「憐れみ」 マタイによる福音書9章9節~13節
「わたしが求めるのは、憐みであって、いけにえではない」と、主イエス・キリストはお語りになられました。
「わたし」とおっしゃっておられるのは父なる神であります。
父なる神が求めておられることを、独り子である主イエス・キリストがお語りになっておられるのです。
この地上での主イエスのお働きは、父なる神のお働きです。
主イエスを見たものは、父なる神を見たのです。
主イエスは人々の罪を赦し、お救いになられるために、この世に来られました。
正しい者もそうでない者も、救い主キリスト・イエスは救い出すため来てくださったのです。
喜びの中にある者、悲しみの中にある者、すべての人々の間に、主イエスは救いを実現するために来られました。
それはひとりの人の内面がばらばらになってしまうことのないよう、一つの中心点を与えるためです。
その大切な中心を教え、保つために、主イエスは来られました。
それは、失われる者がないようにであります。
悲嘆の中に、不安の中に、陥ってしまい、その人がやがてばらばらになってしまわないように、主イエスはその人の内面に中心点があることをお教えになられるのです。
主イエス・キリストが、人の罪の赦しのため、罪がないのにもかかわらず捕らえられる前の夜、主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい」とおっしゃいました。
その場にいた弟子たちは皆、何かただならぬものを感じ取っていたのであります。
しかし、それがどのようなことなのか、何なのかがわかっていなかったのであります。
そのような不確かな恐れの中で、主イエスご自身が「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃいます。
父なる神を信じ、「このわたしをも信じなさい」と弟子たちに主イエスはおっしゃるのです。
主イエスは救い主であられるので、何か他のもの、「例えばこれがよい」であるとか、また、「このようなものもある」ということをおっしゃらずに、「わたしを信じなさい」とおっしゃいます。
この世において、人と人との間では、これほど不確かな言葉はないと考えることもできますが、主イエスはまさにこの世においてお語りになります。
「神を信じ、わたしを信じなさい。」
そしてこのお方は、わたしたちの内に、中に、おられます。
主イエスは、「わたしは父の内におり、父がわたしの内におられる」とおっしゃいます。
ですので、主イエスのおっしゃる言葉は、父なる神の言葉であり、主イエスのなさるお働きは、父なる神のお働きである、と主イエスはおっしゃいました。
主イエス・キリストが人々の罪を担い、苦難を受けられ、十字架の死へ向かおうとされる時、主イエスは父なる神との深く、また、強い関係をお語りになられました。
それは、このお方の中心点がどこにあるのかを示されたのであり、人がばらばらになってしまうことのないようにする、その中心点を主イエスご自身お示しになられたのです。
主イエス・キリストはこの世において自らに与えられている目的を思い出すように、人々を導かれます。
主イエスが苦難をお受けになられる前、町や村を巡られて、病の人々をいやしておられました。
ある時、ガリラヤ湖近くのカフェルナムの町で床に横になったままの病の人を、主イエスはいやされ、その人が起き上がり、家に帰って行ったのを見た群衆は皆、恐ろしくなり、「人間に」これほどの権威を委ねられた神を賛美した、ということがありました。
ここで「人間にこれほどの権威を」という「人間に」というのは主イエスのことであります。
その与えられた力に人々は恐れを抱きますが、主イエスによって人々は神を賛美したのでありました。
人々は、神がこのお方に力をお与えになり、その力が働かれるのを神がお許しになったことを知ったのです。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださったのです。
主はまっすぐな道に彼らを導き、そして、人の住む町に向かわせてくださったのであります。ですので、人々は恵み深い主に感謝し、神を賛美したのでありました。
そして今日の聖書、新約聖書マタイによる福音書9章9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
主イエスは、群衆が主イエスのお働きにより神を賛美することになったその場所から離れて進んで行かれます。
すると、ある一人の人物を見かけられます。
その人から主イエスを見たのではありません。
その人は主イエスを見ていたかもしれませんが、聖書の福音書は、主イエスの方から見たと記しています。
主イエスがご覧になられたその人は、その時、主イエスが通られておられるのを、見ていたのか、知っていたのか、も分かりません。
ただ主イエスの方から、という向きについては間違いなく主イエスから始まっているということであります。
この人は、いつもの場所でいつもの仕事をしていたのであります。
そしてその名は、マタイ。
このマタイによる福音書を書き記したマタイであります。
そのマタイ本人が、主イエス・キリストと初めて出会った時の事を、「主イエスはそこをたち、通りがかりに、見かけて」と記しているのです。
マタイは自分が書き記す主イエスは、このようにわたしを見出されたのだという喜びを語っています。
それは自分からではないということ、自分の実績、功績など、あることを成し遂げた手柄やすぐれた働きや成果にはよらない、その人をそのままを受け入れてくださるお方、嬉しいことも楽しいことも、また、悲しいことも辛いことも、すべてのそのままをその通りであると認めてくださり、そして、主は新しく生まれさせてくださるのです。
主イエス・キリストは、救い主としてそのお働きをなしてくださったのです。
そして神は、いつもわたしたちと共にいてくださる、そのことをマタイは心から喜んでいるのです。
見出されている喜びであります。
主イエスがマタイを見かけられたのは、マタイが収税所に座っている時でありました。
ローマに納める税金を集める仕事をする所にマタイは座っていたのであります。
税金を集めると言っても、当時のユダヤの人々にとってそれは、取り立てられ、また、奪われるととらえており、人々が大変嫌がっていた収税所に、マタイは座っていたのです。
そこで何をしていたのかは聖書に記されていませんが、数字を数え、帳簿をつけていたのでありましょうか。
どのような思いで仕事をしていたのでしょうか。
何を見つめ、日々、彼の内面ではどのような目的を持って目の前のことに取り掛かっていたのでありましょうか。
建物の室内でしょうか、室外でしょうか。
いずれにしても収税所は、通りに面していたことがうかがい知れます。
通りがかった主イエスは、マタイにおっしゃいました。
「わたしに従いなさい。」
するとマタイは立ち上がって、主イエスに従って行ったのであります。
主イエスは、ほんの短く「わたしに従え」とおっしゃったのでありますが、この言葉が人の人生を全く変える力を持っています。
主イエスの招かれた他の弟子たちに、ガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちがいました。
彼らは主イエスの「わたしについて来なさい」という言葉に従ったのでありますが、彼ら漁師たちには、再び漁に戻るということができました。
しかし、マタイは収税所を離れれば、再びそこに戻ることができません。
それにもかかわらず、主イエス・キリストの短い御言葉に、マタイは従ったのでありました。マタイは立ち上がったのでありました。
それは収税所の仕事がもともと嫌であったから何か他の事を、ということではありません。
主イエス・キリストが見出され、声をかけ、「従いなさい」と招かれたからであります。
表面的には、ただそれだけのことでありますが、ここには力があって、人ひとりの人生を全く変えてしまい、それまで収税所に座っていた人が、主イエス・キリストの福音書を書き著わす人物となり、その福音書は全世界に広げられて行くこととなったのです。
そしてこれが、チャーチというコミュニティ、教会という共同体となったのであります。
マタイはユダヤ人として、ユダヤの系図をもとに、「イエス・キリストの系図」からマタイによる福音書を書き始め、主イエス・キリストは「わたしたちと共におられる」こと、そして、このお方は「世の終わりまでいつもわたしたちと共にいる」ことをもって福音書を書き終えています。
マタイは収税所に座っていましたが、ある時、彼の目的を思い出したのです。
主イエスがみ声をかけられた時、そのことを深いところから思い起こされることとなって、すぐにマタイは立ち上がったのであります。
しかし、まわりの人々から見ると、マタイは収税所に座っていた当時の人々から嫌われている徴税人でもありました。
そのような者を主イエス・キリストは救い出され、用いようとされる、そのことをマタイは書き記します。
マタイによる福音書9章10節「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」
カファルナウムの町には、主イエスの住まわれた家がありましたが、ここでの「その家」は、マタイの家と言うことができます。
ルカによる福音書5章28節、29節という所では、マタイは、レビと呼ばれていますが、このようにあります。
「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」
マタイは収税所に座って働いていましたが、そこを立ち上がり、主イエスに従って、同じ職場に再び戻ることはないこととなったのでありますが、マタイの家に、仲間であった徴税人たちも呼んで、主イエスとその弟子たちをも含めて、盛大に宴会を開いたというのであります。
マタイの心は、喜びに溢れていたのであります。
旧約聖書の箴言には、「人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」とある通り、マタイの心は朗らかとなって溢れ出たのでありました。
しかし当時のユダヤの人々にとって、徴税人たちは罪人に等しい者、と言う人々がこの世の力をふるっていました。
ですので、マタイによる福音書9章11節「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」
ファリサイ派という人々はユダヤの律法学者たちであって宗教的指導者の人々でありました。
彼らは自分たちこそが正しい者であり、他の人々はそうではないと分離する者たちでありました。
主イエスが徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事の席についているのを見て、ファリサイ派は、正しくない行いをしている、と言うのです。
すると、12節、13節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
主イエス・キリストは、人々を救うため、この世に来られました。
それは正しい者とそうでない者を選り分けるためではありません。
すべての人々に父なる神より救いが与えられる、そのことを主イエスは示そうとされます。そしてそれは、表面的には見えないところで起きるのであります。
父なる神が求めておられるのは、形式的ないけにえではなく、憐みであります。
主イエスとマタイが出会ったように、神はあなたと出会って、この世において、憐みをあらわされます。
愛をもって慈しみ、大事にされます。
憐れみは、朗らかな心を再び開きます。
楽しい会が開会されるような喜びが心にあります。
憐れみは、人が、あなたが、生きるようにと誠実を尽くします。
主はあなたが、また、わたしたちが、憐れみによって生きるようにと、主イエス・キリストご自身身、身を献げ、わたしたちの中心点、憐れみとなって、来てくださいます。