【来臨】 マルコによる福音書13章32節~37節

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

主イエス・キリストは、弟子たちにそうおっしゃいました。

わたしたちキリスト教会の暦においては、新しい年の始まりを迎えました。

待降節、アドベントという季節に入り、主が来られることを待ち望む心で、クリスマスに備える時になりました。

父なる神の御子イエス・キリストの御降誕を待ち望む、今日この日、主イエス・キリストが目を覚ましていなさい、とわたしたちに呼びかけておられます。

主イエスは、この世において、人と人との間を歩まれました。

そして、自らがお招きになられた弟子たちと一緒に町や村を巡っておられました。

その所々において、主イエスは病の人を癒されたということが福音書には記されています。

ある時、主イエスとその弟子たちと大勢の群衆が、エリコという町につき、そして出て行こうとされました。

その時、道端に目の不自由であったバルティマイという人が物乞いをするかのように座っていました。

しかし、この人は、主イエスが来られたということを聞くと叫び出しました。

その叫び声はいつも道を行き交う他の人々に呼びかける声とは違っていました。 

それまでは、いつものように繰り返される声掛けに、すっかり慣れてしまっていたのかもしれません。

そしてそれは、失意のうちになされ続けていたのではないでしょうか。

これまでの数えきれないほどの期待が外れてがっかりする気持ちになりました。

落胆し、絶望し、出口が見えないような感覚のもと 精神的に打ちのめされることもあったかもしれません 

そしてこの人は、見通せないということの中で、また他の人からも気づかれないうちに、深い悲しみに打ちひしがれていたのでありました。

しかし、そのような中に置かれていたのでありますが、その時の雰囲気、その道端にあって 行き交う人、その場所と、人々から漂うものが何かを伝えて来るのです。

姿が見えなくても影のように存在を感じさせるものが近づいている、ここに来たりつつある、そのことをこの人は知ったのです。

ここに来られるお方がすぐ近くまで来ておられる。

これまでは叫ぶことはなかったのかもしれません。

いつものように通り過ぎる人々に、呼びかける声でよかったのかもしれません。

しかしこの人は、使い切ることにしたのです。

この声を使い切ることにしたのです。

ですから叫んだのです。

叫んで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」

多くの人々が、その声を聞きました。

そして、その声を聞いた人たちは、これはふさわしくない、そぐわない、と思ったのです。

ですから止めさせようとします。

多くの人々が適切ではない、とこの人を叱りつけて黙らせようとします。

しかし、バルティマイはますます叫び続けました。

「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

彼は一度だけで止めませんでした。

道を来られるお方が来られた時、一回言われてそれに打ち負かされることはありませんでした。

彼はますます叫び続けたのです。

それは懇願するという、お願いです、本当にお願いですから、たった一回負けたぐらいでやめないでください、という懇願でありました。

彼の叫んでいたダビデの子というのは、ユダヤの歴史では、あのダビデ王の子孫ということでもありますが、ユダヤでは、救い主であるメシアはダビデの系図から生まれると云われていました。

かつて、主なる神はダビデにこうおっしゃっておられたからです。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに固く据える。」

この王国の王座をとこしえに据えるという約束が、ダビデの子孫から生まれ、それがメシア、 すなわち救い主だと言うのです。 

しかし、主イエスがこの地上を歩まれた時、ユダヤを支配し、属州としていたローマ帝国からの解放と独立を願っていた多くの人々により、強い政治的指導者とメシヤは結び付られ関連付けられることもありました。

主イエスは、そのようなことから、ご自身のことをダビデの子という呼び方は積極的に用いられませんでしたが、バルティマイは繰り返し叫んだのです。

その時、大勢の群衆に囲まれていた主イエスは立ち止まられました。

そして、「あの男を呼んできなさい」とおっしゃいました。

ますます叫び続けていたバルティマイに、人々は呼んで言いました。

「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ。」

その言葉を聞いた見ることに困難を得ていたこの人は、踊り上がって主イエスのもとへやって来ました。

主イエスは何をして欲しいのかとおっしゃると、この人は答えました。

「先生、目が見えるようになりたいのです。」

そこで主イエスはおっしゃいました。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

すると、この人はすぐ見えるようになって、主イエスに従って行きました。

主イエスが来られるのを、その時、多くの人々が待ち望んでいたのです。

そして、バルティマイは、主イエスに従いながら出会う人々を慰め励まし、主イエスにお従いすることで証して行ったのでした。

歩みを止めることはありませんでした。

なおも与えられた道を、主イエスは進んで行かれ、エルサレムの都に近づいて行かれました。

そしてある村に二人の弟子を遣わして、「主がお入り用なのです」と言い、表通りにつないである子ろばをほどいて連れて来るように、主イエスはおっしゃいました。

二人の弟子は、主イエスの言葉通りにして引いて来ました。

その子ろばに主イエスはお乗りになられ、エルサレムの都に入って行かれました。

その時、エルサレムの都では子ろばにお乗りになられた主イエスを、前に行く者も、後に従う者も叫んで言いました。

何と叫んでいたでしょう。

「ホサナ。(今救ってください)

主の名によって来られる方に祝福があるように。

われらの父ダビデの来たるべき国に祝福があるように。

いと高きところにホサナ。」

主イエスは、ダビデの子としてエルサレムの都に入られ、このお方がメシア、すなわち救い主であるとエルサレムの都の人々は迎え入れたのでありました。

ついに待ちに待った救い主が来られたという歓呼の声が上がり、都に響いたのでありました。

その後、主イエスは、このエルサレムにあったユダヤの宗教的また政治的な中心であり支柱でもあった神殿が崩壊することを、弟子たちに予告され、終わりの時が来ることをお語りになられます。

そして、大きな苦難の時が来ることをも前もって、主イエスはお語りになられました。

人々は惑わし、惑わされながら、その時がやって来ることを主イエスは予告されたのでありました。

その動かしがたい厳しさと恐ろしさが語られている、と言うことができますが、それだけで終わってしまうということではありません。

苦難の後、光が差し込み、光がやってくるということを主イエスはお語りになられるのです。

そのことは、主イエス・キリストのご生涯をもって現わされた人々の罪の赦しのための苦難と十字架の死、そして、復活によってもたらされた光をも指し示しています。

死と滅び、そのことのみで終わるのではなく、死と滅びを打ち破り乗り越えるのです。

その勝利者イエスがご一緒してくださるのです。

苦難の時、古代の詩人も歌っています。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。

わたしたちは決して恐れない。

地が姿を変え

山々が揺らいで海の中に移るとも

海の水が騒ぎ、沸き返り

その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

主は、わたしたちの光となってくださり、わたしたちの救いであると言うのです。

崩壊と苦難を予告される主イエスご自身もこうおっしゃいました。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

決して滅びないということは、とこしえであるということです。

わたしたちはこのお方により呼びかけられ、呼び出されたのであります。

そして、戸口にこのお方が近づいておられるのです。

しかし、主イエスはこのようにおっしゃいました。

「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。」

父なる神の子である御子イエスも、天使も、その日がいつであるのか知らない。

その時がいつであるのかだれも知らない、知らされないのです。

ただ父なる神のみがご存じであるのです。

そして、それでよいのです。

どう生きるのか、それでよいのです。

救い主が来られて、ご一緒してくださるのです。

たとえ厳しさと恐ろしさを経験し、深く味わうことがあったとしても、乗り越えて行くことができるのです。

「わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃる。

愛と赦しの主イエスが寄り添っておられるのです。

このお方と歩みをそろえ、ゆったりと息をそろえるのです。

それは、焦ったり、慌てて急いだりするのではありません。

待ち望む姿で信頼するのです。

ただ、「目を覚ましていなさい」と主イエスはおっしゃいます。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」

主イエスは、出て行き、そして、再び来られることを語りになっておられます。

その間、どう生きるのかということです。

主の日へと続くこの道をどう生きるのか、何のために生きるのかということなのです。

「だから、目を覚ましていなさい、いつ家の主人が帰ってくるのか。夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたは分からないからである。」

「目を覚ましていなさい」とおっしゃるのは、たとえの家の主人がいつ帰ってくるのかまったく分からないように、その日、その時が来るからだ、とお語りになられます。

そして、「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

たとえ、心の目で見ることが困難であっても、主は来られるのです。

待望するお方が来られたという大きな喜びと涙とをもって、このお方と出会うのであります。 そして、もう「わたしを憐れんでください」と叫ぶことをしなくてもよいほどに、主はわたしたちを愛しておられることを知り、その救いをわたしたちはお受けするのです。

幸いがここにあります。

何のために生きるのかのしるしがここにあります。

主は、あなたへと続く道を歩んでおられるのです。

ですから、主イエスはおっしゃいます。

「目を覚ましていなさい。」