「報われるということ」 ルカによる福音書14章7節~14節
「あなたは報われる」と主イエス・キリストはおっしゃいました。
この世においてそうおっしゃる主イエスは、人の目から見て、そのようなことはない、報われることのない道を歩んで行かれるように見えたのでした。
この世において、また、わたしたちが日々の日常の中で感じること、報われないという思いは、努力や苦労に対してそれに見合った期待通りの成果や成功が得られないことです。
この世においては、成果や成功が求められることが多いかもしれません。
そしてそのことは、わたしたちの生活を支える大切なことでもあるかもしれません。
聖書の福音書に記され証言されている主イエス・キリストは、町や村を巡って、人々に神の国について宣べ伝えられ、病の人をいやされ、悪霊を追い出されました。
その御業によって、多くの人々が、救われたという深い実感により、また、さらに多くの人々が主イエスのもとに群衆となって集まって来ておりました。
そのことではこの世において、多くの成果と成功を得たと、この世の目を通して見ることが出来ます。
当時の人々は、そのことを歓呼して、喜んで、大きな声を上げて、迎え入れたのですが、ある時から主イエス・キリストの歩みは、この世の人の目から見ると全く報われないと映ったのでした。
そして、その虚しさ、虚無感は、次第と大きさを増し、激しさを増して行くこととなったのでありました。
それは、この世の暗闇が徐々に増して行くようでありました。
人々は、危機が迫り来る気配を、言葉には上がりませんでしたが薄々感じつつありました。
人々の心に、暗い雲、今にも雨は降り出しそうな気配、人々は心を覆い閉ざして行く、その苦しみ、悲しみに飲み込まれてしまうかのようなものを漠然と感じ始めていました。
それは、主イエスが町や村を巡って、教えながら進んでおられた時でありました。
ガリラヤ地方から弟子たち一行 行と共に、主イエスがエルサレムへ向かって進んでおられたからでありました。
人々は、町や村で、主イエスを迎え入れるのでありますが、主イエスがエルサレムへ向かって進んでおられることに、言葉には上がらない大きな不安さえ感じていたのでした。
それは、当時のエルサレム神殿を中心とした宗教的政治的指導者たちが主イエスのことをよく思ってはいなかったからでありました。
そしてその思いは、妬みとなり、憎しみとなり、さらにその思いが激しさを増して行くこととなったのでしたが、この世に主イエスがお生まれになった時も、当時のユダヤの王が、救い主がお生まれになったことを恐れ、その周辺の地域一帯の二歳以下の幼子を皆殺しにしてしまうという凄惨な大事件がありました。
これは、主イエスキリストに対するこの世の暗闇が深かったことを表していました。
そのようなこの世の力がうごめく中、その中心地とも言えるエルサレムに向かって主イエスは進んで行かれるのです。
人々はそこに、報われることのない主イエスを見ていたのでありました。
しかしそれでも、主イエス・キリストはエルサレムへ、すなわち苦難と十字架の死へと向かって進んで行かれるのです。
それは、この世の報いとは異なる報いへと向かっていたからでありました。
主イエスがエルサレムへと向かう道の途上、当時の宗教的政治的指導者でありユダヤの自治、行政にも関わっていったファリサイ派の人々何人かが近寄ってきました。
彼らは主イエスに言います。
「ここを立ち去ってください。ヘロデ王があなたを殺そうとしています。」
これは注意だったのでしょうか、警告だったのでしょうか。
主イエスはお答えになりました。
「わたしは、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』」 そして、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」
主イエスは、ご自身そのもの、その全身全霊をもって進んでおられることを現わされました。
そしてその後に続くようにと願っておられましたが、その時、そのことがわかる人はいませんでした。
しかし、主イエスは、確かにその足跡を残されました。
それは、目には見えませんが確かに残っています。
人々を救う救い主が進み歩まれた目には見えない足あとであります。
主イエスは道を歩まれ、そして人々と食事をするため家に入られました。
主イエスは人として人々の日常生活の場に入られ、その傍らすぐ近くにおられます。
食事のためにファリサイ派のある議員の家に主イエスはお入りになられました。
それは安息日でのことでありましたが、そこに病の人がいて、主イエスはその人をいやされました。
ユダヤのファリサイ派の人々にとっては、働いてはならないとされる安息日に、主イエスがそのように病を癒されたということは、律法違反だと口実をつくり、言いがかりをつけることが出来ましたが、彼らは何も言うことが出来ませんでした。
人々の救いのため全身全霊を傾けて進んで行かれる主イエスに、もはや何も言うことが出来なかったのです。
食事の席において、病をいやされた主イエス・キリスト、それは、人々が食卓を囲み、恵みの一つ一つをいただきながら言葉を交わし、交わりを持つことでもありました。
見よ、兄弟姉妹がともに座っている、何という恵み、何という喜び、ということを主イエスはつくり出されるのであります。
この食事の時にいた病の人は食事の席にいてはならないとされた人であったと云われますが、主イエスはその人の手をお取りになられて癒され、そして、お帰しになられたのでありました。
そして、ファリサイ派のある議員の家、食事の席でのことが、今日の聖書ルカによる福音書14章7節以下に記されています。
主イエスは、お食事のために入られた家の中でご覧になられたのでありました。
そして、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に、主イエスはお気づきになられて、そこで彼らにたとえをお話しになられました。
主イエスは、人々の心の中に何があるのかを、その食事の席でご覧になっておられたのでした。
主イエスはお話になられました。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『このお方に席を譲ってください』と言うかもしれない。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたらむしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたは招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。その時は、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる。」
主イエスは、食事のために入られた家の中で、たとえをお語りになられますが、それは婚宴の席、宴会の席についての教訓と言えるものでありました。
招待を受けたらこうしなさい、そうしたら、このようになる、というものであります。
まず、招待されたら上席に着いてはならない、と主イエスはたとえを話されます。
そうすると、このようなことがある、と言うのです。
それは後から身分の高い人が来て、席を譲ることになり、たとえでは、その時恥をかいて末席に着くことになる、と言うのです。
ですからたとえではまず、末席に行って座りなさい、と言います。
すると上席を勧められ、みんなの前で面目を施すことになると言うのです。
このたとえは、この世の常識、この世の教訓とも言えるものでありますが、面目を施すのはだれかということであります。
そのことをなさるお方、実現されるお方がおられるということ、そして、それをお受けすることが出来るということです。
面目とは、栄光を表しています。
栄光を現されるその主体となって行ってくださるお方を、主イエスはたとえを通してお語りになられます。
主イエスは、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」とおっしゃって、高ぶるものを低くされ、へりくだるものを高められるのは、神であることをお語りになられます。
そして、その神の力を主イエス・キリストは現わされるのであります。
主イエスは、たとえを続けてお語りになられます。
主イエスは招いてくれた人にもおっしゃいました。
「昼食や夕食の会を催す時には、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しが出来ないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活する時、あなたは報われる。」
主イエスは、たとえを通してこうしなければならない、なぜならこうなるかもしれないからだ、とおっしゃいます。
そしてむしろこうしなさい、それはお返しが出来ないから、とおっしゃいます。
主イエスは、何かをしたから何かをもらえるということから、新しいあり方をお教えになられます。
それは、この世の常識や教訓といったものとは違うふるまいです。
この世の目からすると全く報われないと見える苦難と十字架の死へと向かう主イエス・キリスト、しかし、主イエスは、死より復活され、人々の救いのため成し遂げられたのです。
このお方によって、わたしたちの魂は守られ、助けられるのです。
主に信頼し、神があなたの、また、わたしたちの人生に、そして、生き方に、成し遂げられることを仰ぎ見るのです。
わたしたちは神に応答することはできます。
神からの問いかけや呼びかけにお応えすることは出来ますが、お返しすることは出来ません。
ただ神のふるまいをお受けするだけです。
そして、神のふるまいに合わせて、わたしたちもふるまうのです。
神がお与えになった主イエス・キリストにより、報いをお受けしたものとして、神の栄光を現わすのです。
わたしたちはお返しができないから幸いです。
正しい者たちが復活する時、わたしたちは報われます。
神の栄光をあなたに与える。
それが神のふるまいであるからです。