「喜びに満ちあふれ」 フィリピの信徒への手紙2章12節~18節
「わたしと一緒に喜びなさい」とひたすら走っていた使徒パウロは、フィリピの教会の兄妹姉妹たちに向けて書き記しました。
福音を告げ知らせる使徒とされ、使徒となったパウロは、手紙の中でこうも述べています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身はすでに捕られたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
パウロは、目標を目指していた、と言うことができます。
そして、この手紙を読み、聴く、教会の兄妹姉妹にも、この目標を目指すということを勧めています。
そのために、パウロはひたすら、ただそればかりに、走るのでありました。
捕らえようとするのであります。
後ろのものを忘れ、今この時、前のものに全身全霊を傾けつつ、捕らえようと力を尽くしているというのであります。
それは既に捕らえた、また、既にそれを得ている、ということでは決してありません。
そうではなく、パウロ自身が捕らえられているからであります。
そしてパウロは、同じくキリスト・イエスに捕らえられている敬愛する兄妹姉妹たちに、親しみを持って、今、走ること、目標を目指すこと、を勧めているのであります。
わたしたちの心は、この世にあってすぐさま色々なものに走って行きます。
しかしパウロは、捕らえられた者として、キリスト・イエスに捕らえられた者として、ただひたすら心を向けているその姿を書き記すのです。
それは完全な者として述べているのではなく、捕らえようとする者、目標を目指す者としてパウロは語っているのです。
遅い、速い、ということはまったく関係はありません。
ただキリスト・イエスに向かっているかどうかであります。
そしてキリスト・イエスと共にあるかどうかです。
パウロは何故それほどまでに勧め、また、パウロ本人そうであるのでしょうか。
なぜ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることとなったのでしょうか。
それは、光をかいま見たからでありました。
そしてその光を、この世でお受けすることによります。
かつてキリスト・イエスは、弟子たちに山の上でこうを語りになられたことがありました。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」
パウロは、花束を受け取ったのでありました。
それはあたたかな花束であり、光の花束でありました。
そのあたたかな花束を受け取ったパウロは、この世の光なるキリスト・イエスの光に照らされ、地に倒れてしまうこともありましたが、その先には、この光を輝かすということが待っていたのでありました。
そしてパウロは、ひたすらに前へ進んでいったのでありました。
悲しみの時も、苦しみの時も、そのあふれる涙を集めてキリスト・イエスのもとに花束のようにして持って行ったのでありました。
そのたびに、キリスト・イエスは弱さの中にある者に水をお与えになり、道を教えくださり、大切なものがまわりに与えられていることを示されたのでありました。
そのあたたかな花束をパウロは受け取って進んで行ったのであります。
そしてパウロは、幼子がたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれているように、なったのでありました。
そして子どもたちが、キリスト・イエスのもとに来るのを妨げてはならないように、パウロは、キリスト・イエスのところに来させられ、光に照らされたのでありました。
そしてこの光は、パウロの一つ一つの段階ごとに満たされたのでありました。
キリスト・イエスは、その光であり栄光そのものでありました。
キリスト・イエスご自身が、安息日、ナザレの会堂でお語りになられた通りです。
旧約聖書のイザヤ書60章1節、2節
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。」
パウロは、この光に照らされ
主の栄光をかいま見たのでありました。
この光はとこしえの光であったのです。
そして、同じイザヤ書60章の19節から22節で預言書イザヤを通して主なる神はこう語っておられます。
「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主が、あなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主が、あなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。あなたの民は皆、主に従う者となり、とこしえに地を継ぎ、わたしの植えた若木、わたしの手の業として輝きに包まれる。最も小さいものも千人となり、最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば、速やかに行う。」
主なる神は、最も小さいものを大きくし、最も弱いものを強くしてくださるのです。
パウロは弱い時にこそ強くなったのです。
主にあって自分の弱さを大いに喜び、誇りとしたのであります。
キリスト・イエスの力が、自分自身の内に宿るようにパウロは大いに喜んだのでありました。
今日、わたしたちのもとに届いた聖書は、パウロは敬愛するフィリピの教会へ宛てて書かれた手紙フィリピの信徒への手紙の2章12節から18節です。新共同訳聖書では「共に喜ぶ」と小見出しが付けられています。
12節にはこうあります。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけではなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
パウロは、敬愛するフィリピの教会の兄妹姉妹たちを愛するキリスト・イエスに従順であるようにと勧めています。
キリスト・イエスは、罪の赦しのため苦しみを受けられ、十字架の死にかけられました。
しかし、神の愛と赦しの大きさを現されるため復活されました。
このキリストに従いなさい。
それはパウロが一緒にいる時だけではなく、パウロがいない時にはなおさら恐れとおののきを持って、それは、心からのあたたかさとやさしさを持って、救いを実現するためだというのです。
わたしたちむさし小山教会は七十年前「フィリピの教会にならう教会」を目標に歩みを進めてきたのでありますが、それは、キリスト・イエスの苦難と十字架の死、そして復活のもとに恐れとおののきを持って救いを達成する務めであります。
そしてそれを支え育むのは、キリスト・イエスの愛です。
13節「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とパウロは述べます。
神はよいお方であるのでよいものをわたしたちに備えてくださるのです。
働きかけられるのは神であり、キリスト・イエスであり、聖霊です。
人はそのように導かれ神の民となり、ひとりの神は一人ひとりの神となって、救いへと導かれます。
時に、悲惨であると言える中に人があると気づくことがあります。
しかし、主なる神はいつくしみ深い神であり、神は見捨てず、祈りに応えてくださり、御心をなしてくださる、このお方にのみ頼り、委ねるのであります。
神はよいお方であり、よいものをわたしたちに備え、働かせてくださるのです。
ですから、パウロは言います。14節「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。すべてのことをつぶやきも疑いもなく行いなさい。」と言います。
そこには生きておられる神、近くにいます神への信頼があります。
そして、心から心が通じ合うかのような信頼の気持ちを保つということがあります。
そこには、遅いんではないか、来られないのではないか、ということがありません。
神の恵みを信じ、信頼するのであります。
そうすれば15節、16節「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」
神の愛とゆるしに信頼し、まったく受け入れられた者として、驕らず、てらわず、高ぶらず、ただ主のみを信頼する、その純真さはこの世の中にあって神の子として光を灯し、闇夜の星のように輝くというのです。
わたしたちはこの星と暮らし、この星で暮らしているのです。
キリスト・イエスの愛と赦しを重ね合わせ、わたしたちは生きていくことが与えられているのです。
そのようにして、壁を越え、空を見上げ、天を見上げ、また、このわたしを空は見つめ、天は見つめているのです。
この与えられた星のような光り輝きは、キリスト・イエスによってともされたのであります。そのことを告げ知らせ、目標を目指して走ったすべての労苦が無駄ではなかったと、キリスト・イエスとお会いするその日に誇ることができる、すなわち、喜ぶことができるのです。
すべてのことは、大きな喜びに、並外れた大きな喜びに包まれるのです。
わたしは無駄に走り、無駄に労苦したという後悔、あとになって悔やむことがまったくないということであります。
それほどまでに、キリスト・イエスの愛とゆるしは大きく、この命の言葉は、わたしたちの歩む道を照らしているのです。
キリスト・イエスとお会いするキリストの日、それは、この上なくよい日であります。
ですので、さらにパウロは言います。17節、18節「信仰に基づいてあなたがたが生け贄を献げ、礼拝を行う際にたとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」
パウロがこの手紙を書き記した時、パウロはキリスト・イエスの名により捕らえられローマの牢の中に入れられていました。
この世の中ですべての事が制限されているような中で、パウロは星のように輝く光を見つめていたのであります。
パウロは、フィリピの敬愛する兄妹姉妹たちがキリスト・イエスを礼拝し、救い主を礼拝するために、自分の命が献げられることになるかもしれないということをローマの獄中で感じてもいたのです。
しかし、すべての苦しみと悲しみを乗り越え、その先に見える大いなる喜びを今、見たのです。
今、キリスト・イエスの救いの喜びが深く目の前にあるので、パウロは、大丈夫だ、と言っているのです。
心配しなくてよい、とすべての兄妹姉妹に伝えているのです。
「喜びなさい」というパウロの言葉は、キリスト・イエスにおいて、この世での別れの言葉であると同時に、キリスト・イエスと一緒に生きる大きな喜びを今も高らかに語っているのです。
「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」