「霊の働き」 コリントの信徒への手紙12章1節~11節
「“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
使徒パウロは、自らが書き記した手紙の中でそう述べました。
遠くにあって直接会うことも出来ない、そのような人々に向けて使徒パウロは言葉を送ったのでありました。
紀元一世紀当時の地中海世界、海と陸、両方にわたって交通の要衝、要と言うべき大切な町コリント。
この町では商業も大変発達し、経済的にも繁栄し、多くの人と物が行き交っていました。
使徒パウロは第二回の宣教旅行において、このコリントの町に一年六ヶ月の間滞在し伝道いたしました。
使徒パウロの働きは、救い主イエス・キリストを宣べ伝えることでありましたが、パウロの職業はテント造りでありました。
コリントの町では同じ職業であった人の家に一時住み込んで、一緒に仕事をしながら安息日ごとに会堂で論じ、教え、宣教を行っていたのでありました。
また、シラスとテモテという助け手であり、主イエス・キリストを宣べ伝える同労者たちもやって来ると、パウロは神の御言葉を語ることに専念し、救い主はイエスであると力強く証ししたのでありました。
経済的に繁栄していた町、しかしまた、このコリントの町は不道徳の町とも云われ、それは人々の暮らしの中にも影響を与えていたのでありました。
そのような土地でパウロは救い主イエス・キリストを証しし宣べ伝えるのでありますが、人々の中には、反抗し、口汚くののしる者たちもいました。
パウロはまた、会堂の隣にあった家に滞在することもありました。
そこでパウロの言葉を聞いて主イエス・キリストを信じ、コリントの多くの人々が信じ洗礼を受けることとなりました。
救い主である主イエス・キリストを巡って、反抗が起こり、言い張る人々、そしてまた、信じる人々が多く起こされる、それは眠っていた人々が目覚め起こされたということでありますが、そのことを妨げていた否認、承認しないという意識を持った人々もいたのでありました。
おそらく、パウロもそのような状況の中で心穏やかではない時を幾度なく送ったのではないでしょうか。
十字架の死より復活された主イエス・キリストに呼び止められ、それまでの向きを全く変えることとなったパウロ、しかし、人々の間ではさまざまな難、困難が起きるその中で、自分はただ向こう見ずなことをしているのではないだろうかという思いがふと沸き起こり、その思いと競い合うかのようなこともあったかもしれません。
「なぜ、このわたしにこんなことが起こったのか」という問いを抱えてしまうこともあったかもしれません。
しかし主に生かされる者として、その悲しみと辛さの中から引き出され、「現状はこうなのだ」という受け止め方が生み出されるのです。
そしてそれに立ち向かい、立ち上がり、「現状はこうなのだ。そしてわたしはこれから何をすべきなのだろう」という問いが与えられるのであります。
旧約聖書、詩篇37篇23、24節というところには古代の詩人がこのように歌っています。
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」
困難と苦しみの中に主は捨て置かれたままではなく、主の御手が伸べられている、そのことを見出すのであります。
パウロはコリントの町である夜、幻の中で主にこう語りかけられました。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしはあなたがたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
主がおっしゃるには「わたしの民が大勢いる」ということに、パウロの傷みは癒されたことでありましょう。
主は、わたしの恐れを知っていてくださり、聞いていてくださっておられる、そのことに癒されたことでありましょう。
そして、「恐れるな」とおっしゃる主は、人々の恐れを知っていてくださり、そのような人々は、苦しみ辛さの中にいる人々は、自分だけではないと知って癒されたのでありました。
人々に神の御言葉を教え、その後、パウロはコリントを後にすることになるのですが、そのコリントで救い主イエス・キリストを信じたキリスト者たちの間での問題に答えるようにして、パウロは手紙を書いたのでありました。
そしてその言葉は、愛と聖霊に満ちたものであり、かつてパウロが幻の中で主から語られたように人々を導くものでありました。
今日の聖書、新約聖書コリントの信徒への手紙一12章1節から11節、新共同訳聖書では「霊的な賜物」と小見出しが付けられ、1節にはこうあります。「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。」
パウロは言うのです。「兄弟たちよ、霊的なものについてあなた方が知らないことをわたしは欲しない。」
主イエス・キリストによって救われたパウロは、「ぜひ、知ってほしい」というものがあったのであります。
それはパウロの中にあって、どうしても語らずにはおられないものであったのです。
なぜなら、パウロの中にあるものがパウロをとらえて離さなかったからでありました。
パウロには欲するものがありました。
それは霊的なものについて分かち合いたいという願いでありました。
ですからパウロは、ぜひとも知っておいてほしいと述べるのであります。
そのようにして向きを合わせ、心を合わせ、神に向かって行きたいと願っていたのでありました。
そのために人々が救い主に向かって救われるために、霊的なものについてパウロは取り上げ、手紙を通して人々の間で語り始めます。
2節「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。」
パウロは、目に見えないのにもかかわらず、キリスト・イエスに出会いキリストを信じ、キリスト者となった者たちに、それ以前のことをあなた方は知っているでしょう、と言います。
もの言えない数々の偶像のもとに、誘われ、連れて行かれ、引かれていたことを覚えているでしょう、と言うのです。
それらのものは魅力のあるもののように見えていたのですが、真の魅力あるものではなくただ誘惑するものであったのです。
真に魅力あるものは真を保ち、救い主に引きつける力があります。
そして3節、パウロは続けます。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
真に魅力あるものとは、人を惑わすものではなく、また、迷わせ、そして、誘い込むものではなく、救い主イエス・キリストに引きつける力があり、その力は神の霊だというのです。
神は聖なるお方であり、聖なるものとなりなさい、とおっしゃるお方です。
ですから、神の霊は、聖霊であります。
聖霊は、どこまでも救い主イエス・キリストを証しし、証しし続けます。
そして、その力を持っています。
証明され、説明される必要もない力をお持ちになっておられるのです。
それが神の霊であり、聖霊であります。
この聖霊による教会、教会に与えられた聖霊の賜物について、パウロは語ります。
4節「偶者にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」
「賜物」というのは、与えられたものということでありますが、それをお与えになられるのは神であります。
人はそれをただお受けするのでありますが、その賜物を受けするしかしないか、また気づいているかいないかは、その人の意志によると言えます。
そしてそれはお受けするのが良いかそうでないか、また、気づかなければいけないか、そうでないか、という良いか悪いか、ということではありません。
ただ神が恵みとしてお働きになっておられ、この恵みの賜物にはいろいろあると述べるのです。
そしてその恵みは、同じ霊から、すなわち神の霊である聖霊から与えられるということであり、その聖霊は、人が一人ひとり違うように、いろいろなところでいろいろなかたちで現わされますが、「一つの霊」「同じ霊」であるのです。
わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているのです。
ですので5節、6節「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」
務めにはいろいろあり、働きにはいろいろある、と言うのです。
そしてそれは、一人ひとりに与えられているという大きな多様性であり、大きな恵みとなっています。
すべてを与え、すべてをなさるのは人ではなく神であるとパウロは言い、神がそうされるのであるから、その恵みの大きさの中であなたは生きなさい、と言うのです。
わたしには恵みが欠けている、足りない、また、そのような目で周りの人々を見るのではなく、神のお与えになる大きな恵みの中で生きなさい、ということであります。
つかみとるのではありません。
お受けするのです。
みだりに費やすのではありません。
物惜しみすることなくお与えくださる神に委ねるのです。
なぜなら7節「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」
神は、全体の益となるように養ってくださるのです。
同一になるのではありません。
また、同一にならなければならないのでは決してありません。
神の霊が現されるように、ということなのです。
その豊かさが、その恵みが、現れるように神は一つの霊で、一人ひとりを養ってくださり、それが全体の益となって行くというのであります。
パウロは、コリントに在るキリスト者たちの教会に造り上げるように語っているのであります。
そしてその一人ひとりが、神に向かって造り上げられて行き、全体の益となるように一人ひとりを励ましているのです。
一人ひとりを罪の重さから救うため、十字架の死につかれ復活された主イエス・キリストの愛と赦しに背き、争う人々の中で、神に向かって立ち返り、造り上げられていくことが出来るよう、パウロは兄妹姉妹を励ますよう語るのです。
8節から10節「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には“霊”を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられます。」
パウロは、ここにいろいろな賜物、それは神によって与えられる霊的な賜物でありますが、それを力と言います。
そしてその力は意味を持っているのです。
その力が目指しているのは、その霊の働きが一人ひとりに現れることによって、全体の益となり、その聖霊の教会、キリスト・イエスの教会が、愛を追い求めるようになるその力なのです。
この力は、愛を追い求めることを造り上げるのです。
ですので、11節「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
コリントの町の中にあって、そしてこの世の町の中にあって、悲しみ、苦しみ、そして辛さの中にあって、キリストがそうであったように、愛を追い求めるような人生を送ることができたなら、世界中の皆が幸せになれますようにという願いを人生の一行に書き加えるような、そのような人生を追い求め送って行けることができたなら、世界中の皆があなたの幸せを願っています、と語るの聞くことができます。
これらすべてのことは、同じ一つの“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです。
ですから、パウロは言うのです。
霊的な賜物についてはぜひ知っておいてほ