「生きた水が」 ヨハネによる福音書7章37節~39節

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

主イエス・キリストはそうおっしゃいました。

爽やかな五月の光の中、わたしたちは礼拝に集いました。

季節は、旅するのに気持ちの良い季節と云われます。

人生を旅ととらえると、その旅の始まりには母の面影や語っている言葉や声があると言えるかもしれません。

使徒パウロもまだ年若い福音宣教者の同労者テモテに手紙を通してこう語っています。

「わたしは昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に感謝しています。わたしはあなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って喜びで満たされたいと思っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。そういうわけで、わたしが手を置いたことによって与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

使徒パウロは、苦労し、苦しい思いをしているテモテを慰め励ましているのですが、一つ確認していることがあるというのです。

それはテモテの祖母、そして母に宿った信仰、信頼ということでありました。

そして、それは純真な信仰、信頼でありました。

それが、あなたにも宿っているのです、と言うのです。

このことは、具体的に実の祖母、実の母という方々だけでなく、わたしたちにとって、それは教会であります。

母なる教会に宿っている信仰があなたにも宿っているということであります。

使徒パウロは、その信仰により、あなたにはおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊が、神から与えられていると言うのです。

パウロは、その賜物を再び静かに燃え立たせるように、大丈夫、元気を出しなさい、と自分に与えられた確信に基づいて、同じ道を歩む者たちを力づけているのです。

5月の第二日曜日は母の日です。

アメリカのとある教会で、教会学校教師を務めていたある人が子どもたちに「あなたの父母を敬え」という出エジプト記20章の十戒のお話をして、母の愛に心から感謝する方法を考え出す人はいませんかと質問したことが始まりと云われます。

その先生がやがて天に召された時、その娘が母の大好きであったカーネーションを記念式で飾ったことが広がって行き、日本においても広く行き渡りました。

感謝を表す方法として、それが主なる神の御言葉を聴くことから繰り広げられてゆくこととなったと云うのです。

母なる教会は、耳を傾け神の御言葉を聞き続けて来たのでありました。

ヨハネによる福音書3章というところには、神の御言葉を聴こうとニコデモというユダヤの議員がある夜、主イエス・キリストのもとを訪れる場面が記されています。

ニコデモは、主イエスのことを「神のもとから来た教師」と呼んでいます。

このニコデモに主イエスは「人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」とおっしゃいました。

主イエスは、神の国、天の国を宣べ伝えていたのでありました。

国という言葉は支配という言葉に置き換えることが出来るので、そのように置き換えると、神の支配、天の支配ということを主イエスは宣べ伝えていたということでありますが、それは、新たに生まれなければ、とユダヤの議員であったニコデモに主イエスはおっしゃいます。

それに対してニコデモは、「年をとった者がどうしてもう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう」と答えています。

彼はある夜に、そして、この世のもののもとにあります。

主イエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃいます。

主イエスは、「あなたがたは新たに生まれねばならない」とおっしゃるのです。

そしてそれは、あなたの内に注がれ宿る水と霊とによってであります。

神の国は、あなたの中にあるということでもあります。

神の国を伝える主イエスは、弟子たちと共にガリラヤ地方の町や村を巡られ、多くの人々が主イエスのもとに集まって来ておりました。

ある時、ユダヤの三大祭りのひとつ仮庵祭がやって来た時、主イエスは人目を避け、隠れるようにしてエルサレムに登って行かれました。

しかし七日間の祭りも既に半ば、主イエスは神殿で教え始められました。

エルサレムの人の中には、主イエスが、ユダヤの宗教的政治的指導者たちに狙われていることを知っている人たちもいて、「こんなに公然と話しているのに、何も言われない。ユダヤの議員たちは、この人がメシア救い主だということを本当に認めたのではなかろうか」と言いました。

すると神殿の境内で教えておられた主イエスが大声で「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしなった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしなったのである」とおっしゃいました。

主イエスは、父なる神から遣わされたということをお語りになられますが、そのことが分からずにいる人々も多く、真っ向から反対する指導者たちの力も強かったのであります。

そのような中でありましたが、福音書はイエスの時はまだ来ていなかったので、主イエスに手をかける者はいなかったと語ります。

群衆の中には、主イエスを信じる者も大勢いて、「メシア救い主が来られてもこの人、すなわち主イエスよりも多くのしるしをなさるだろうか」と群衆の間で、このようなささやきが聞えて来たのでありました。

そのためにユダヤの祭司長たちとファリサイ派の者たちは、即刻、主イエスを捕らえようと下役たちを遣わしました。

この世の力は主イエスを認めようとはしません。

そして、人と人との間におられることを受け入れようとせず、排斥しようとします。

そこで、主イエスはこのようにおっしゃいました。

「今いましばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」

この時、主イエスは人と人との間にあって、今しばらくは一緒にいる、それは祭司長たち、ファリサイ派の人たち、そして群衆の人々をも含んで、人と人との間に主イエスはおられるということであります。

それから、主イエスはご自身をお遣わしになられたお方のもとへ戻られるとおっしゃいます。

主イエスは来られ、そして、戻られるとおっしゃるのです。

そして、それは人々を救うために来られ、そして人々を救うために戻られるということでありました。

しかし、このことを当時のエルサレムでは受け入れられることはありませんでした。

さらに主イエスは、人々に疑義を抱かされるようなことをおっしゃいますが、それはそのこと自体、主イエスが救い主であるそのことを言い表しています。

主イエスは人々におっしゃいます。

「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることが出来ない。」

主イエスは、人々の救いのため、罪の赦しのために苦しみを受けられ、十字架の死につかれますが復活させられます。

墓の中を探しても、そこに主イエスを見つけ出すことは出来ず、しかし、復活の主イエスは弟子たちに現れます。

そして復活の主イエスは天に上げられるのであります。

弟子たちの見ている目の前で、復活の主イエスは天に上げられ、神の右に座しておられるのです。

主イエスがおっしゃる「わたしのいるところに、あなたたちは来ることが出来ない」というのは、この主イエス・キリストの十字架と復活、そして、天に昇られた出来事を予告しておられたということでもあります。

しかし、その出来事が起こる前のことであったので、ユダヤの人々は互いに言い合いました。

「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人の所へ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか。」

ユダヤの人々は主イエスがまた別の場所に移動して行くのではないかと思ったのかもしれません。

そして当時、地中海世界を中心とした地域に離散していたユダヤの人々の所へ行って、異邦人でもあるギリシア人に教えるというのだろうかと思ったのでありました。

それはこの世のこの地上において、人々の考えることでもありました。

そしてさらに、「『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

主イエスは、父なる神の御心がなるようにすべてのことを見つめておられましたが、人々は人の思いがなることを思っていたので、主イエスのその言葉が分かりませんでした。

それは十字架の死と復活の力をまだ受けていなかったからでもありました。

そしてヨハネによる福音書7章37節、仮庵祭が最も盛大に祝われる七日間の終わりの日になります。

この仮庵祭は、かつてイスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念し、仮の庵を作って祭りの間そこに仮住まいをしたことに由来します。

そして紀元一世紀当時、この祭りの期間中、毎日エルサレムにあるシロアムの池の水を金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐ行事が行われていました。

この祭りの時、そしてこの祭りが盛大に祝われる終わりの日に、主イエスは立ち上がられ、大声でお語りになられたのでありました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

旧約聖書イザヤ書12章1節から3節にはこうあります。

「その日には、あなたは言うであろう。

『主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。

見よ、わたしを救われる神。

わたしは信頼して、恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。』

あなたたちは、喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」

主イエスキリストが私たちの深い慰めとなってくださって、わたしたちの確かな救いとなってくださったのです。

ですから、「わたしのところに来て飲みなさい」と主イエスはおっしゃるのです。

そして主イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている聖霊についておっしゃったのでした。

その時はまだ、主イエスは苦難と十字架の死、そして復活の栄光をお受け出なかったので、聖霊がまだ降っていなかったのです。

ですから、主イエスは救いの泉の水を通して人々にお語りになられたのでした。

主イエスのもとに命に至る水、魂を慰める御言葉があります。

そして、主を信じる者に、それは尽きることがないのであります。

その霊と魂を満たし、生き返らせてくださるのです。

この地で、主イエス・キリストを信じ祈る者たちに、主イエスは大きな声で呼びかけておられます。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。