦では受難週と呼ばれ、主イエスがエルサレムに入城され、十字架の死を迎える週を表しています。

「受難」という言葉には、痛みを訴え、悲しみを嘆くという意味内容が込められています。

わたしたちには、この受難週の一週間のみではなく、日々この世の中にあって生きる時、痛みを訴え、悲しみを嘆くということがあるかもしれません。

この世界で、またこの社会で生きる時に覚える痛みと悲しみは、消すことの大変難しい、複雑な大問題であるかもしれません。

しかし今日の聖書は、救い主イエス・キリストをわたしたちに語っています。

旧新約聖書、その新約聖書の福音書四つのすべてが、主イエス・キリストの受難の出来事を語り、そして復活を告げ知らせています。

主イエスは苦しみを受けられ、悲しみを受けられた、そのことをすべての福音書は語っています。

そして主イエスの苦難と受難は、わたしたちすべての人々に語られているのです。

大勢の人々の中にいる一人の人に、そして孤立してしまいただ一人だと思い込んでいる一人の人に、主イエス・キリストの歩まれた道が語られているのです。

そして今、わたしたちはこの棕梠の主日、目には見えないエルサレムに導かれ、辿り着いたのです。

ここに至るまで、主イエスはさまざmな所で、さまざまな形で教えておられました。

時には病をいやされ、悪霊を追い出されました。

多くの人々が主イエスのお語りになられたこと、行われたことに心動かされ、行動を共にしたということであります。

しかしそれ以上に、この世の力を持った強い人々がおりました。

それは当時のユダヤの宗教的・政治的指導者たちでした。

この強い人々はその力で、主イエスを亡き者にしようと考えました。

思いを巡らすことにより、主イエスに対する妬みと憎しみは増大していき、妬みと憎しみを抑えとどめることもできなくなってしまいました。

そしてそれまで意見を異にし、敵対していたとも云われる指導者たちさえ、主イエスを亡き者にしようという企てに一致したのでした。

そのようにして密かに企む殺意が渦巻いていく中、主イエスは当時ユダヤの宗教的・政治的中心地とされるエルサレムの都に入って行かれます。

その時、多くの人々が「あの主イエスが来られた」ということで喜んで大きな声をあげました。

主イエスは歓呼の声の中、迎え入れられたのでした。

主イエスに病をいやされた人、悪霊を出していただいた人、また神の国の教えを聞いた人、そして「このお方こそがこの世の力ある次の指導者となるお方だ」と思っていた人、エルサレムにいた多くの人々が「ホサナ、今、私たちを救ってください」と叫び、迎え入れたのでありました。

しかし、この世の力は急激にその人々を巻き込んでいきます。

主イエスを捕らえ、この世の力は法の支配を超えて、主イエスを十字架刑へと引き込んで行きます。

主イエスがエルサレムに入城された時、歓呼の声を上げた人々は手に葉のついた枝を持ち、主イエスが子ろばにお乗りになって進まれるその道に敷きました。

勝利者を迎え入れる、凱旋する者を歓迎するそのしるしとして、棕梠の枝を人々は手にしていたのでありました。

そして棕梠の枝は、勝利した者が帰還してくる、凱旋してくる、それは争いが終わり、争いから調和へと至ったことを表す平和のしるしでもありました。

しかし主イエス・キリストがエルサレムに入城した時、救い主イエスの受難が始まっていたのです。

この世の闇はそれほどまでに深く、その罪は重かったのでありました。

この世の熱狂の中で、密かにしかし強力に主イエスを十字架刑につけようとするこの世の力は、罪のないお方を十字架刑に、そして神の御子を十字架につけていこうと

する、その罪があらわとなったのです。

主イエスはその弟子の一人に裏切られ、この世の力を持つ祭司長・律法学者・長老と呼ばれる者たちが使いに出した者たちによって捕らえられました。

イエスの弟子たちは皆逃げ出し、主イエスを否定する者もいました。

すべてをすでにご存知であった主イエスは捕えられ、十字架へと向かう道、すなわち人々の罪を受け入れられました。

主イエスはこの世の力にとらえられ、ユダヤの最高法院で裁判を受けられ、尋問され、十字架刑、すなわち死刑の判決が下されました。

死刑の判決から十字架刑の執行まで、その流れは急いで進められていきます。

主イエスを亡き者にしようという指導者たちの思惑、そしてユダヤの過ぎ越し祭という大きな祭りの時と重なってエルサレムは大混雑。

その大群衆による暴動を警戒する権力者など、さまざまなことが重なり合って、主イエスは十字架刑へと引かれて進んで行かれます。

主イエスは人々の、そしてわたしたちの罪をその身に負ってくださったのです。

わたしたちの痛み、わたしたちの悲しみを負ってくださったのです。

ローマの兵士たちは総督官邸にて、主イエスに紫の服を着せ、茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って主イエスを軽蔑し、侮辱しました。

エルサレムを中心としたユダヤの宗教的・政治的指導者たち、そしてローマの兵士たち、すなわち大国の強大な軍事力を有する兵士たちは、主イエスを侮蔑し、罵りの言葉を浴びせました。

「自分が何をしているのか知らない人々」をも、主イエスは父なる神の御名のもとに受け入れられたのでありました。

そこへ、アレクサンドロとルフォスの父であるシモンというキレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちはこの人に主イエスの十字架を無理に担がせました。

十字架刑が下された者が、その十字架を刑場に運んでいくこととなっていましたが、すでに主イエスは茨の冠をかぶせられ、鞭打たれておられ、人間としての体力を失っておられました。

そこで代わりに、主イエスの十字架を担ぐ者が現れます。

田舎からエルサレムに出て来ていた人でありましたが、マルコによる福音書はこのシモンという人の出身地や家族、息子たちの名前を挙げて記しています。

人々は十字架刑という刑罰を汚れたものとして忌み嫌い、触れることを頑なに拒みましたが、このキレネ人シモンは兵士たちに無理やり十字架を担がされます。

そして田舎から出てきたこの一人物は、すべての時代を超え、全世界にその名が知られることとなったのです。

それは主イエス・キリストの十字架を担ぐことによってでありました。

その時は「なぜ自分がこのようなことを強いられてしまったのだろうか」と強く思ったことでしょう。

しかし福音書は、すべてキリストの十字架から始まっていることを、この人の出身地、家族、そして本人の名を記すことによって語っているのです。

主イエスはゴルゴタ、されこうべの場所に連れて行かれました。

そして痛みを和らげるため、没薬を混ぜた葡萄酒を飲ませようとしましたが、主イエスはそれを拒まれました。

主イエスは、長引くであろう苦しみを早く終わらせることをなさらなかったのです。

人としての主イエスはすでに痛めつけられ、激しい苦しみの中にあったので、痛みの緩和剤というそのものが大きな苦しみの一部であり、さらにまた苦しみが加えられたに過ぎなかったのでありました。

それは兵士による虐待でもあったのです。

兵士たちは主イエスを十字架につけて、その服を分け合いました。

 「誰が何を取るかをくじで決める」という詩編22編の言葉が実現したのです。

そしてそれは兵士たちによる略奪行為でもありました。

神は主イエスをお見捨てになられたかのように遠く離れ、救おうとされず、うめきも言葉も聞いてくださらず、呼び求めてもお答えくださらないようです。

主イエスはまったく罪がないにもかかわらず、犯罪者として扱われ、尊厳を奪われ、侮辱されることをお受けになられます。

主イエスは人々の罪を代わりにお受けになられたのです。

主イエスが十字架につけられたのは午前9時のことでありました。 また主イエスの十字架上には罪状書きがつけられ、そこには「ユダヤ人の王」と書いてありました。

その罪状書きを多くの人々が見ました。

主イエスを捕らえ、十字架につけて行った祭司長たちは、ユダヤ州の総督ピラトに申し出て、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてくださいと言いました。

しかしピラトは「わたしが書いたものは、そのまま書いたままにしておけ」と答えています。

そこにはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語の三つの言語で書かれていました。

後に、主イエス・キリストが真の王であることを、十字架は語っていたのです。

また主イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に十字架につけられていました。

こうして「その人は犯罪人の一人に数えられた」という預言者イザヤの言葉が実現します。

主イエス・キリストは自らを投げ打ち、死んで多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをなされたのです。

罪に対する神の怒りの厳しさが十字架にあります。

そして同時に、キリストの十字架には救いがあります。

わたしたちのために取りなしをなされたキリストの愛と赦しが十字架にはあります。

キリストは十字架で犯罪人の一人に数えられ、その左右には強盗が同じく十字架につけられていました。

主イエス・キリストはその真ん中に、強盗の頭のようにして十字架におかかりになられたのです。

そこを通りかかった人々は頭を振りながら主イエスを罵って言いました。

 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者よ。十字架から降りて自分を救ってみろ。」

同じように祭司長たちも、律法学者たちと一緒になってかわるがわる主イエスを侮辱して言いました。

「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王よ、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」

そして一緒に十字架につけられた者たちも主イエスを罵ったと、マルコによる福音書は人の悲惨さを色濃く語っています。

しかし主イエス・キリストは、父なる神より遣わされ、人々の罪の赦しのため、身代わりとなられ十字架につけられました。

このキリストの十字架により救われたわたしたちは、主の愛の大いなることに目を注ぎます。

この世にあって、この世の痛み、この世の悲しみの中にあって、わたしたちは愛され、赦され、救われていることに目を注ぎます。

救い主イエス・キリストは、わたしたちの見えなくなってしまった心の目を十字架によって開かれます。

わたしたちの罪は赦されたのです。

わたしたちは愛されているのです。

そしてキリストの十字架により始められたのです。

キリスト・イエスに助けられ導かれること、キリストがそうであったように神の栄光が現れるように生きること、そしてキリストの十字架のもとにあって、キリストと共に歩むことです。

十字架は神の愛を語り、神と共に歩むことにわたしたちを招いています。

この世の力の渦巻く中で、心の中の灯火が今にも消えそうであり、失いつつあるかのような中においても、わたしたちは御もとに立つのです。

十字架のキリスト・イエスの御もとに立ち、わたしたちは救いのもとにとどまるのです。 キリストの十字架は、すべての人の救いのためにでありました。