「信じたとおりに」 マタイによる福音書8章5節~13節
「あなたが信じたとおりになるように。」
主イエス・キリストは、一人の人に向かってお語りになられました。
この言葉は、暗くなった所に、明るい日の光が瞬く間に広がり、満たされていくかのようであります。
季節が巡り、梅雨が明けました。
これまで雨の時が続き、大空を覆っていた厚い雲も去って、真夏日を迎えています。
気温30°以上の日を真夏日と呼ぶ、と気象台で決められているとのことですが、この真夏の太陽の照りきわまったもと、耳を澄ませば、葉のそよぐ音が聞こえる、ということがあるかもしれません。
真夏日のひかり澄み果てる中、草の、また木の、葉のそよぐ音が聞こえてくるということに、何かこの世の中の喧騒とは異なる世界の景色、静かな静寂きわまる世界を見ることがあるかもしれません。
今この時も、この世界に、そよぐ音が流れているのであります。
わたしたちの主イエス・キリストは、青葉のある山の上で、また丘の上で、弟子たちにお教えになられました。
ひと時、町や村から離れ、静かに草の葉がそよぐ音、そしてその山を、その丘を、吹き抜けて行くそよぐ風の音を主イエスとその弟子たちは耳にしたことでありましょう。
その所で、神の御言葉を聞いたのでありました。
その時、心に滞っていた何かがすっかり払いのけられたかのようになったのでありました。
暗がりに光が風のように入り込んで来たかのようであります。
そして今日の聖書新約聖書は、マタイによる福音書8章5節からでありますが、その8章の始まり1節にはこうあります。「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。」
主イエス・キリストとその弟子たち、そしてその周りにはおそらく他の人々もいたことでありましょう。
主イエスが山に登られる前には、おびただしい病人を主イエスはいやしておられました。
ですので、大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側という地域から、主イエスのもとへやって来ていました。
ありとあらゆる病気や患いをいやされる主イエス。
その時、マタイによる福音書4章25節では、「大勢の群衆が来てイエスに従った」と記しています。
そして山の上でお教えになった後、8章1節でも「イエスが山を降りられると、大勢の群衆が従った。」と福音書は記し、病や患いがいやされるようにと願う人々、そしてその人々を連れて来る人々、また、一人ひとり主イエスのもとに行き、来るまでの理由はそれぞれ異なりますけれど、身体の、また、心の、救いを求める人々が、主イエスに従ったというのであります。
救いを求めるということは、人によって異なる深さがあると言えるかもしれません。
そしてそれは、一人ひとりが全く異なるところから、救いを求めているということが言え、多様性という言葉も当てはまらないくらいに一人ひとりが全く違う言葉にならない思いを抱いていると言うことができます。
その一人ひとりに、主イエスは触れようとされます。
直接、その人に御手を差し伸べて触れられたということもありましたし、また、直接ではないけれども主イエスの御姿を見て、わたしは主イエスに触れたという人、また、主イエスのお召しになっておられた服に、衣に、触れたという人もいたことでありましょう。
そのように、主イエスは一人ひとりに触れ、伝えようとされるのでありますが、その伝えようとされるのは、父なる神の御心であり、その神の御心が現されている神の御言葉でありました。
大勢の群衆が、主イエスに従って行くその中で、その間で、主イエスは父なる神の御心が一人ひとりにあるように願っておられるのであります。
それは心からの願いであり、主イエスは求めるその人々を止めようとはされなかったのでありました。
愛されなかった者ではなく、愛された者と呼ぶためです。
そして、今日の聖書箇所、マタイによる福音書8章5節、6節「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。」
主イエスが山に登られる前も、山から下りられた後も、多くの人々が主イエスのもとにやって来ておりましたが、主イエスはあわてられることもなく、与えられた道を進んで行かれます。
それは父なる神が与えられた道であり、主イエスはそれを選ばれ、主イエスが道そのものでありながら、主イエスを見る者に、目覚めることをお与えになります。
自分の民ではないと思われている者を、自分の民と呼ぶためであります。
山から下りられて、ある時、主イエスはカファルナウムに入られましたが、そのカファルナウムの町はガリラヤ湖畔にありました。
主イエスはこのカファルナウムの町を愛され、カファルナウムの家に住まわれ、ガリラヤでの活動の拠点とされました。
与えられた道を歩む主イエスの重要な足場となったのが、このカファルナウムの町でありました。
紀元一世紀当時、この地方はユダヤの地方でありながら、ローマ帝国に支配されていました。
ユダヤから見ればローマは異邦人。
そして、異邦人でありますけれども、この世の力、軍事力が非常に強く、カファルナウムの町にもローマ軍の駐留地があり、軍隊がこの地に留まり、滞在していたのでありました。
ユダヤの人々にとってローマ軍の人々は、異邦人。
その異邦人が、わたしたちをこの世の力で支配しているということに複雑な思いを抱いていました。
そして、エルサレムというユダヤの中心地から離れたガリラヤ地方のカファルナムの町では、ローマ帝国に対する複雑な思いは根強いものがあったと言えます。
また、ユダヤの人々から税金を強制的に取り立てていた徴税人は、ローマ帝国の支配下にあって働いていたので、ユダヤの人々から大変嫌われてもいたのです。
カファルナウムの収税所にいた人物の一人がマタイでありました。
主イエスがこのカファルナウムの町に入られると、ローマ軍のひとりの百人隊長がやって来たというのであります。
しかしそれは、何か責め立てるためではなく、また、脅かすためでもなく、軍人らしく礼儀と規律をもって主イエスに心からひたすら願い出た、というのです。
百人隊長は、ローマの兵士百人からなる一団の長であり、指揮官であります。
そして、この百人隊長はその部下にあたる百人の兵士たちの指導と世話に当たっていました。
主イエスのもとにやってきた百人隊長は、その僕の健康上のこと、生活上のことで、主イエスに心から願い出ているので、大変部下たちに対する思いの篤い部隊長と言うことができます。
また、それだけ職務に忠実であったということでもあります。
百人隊長が「わたしの僕」と言ってるのは「わたしの子」と言い換えることが出来るくらいの関係を表していると言えます。
僕の中風というのは、体が麻痺し、動かなくなっているということであります。
そして、ひどく苦しんでいるということを百人隊長は主イエスに伝えます。
すると主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」とおっしゃいます。
それまでに主イエスのもとにはおびただしい人々がやって来ていました。
そして主イエスは、ここでもこの百人隊長の心からの願いを察して、「わたしが行って、いやしてあげよう」とおっしゃいます。
すると8節、9節「百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。』」
百人隊長は、カファルナウムの町にローマ軍として滞在し、自分たちの立場というのが必ずしも町のユダヤの人々から支持されているとは思えなかったのでありましょうか。
カファルナウムの町で、主イエスに来ていただくということは人々の注目を集め、それがどのようなことになるのかということをも百人隊長は考えていたのかもしれません。
しかし、僕がひどく苦しんでいるのです。
そして百人隊長は、救い主イエスに「ひと言おっしゃってください」「ただ、言葉でおっしゃってください」と心から願いを伝えます。
百人隊長は、自分の置かれている環境を、置かせていただいている、賜っている、として受け止めています。
ここにこうしているのがゆるされている、大きな恵みとしてゆるされている、そして、それだけでわたしは十分である、とさえ考えています。
「ただ、言葉でおっしゃってください」
それは、ご足労には及びませんということでもありますが、心からの切なる願いでありました。
百人隊長は、軍隊の指揮官であったので、言葉の重みを知っていました。
命ずるという事の重さであります。
漢字でも命ずるとは「命」と書きます。
命じる言葉には命がかかっているのであります。
百人隊長は、そのことを彼の働く現場でよく知っていたのであります。
命ずる言葉ひとつで、兵士たちの生き死にが、分かれることがあるからです。
百人隊長の誠実であるという意味の真摯な姿に、主イエスは、10節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」
主イエスは、百人隊長に感心されたのです。
そして、その成すべきことを成し遂げようとする姿に、信仰をご覧になられたのです。
それは主イエスご自身がその後、人々の罪の赦しのため苦難を受けられ、十字架の死につかれますが復活される、その成すべきことを成し遂げられるそのことと重なるようにして、主イエスは百人隊長の瞳を見つめられたからでありました。
そして主イエスはおっしゃいました。
11節、12節「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
主イエスは、ここでいわゆるユダヤ人とそうではない異邦人についてここでお語りになられます。
東から西から、北から南から、多くの異邦人と呼ばれる人々が、信仰によってやって来る。
その人たちは、かつて信仰によって歩んだ信仰の父とも呼ばれるアブラハムを始め、イサク、ヤコブ、その者たちと天の御国の宴会に着く。
しかし、ここで主イエスのおっしゃった「御国の子ら」はというその人々は、いわゆる自分たちこそが選ばれた民であるとするユダヤの人々を指して主イエスはおっしゃっておられます。
主イエスは、警告されておられるのです。
自分たちこそが選ばれた「御国の子ら」だと満足してしまうことではなく、今ここで、救い主を信頼し、信じる信仰に目を向けること。
この信仰は、神から与えられているのだから、そのことに目を向け、何が正しいのかに関心を持つこと。
それは、必ずしも知識や知恵のある者、能力がある者、地位のある者を重視するのではありません。
百人隊長が僕を愛したように、愛し、信頼することであります。
そして与えられたところで、困難にも立ち向かう、向上することを目指し、良いものを良いとする勇気が与えられていること。
主イエスは、そのようにして僕のために心を尽くす百人隊長と出会い、人の誠実、人の真心を見出されたのであります。
そして、13節、主イエスは「百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」
ひとつの言葉によって、救い主キリスト・イエスは、渇いた魂を満たしてくださり、求める魂を良いもので満たしてくださいます。
ひとつの言葉によって、救い主イエス・キリストは、御言葉を遣わしてわたしたちをいやし、死と滅びから救い出してくださるのです。
主は慈しみ深く、驚くべきお働きを成し遂げられます。
救い主キリスト・イエスはおっしゃいます。
「あなたが信じたとおりになるように。」