「主の豊かさ」 コリントの信徒への手紙二8章8節~15節
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」と、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロは述べました。
わたしたちの救い主である主イエス・キリストが、「豊かさ」ということを開いてくださった、そのことを使徒パウロは、今日、わたしたちの開きました聖書、新約聖書コリントの信徒への手紙二において語っています。
紀元56年から57年頃、パウロによってこの手紙は書き記されました。
当時、コリントの町は陸路は南北に、海路は東西に広がり、商業経済的にも大変繁栄した町でありました。
勿論そこには繁栄しているだけではないいろいろな問題も含んでおりますが、そのような町に暮らすコリントのキリスト者たちに、パウロは語りかけるのでありました。
キリスト・イエスを宣べ伝える者となったパウロは、宣教旅行に出かけるのでありますが、第二回宣教旅行の後半では一年半をコリントで過ごし、キリスト・イエスを信じる者たちが多く起こされたのでありました。
また、エフェソという町にいる間に、新約聖書のコリントの信徒への手紙一をパウロは書き記しました。
その後、まもなく、エフェソの町の会堂で神の国についてパウロは論じ合い、このようなことが二年間も続いたので、誰もが主の言葉を聞くことになったのでありました。
また、病が癒され、悪霊が追い出されるという奇跡も起こされ、魔術を行っていた者たちも主イエスの御名を大いに崇めることとなりました。その時、魔術を行っていた者たちの焼き捨てた書物の値段を見積もってみるとそれは莫大なものでありました。
そしてまた、偶像を造っていた銀細工師たちは、パウロが偶像をないがしろにし、それが銀細工師たちの仕事にも悪い影響を及ぼすとして叫び、エフェソの町中を混乱させ、大騒動となりました。
パウロは危険を逃れるようにして、エフェソを後にし、コリントの町へ向かうのでありますが、その途中マケドニア州に入り、多くの苦難と数々の心配事の中、各地域の諸教会を訪問しました。
以前、コリントの教会へ手紙を送ったパウロは、コリントの教会からの便りを長いこと待っていましたが、そのような中、パウロは福音宣教の同労者であるテトスと会います。
この頃のことをパウロは、コリントの信徒への手紙二7章5節から7節でこう述べています。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎが泣くことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。」
テトスは、パウロの悩みと憂いに満ちた心で泣きながら書いた手紙が、大きなよい実を結んだことを伝えると共に、まだ心配なことがあることもパウロに伝え、そこでパウロは、今日のコリントの信徒への手紙二を書き記し、パウロ自身もコリントに行くことを望みつつ、この手紙をテトスに託したのでありました。
コリントの信徒への手紙二8章6節、7節にはこうあります。「わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」
パウロは、コリントの兄妹姉妹たちが、神の御心に適った悲しみを通り抜けたことを知り、慰められたのでありました。
その悲しみは、不本意であり、理不尽であったのかもしれません。
自分の本当の望みとは違い、道理に合わないことであるかもしれません。
しかし、コリントの兄妹姉妹たちが、ただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたことにパウロは思いを寄せているのです。
それは、愛する兄弟姉妹たちが、一時苦しんだ後に再出発することの喜びでありました。
この喜びは、パウロにとってもコリントの兄妹姉妹たちにとっても、大きな喜びとなったので、パウロはこの悲しみは神の御心に適った悲しみであったと言い切っているのであります。
ここに、わたしたちが一時の悲しみのみに執着してしまうことからの自由の姿を見ることができます。
ただ一つのことに心を捕らわれて、そこから離れられないということがあります。
しかし、そこから神は引き寄せ、引き出し、自由をお与えになられるのです。
神はご自分の民を慰め、その人々を憐れんでくださるのです。
ですから、その悲しみは神の御心に適った悲しみであったとパウロは言い得ることのできる勇気を与えられていたのでありました。
あなたの悲しみを悲しみなさい。
そして、その悲しみには意味があるのだとパウロは受け止めたのです。
その意味が力となったのです。
そしてその力は、勇気となり、喜びとなったのでありました。
さらにその喜びは、生きる喜びとなったのであります。
神の御心はここにあるのです。
今、悲しくても、今、苦しくても、そしてまた、心が晴れ晴れとせず気がふさぐことが多くあっても、そのことを受け止め、それを手放すことが許されていることを見るのです。
ですから、パウロはこう言うのです。
「今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
神は死と滅びから救おうとされておられるのです。
そして、コリントの信徒への手紙二8章で、パウロは、その神の豊かさが現れ、働いていることを兄妹姉妹たちに知らせています。
8章1節から4節にこうあります。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」
激しい試練を受けていたのに豊かさがあふれ出たというのです。
そして、8章の8節で、パウロはこう述べています。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」
強い苦しみと激しい悲しみは数多く、途切れ途切れになりながらも続きます。
しかし、そのことをそのまま手をつけずに受け止めながらも、マケドニア州にある諸教会の兄妹姉妹たちに喜びがあふれ出たというのであります。
そして、その救い主キリスト・イエスによる喜びの力が、よい業、慈善の働きへと結びついているというのであります。
パウロは、この慈善の働きについて、命令しているのでは決してありません。
愛していること、愛されていることを、思い起こさせようとしているのです。
人と物とお金が数字のみで価値判断されるところから、そうではなく、愛していること、愛されていることの大きな喜びへと、パウロは人々を導こうとしているのです。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
パウロは、コリントの兄妹姉妹たちにすでに知っていることを思い出すように勧めています。
それは、神の恵みでありました。
神の恵みは、この世の悲しみを、神の御心に適う悲しみにまで引き上げる力を持っているのです。
これは、わたしたち人の力で成し得ることではありません。
主が成し遂げられたのです。
主イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でありました。しかし主は、一度墓に納められましたが三日後に復活され、神の愛と赦しの確かなことを現わされました。
神の愛と赦しそのものであったのにもかかわらず、主は苦しみを受けられ、十字架の死につかれました。
主は豊かであったのにもかかわらず、貧しくなられたのであります。
それは、主の貧しさによって、そのお働きによって、人が、あなたが、また、わたしたちが、豊かになるためであったのです。
そしてパウロは述べます。10節「この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。」
パウロが述べている「あなたがたが実行したいと願って」いることと慈善の業のことであります。
そのことについての意見をパウロは述べているのです。
そしてそれは、あなた方の益になると言うのです。
「益になると」いうのは、わたしたちにとって大切な霊が養われるということであります。
わたしたちの霊が、愛すること、愛されていることを、吸収し、数字で表すことのできない祝福が、わたしたちにもたらされるのです。
パウロは、この聖霊の働きを知っていたので、「益になる」と意見を述べたのです。
だから、11節、12節「今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思った通りに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」
パウロは述べています。
自分が思っている通りに。
自分の持っているもので。
組み立てるように、支えられ、結び合わせるということです。
そしてそれは、外から働きかけられ、命令を受けて行うのではなく、自発的に、自分から進んで行うことである、とパウロは言っているのです。
すなわち、そこに現わされるあなたの心を、主なる神は見渡され、探されるのです。
目覚めた人、神を求める人はいないか、神はご覧になられ、神は従う人々の群れにいまし、挫折の時にも必ず避けどころとなってくださいます。
主なる神は、ご自分の民を捕らわれた人々を連れ帰られるのであります。
ここに大きな喜び、祝いがあります。
そしてパウロは、慈善の働きについて続けて述べています。
13節から15節「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけているということではなく、釣り合いが取れるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いが取れるのです。『多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった』と書いてある通りです。」
余ることなく、不足することなく、というのはかつて主なる神が、人々の苦しみを見、人々の叫び声を聞き、人々の痛みを知って、命のパン、マナをお与えになった時、余ることなく、そして、不足することもなく、主はお与えになったことを述べています。
すべての必要を神は備えてくださるのです。
そのために、主は豊かであったのにわたしたちのために貧しくなられたのです。
それは、わたしたちが豊かになるための道であったのです。