「輝かしい勝利」 ローマの信徒への手紙8章31節~39節

「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

と今日わたしたちの開きました聖書は語

います。

季節は春から夏の季節へ確実に向かっているそのことを確かに受け止めつつ、わたしたちは歩んでいます。

外の環境は変わりつつある、しかし、そうであっても常に変わらないものがあり、引き離すこともできないものがあるというのです。

わたしたちはこの世界において、離れ離れになって行くということがあるかもしれません。

失うということもそのひとつであるかもしれません。

この世において、保ち持っているべきものと思っているものさえも、失ってしまうことがあるかもしれませんし、そして、そのことをもよく知っているということもあるかもしれません。

そのような悲しいと思えること、耐えられないほどに痛ましいと思えることに囲まれてしまうことがあるかもしれません。

しかし、それ以上にわたしたちを包んでくれているものがあるというのです。

わたしたちがこの人生を歩む時に、冷たい風や冷たい雨の中を通らなければならないことがあります。

そのようにして、わたしたちの歩みに、わたしたちの成長に(それは人の年齢とは関係なく)、必要なものが運ばれて来るということがあるかもしれません。

そしてその運ばれて来たものが、失ってしまうこと、であることもあります。

しかし、そのことによって人は、何かから離れていると言う事を深く知ることもあります。

人の奥深くにある根源的なものが、何かから引き離されているかのようなことがあります。

そして人は、表面的なものを得ようとし、持とうとすることもあります。

キリスト・イエスを宣べ伝える使徒となったパウロは、人の根源的なところで失ってしまっているのは、神から離れ、背いてしまっている罪から生じるものであり、それは人の内面に内在している罪の問題としています。

自分では善を望んでいるのに関わらず、悪を行ってしまうという、善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているとパウロは言うのです。

しかし、わたしたちはキリスト・イエスにより、招かれ、召されたとパウロは言います。

そして、キリスト・イエスのものとされたと言うのです。

失われたものではなく、神から離れ、また離れつつあるところから、キリストのものとされたのです。

キリスト・イエスの十字架の死と復活は、人の罪の赦しのためであり、一人ひとりが神から離れた存在ではなく、神のもとにあり、神のものとなったことを現わしています。

キリスト・イエスの十字架は、罪からの救いを現わし宣言しているのです。

そしてそれは、宣言であって、何か考えていることをただ述べているということではなく、ここに救いが実現しているという決断です。

キリスト・イエスの十字架の死により、わたしたち人の罪は赦された、と決定されたのです。

その神の大いなる御業が、キリスト・イエスの復活に現わされ、その復活のイエス・キリストにパウロはある時出会いました。

そして、キリスト・イエスの恵みをパウロは宣べ伝えたのでした。

パウロは、キリスト・イエスに従う新しい生き方で仕えるようになったのです。

パウロは、かつて律法に仕えていましたが、復活のキリスト・イエスに出会うことによって全く変えられて行ったのでした。

律法は、罪を明らかにしますが、キリスト・イエスは罪を全く赦されたのです。

そこでパウロは言います。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

キリスト・イエスにより人は罪赦され、恐れや不安から解放されたのです。

恐れることはない、思い煩いを、そのことを選ばなくともよい、キリスト・イエスものとされたからであると言うのです。

救い主キリストが来られ、このお方と結ばれている者は罪に定められることはない、と使徒パウロは言います。

神が人の罪を取り除くために、御子イエス・キリストを罪深い肉体と同じお姿でこの世にお送りになられ、その肉体において、罪を罪として十字架刑で処断されたのです。

ここに神の決断がなされたのです。

肉の思いは死でありましたが、神の御思いは命と平和でありました。

命があるように。

平和が平安があるように。

神はこのキリスト・イエスにおいてお決めになられたのです。

そして、この世に生きるわたしたちの内に神の霊が宿ってくださり、この神の霊は救い主キリスト・イエスを絶えず証してくださっておられるのです。

わたしたちのうちに宿ってくださるこの神の霊は、わたしたちの命となって息づいているのです。

この命をお与えになったお方は、キリスト・イエスを死者の中から復活させたお方です。

このお方がわたしたちの内に、神の霊をお与えくださいます。

わたしたちが今日の礼拝に導かれたように、神の霊はわたしたちを導かれます。

そして、神の霊によって導かれる者は皆、神の子であるのです。

キリスト・イエスがある時、山上の説教で弟子たちにこうお語りになられました。

「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

平和、平安をつくり出す人は神の子と呼ばれ、幸いであるのです。

この世につくり出すものは、物ばかりではありません。

目には見えない、しかし、大切なものがあります。

自分に与えられたものを通して、身近なところでつくり出すこともできるかもしれません。

神の子として、わたしたちは招かれ召されているのです。

そして使徒パウロは、神の子としてくださる神の霊を受けた人たちに、再び人を奴隷のようにして恐れや不安、無価値感や罪責感に陥れるようなことがないように、呼びかけています。

神の霊は、父なる神を呼び求めています。

父なる神を呼び求めている、ということは、そのまま父の子どもであることを証ししています。

使徒パウロは、神の霊によって、わたしたちは神とつながり、キリストとつながっていることを示します。

そして、つながっている者として受け、伝えて行くのです。

それが神の子どもたちということです。

神からお受けした愛と赦しを、お受けした者として、相続した者として、伝えて行くのです。

そして、それはキリストと共にその栄光をもお受けすることでありますが、この世においては苦しみがあります。

使徒パウロは言います。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

パウロは遠くに、そしてすぐ近くに、垣間見ていたのです。

今のこのときの苦しみは、将来わたしたちに表されるはずの栄光と比べれば取るに足りません。その栄光の輝きが、あまりにも素晴らしいので、現在の苦しみは取るに足りないというのです。

栄光の価値、その重みは、今現在のわたしたちを遥かに超えたものであるのです。

この栄光に輝く自由にあずかることのできる希望があります。

わたしたちはこのような希望によって救われています。

見えてるものに対する希望は、希望ではありません。

まだ見ていないものを望み、わたしたちは忍耐して待ち望んでいるのです、とパウロは言います。

希望を持って忍耐する、なぜなら、神の御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを知っているからであります。

そして今日の聖書ローマの信徒への手紙8章31節30節で、よい知らせ、福音を宣べ伝えるパウロはこう述べています。

「では、これのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたち全てのために、その御子をさえ、惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

わたしたちは神の霊によって神の子である、そして今、起こっていること、これから起こることすべてを神がわたしたちの益となるように共に働かせてくださるのです。

わたしたちはそれを忘れてしまうかもしれません。

しかし、神の霊は忘れず、神はすべてを見通してくださるのです。

パウロは、これらのことについて何と言うべきでしょう、と語るのです。

神が味方なら、誰がわたしたちに敵対できますか。

神はその独り子をお与えになったほどにわたしたちを愛されたのです。

そして、その御子キリスト・イエスは、わたしたちを救い出してくださったのです。

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」

パウロは、「だれが」と繰り返し述べて神の愛と赦しの大きさを語ります。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

キリストの他にはだれもいないと言うのです。

わたしたちのために、その力をお持ちになられ、執り成してくださるのは。

そして、パウロは続けて強調して、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。劍か。」

苦難があっても、行き詰まりがあっても、キリストの愛からわたしたちを引き離すものは何もないのです。それほどまでにキリストの愛は強く、大きく、そして、本当のわたしたちを根底から支えておられるのです。それでも、この世に置いて、「わたしたちは、主のために死にさらされ、屠られる羊のように見られている」かもしれません。

「しかし、これらすべてのことにおいてわたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」

勝って余りあります。

パウロは続けて語ります。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

この世のどんなものも、どの位置、どの場所においても、いついかなる時においても、キリストにある者は、罪に定められることはないのです。

それは、すなわち、キリスト・イエスにある神の愛からわたしたちを引き離すことはできないということです。

これが、いくつもの暗闇を越え、光に照らされたわたしたちに与えられた輝かしい勝利です。