【良いものを大事に】 テサロニケの信徒への手紙一5章12節~28節
「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」
新しい主の年2025年を迎えました。
わたしたちはこの年の初めに当たり、一人ひとりにとって良い一年であるようにと願っています。
昨年は、年の始めの能登半島地震をはじめ、台風や豪雨などによる災害が各地で発生しました。
その他にも多く方々の苦労や苦悩などが多い年でありました。
困難を抱えている方々のことを案じながら、地道にさまざまな活動を進め取り組んでおられる方々も多くおられます。
今日、この時も、心と体が支えられ守られるようにと祈ります。
今年は太平洋戦争終戦から80年の節目と言われますが、現在も戦争や紛争により、世界各地で多くの方々の命が失われています。
極めて深い悲しみの中、平和を実現する柔和な人々がこの年も多く起こされ、大地を受け継いで行くことができますようにと祈ります。
今日、わたしたちむさし小山教会に与えられました2025年の年間聖句は「良いものを大事にしなさい」という新約聖書テサロニケの信徒への手紙一5章21節からです。
使徒パウロが、紀元一世紀当時のマケドニア州テサロニケにある教会へ宛てて書き記された手紙です。
使徒パウロの所謂第二宣教旅行の中で、アジア州を聖霊に導かれながら巡っていたパウロに、幻で一人のマケドニア人が立って「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言いました。
その幻を見た時、パウロはすぐにマケドニア州に向けて出発することにしました。
新しい時代を迎える時に、パウロに示され、認識し、判断することとなったのは、幻でありました。
パウロとその同労者たちが、その時どうしてすぐに出発する、その行動に出たのかというと、マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったから、と使徒言行録の中で記されています。
パウロは神が召し出し、呼び出され、それを確信するに至ったというのです。
このようにして、使徒パウロは主なる神の与えられた幻によって、アジア州からマケドニア州へ、大陸から大陸へ、地中海を渡って行き、先ずはフィリピ、そして、その次にテサロニケの町へと進み入って行ったのでした。
パウロは三回の安息日にわたってこのテサロニケ、主にその町の会堂において、聖書を引用して論じ合い、主イエスは救い主であることを説明し、論証したのでした。
テサロニケの町には三週間ほどの滞在であったので、パウロがこの町から送り出された後、さまざまな問題が起きて、それに応えるようにしてテサロニケの信徒への手紙が著されました。
使徒パウロが去った後、救い主である主イエス・キリストのもと、どのように教会の兄弟姉妹一人ひとりが生きて行けば良いのかをパウロが語っています。
パウロの違う手紙においても、キリスト教的生活の規範についてこう勧められ述べられています。
「愛は偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い人とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
使徒パウロが述べるそのことの土台は、キリスト・イエスです。
父なる神より恵みとして送られ与えられた救い主イエス・キリストをもとにして暮らしなさいという進めです。
失敗することも、間違ってしまうことも、また、外れてしまうこともありますが、これを規範として、キリスト・イエスのもとに喜んで楽しんで生きることができるように、であります。
この世の中では、社会、経済、政治の機構的な悪も含めると、いろいろな、さまざまな広く行きわたった問題が存在し、その理解が求められていますが、パウロは言います。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
パウロ自身、人間としての弱さを充分身に染みて解ってはおりましたが、共に生きておられるお方キリスト・イエスと共にある恵みと喜びに生きることを願ったのです。
そして、パウロがテサロニケの町に入った当初、ある人々が暴動を引き起こし、町は混乱し、人々が押しかけ、さらに人々を扇動し、騒がせたということがありましたが、その中にあって、パウロの姿勢は支えられていたのでした。
キリスト・イエスに従っていたからです。
主に支えられ守られ、聴き、頼り、従った、のでありました。
そこでパウロは、テサロニケの町の中で生きる人々に語りかけます。
「兄弟たち、あなた方にお願いします。あなた方の間で労苦し主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」
テサロニケの町には少人数であっても、主に結ばれた者として導き戒めている人々がいたことが語られています。
キリスト・イエスは、人々の罪の赦しのため、苦しみを受けられ、十字架の死につかれましたが復活され、今も生きておられ、その愛と赦しのもとに生きるよう招いておられることをわきまえ教えている人々がいたということです。
そして、そのことを今、わたしたちは聖書に聴いています。
パウロは、できればせめてあなたがたは争いあうことが起きないようにし、平和に過ごしなさい、と言います。
そして、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。誰も悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対してもいつも、善を行うよう努めなさい。」
とパウロは述べます。
慰め、励まし、助けることに忍耐強く接しなさいということですが、それは一人ひとり、すなわち、自分に対してでもあり、他者に対してだけではありません。
悪をもって悪に仕返ししないためです。
そしてパウロは言います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
主なる神はこの世に、この地上に主イエス・キリストをお送りくださりお遣わしくださいました。
苦悩に満ち、嘆き、泣く声が聞こえてくるこの世界に、息子たちを失い、娘たちを失った人々が慰められるのを拒むこの世界に、道しるべとなり、柱となるお方をお送りになられたのです。
父なる神はこの地に新しいことを創造されたのです。
ですから、泣き止むがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主はおっしゃるのです。
あなたの未来には希望がある、と主はおっしゃるのです。
疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たしてくださるのは、このお方主イエス・キリストである、そのことをパウロはすべての土台としていたのです。
ですから、三つのこと、喜び、祈り、感謝していたのです。
いつも、というのは常にということでありますが、わたしたちの思いと考えとは常に揺れ動いています。
そして、それが通常です。
それだからこそ、いつも、とパウロは言っているのです。
古きを去り、汚れを除くように、いつもいつまでも、永遠におられるお方が共におられるのだから喜びにあふれていなさいと言うのです。
そして、絶えず祈りなさい、言葉にならない祈りも黙して静まって祈りなさい。
いつも祈りに励みなさい、と言うのです。
臆病にならずに、恐れることなく絶えず祈りなさい、と言うのです。
どんなことがあっても感謝を忘れないように。
朝も昼も夜も、立っている時も、横になって臥す時も、忘れないように、とパウロは言うのです。
神の聖霊に導かれて与えられた場所と道を歩んで来たパウロは、“霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい、と言います。
使徒であるパウロ本人がどのように歩んで来たのかを語っています。
心の火が消えてしまったことがあったのです。
それでも聖霊による恵みの火を消してはいけません。
預言、神の御言葉をこの世の中で軽蔑してしまうかのようなこともあったかもしれません。
しかし、神の御言葉は、あなたを救います。
軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事に、大切にしなさい。
万事よく調べて、それが本当に良いものかどうかを確かめなさい、と言うのです。
あらゆる諸々の悪から遠ざかるためです。
ほえたける獅子のようにだれかを食い尽そうと探し回っている者がいるからです。
信仰にしっかり踏み止まるように。
使徒パウロは、人々を励ましながら祝福して言います。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られる時、非の打ちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は真実で、必ずその通りにしてくださいます。」
パウロは、主なる神を平和の神と告げ知らせます。
愛と赦しによるまったき平安がこの方にある平和の神であります。
このお方がわたしたちを全く聖なる者にしてくださる、それは「正しい者はいない。一人もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と聖書に書いてある通りであっても、神が神の子としてくださるということです。
救い主イエス・キリストにより救い、神の子としてくださるのです。
そして、パウロは、天に上げられて復活の主イエス・キリストが再び同じありさまで来られることを語っています。
パウロは、その時を待っているのです。
そしてその時、わたしたちは非の打ちどころのない者、すなわち、ほんの少しも非難されない者としてくださる、神の子どもであるからです。
ご自分の子どもとして招いてくださり、今も支えてくださっておられる主なる神は、真実で、お約束通りにしてくださるのです。
テサロニケの信徒への慰めと励ましの手紙の最後でパウロは祈り願います。
「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに聖なる口づけによって挨拶をしなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなた方と共にあるように。」
パウロが語るあなた方とは、今、新しい年を迎えた共にある兄弟姉妹、わたしたちであります。
新しい年に改まったといっても、この世界には変わることなく止まったままのことが多くあるかもしれません。
しかし、わたしたちは聖霊の火を消すことなく、神の御言葉を敬いつつ、すべてを吟味し、良いものを大事に、大切にしながら歩んで行きたいと願います。
救い主イエス・キリストに従って、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝し、すべてを吟味し、良いものを大事にしなさい。