「共に喜びます」 フィリピの信徒への手紙2章12節~18節
今日、わたしたちは、むさし小山教会72周年を記念して、主なる神への礼拝をおささげしています。
主なる神がこの所まで、そして、この時まで、導いてくださったのであります。
むさし小山教会は1951年(昭和26年)9月に伝道を開始し、その創立記念日は、同年9月16日になっています。
本日、むさし小山教会教会学校の第二学期が始まりましたが、教会創立記念の日、当日に教会学校も開始されています。
そして、その二ヶ月後に教会附属アライアンス幼稚園も開園しておりますことは、当教会が、創立当初から子どもたち、幼な子たちを大切にし、歩んで来たことがわかります。
そして、教会、教会学校、幼稚園がひとつの交わりとして祝福された道を歩んで行くことを願い続けて来たのでした。
今年の夏、当教会に隣接する阿部正和兄宅の建物が解体され、現在、教会境内地としての手続きが進められています。
このお宅は、むさし小山教会初代小林寿(ひさし)牧師、 二代小林宥(すすむ)牧師、アライアンス幼稚園前園長阿部和子先生をはじめ、そのご家族皆様におかれまして、ならびに教会と幼稚園の交わりの中にあります兄弟姉妹各位において、大変思い出の深いお宅でありました。
そして、その「家」において、多くの希望を分かち合って来たのでありました。
むさし小山教会初代小林寿牧師は、むさし小山教会教会史によりますと、聖書において信仰の父と云われるアブラハムについて、最も力を入れて語っておられたことが記されています。
その聖書の御言葉は、口語訳で、「信仰によって、アブラハムは受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行先を知らないで出て行った」ヘブル人への手紙11章8節
「彼は望み得ないのに、なお望みつつ信じた」ローマ人への手紙4章18節
「彼は、神の約束を信仰のゆえに疑うようなことをせず、かえって信仰によって強められ 、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」ローマ人への手紙4章20節、 21節
そして、「神は我に関わることを全うし給わん」
「神は御言葉に責任を持つ」としたのでありました。
その行く先であった地、その辿り着かれた地であった、その土地を、わたしたちは教会として受け継ぐこととなったのであります。
天に対して、この地上において、神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には御子イエス・キリストによって、わたしたちに語られたのです。
神は、御子を万物の相続者と定め、また御子によって、もろもろの世界を造られたのです。
わたしたちこの世界にあって幸いです。
この神の御子イエス・キリストと、目に見ることは出来ないかもしれませんが、出会ったからです。
そして、その行いによって行動した先達の方々、そして今、こうして共に礼拝をささげる方々と、この世界にあることを感謝いたします。
わたしたちは、今日も、明日も、多くの困難に直面するかもしれませんが、そして、それは目に見えないものであるかもしれませんが、それでもわたしたちには希望があります。
わたしたちには希望があります。
それは、いつの日か、この土地が立ち上がり、救い主イエス・キリストにより、すべての人々が救われ、救いは主イエスにあると信じることを実現させることです。
わたしたちには希望があります。
かつての方々と、今の方々と、やがての方々が、兄弟姉妹として共にあるということをです。 わたしたちには希望があります。
それは、いつの日か、そして今ここで、多くの困難に直面していたとしても、それでさえも、 魂の回復の場所、疲れを癒し心に安らぎを与えてくれるオアシスへと変わることです。
わたしたちには希望があります。
このむさし小山の地において、山の頂上、信仰の山の頂に、共に立って救い主は死より復活され、今も生きておられることを宣べ伝えることです。
わたしたちは、むさし小山教会の歴史において、フィリピの教会にならうことを祈り願っています。
新約聖書のフィリピの信徒への手紙は、使徒パウロとマケドニア州フィリピにあるキリスト者たちとの親しい交わりによって生まれた書簡です。
わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなた方にあるようにと祈り願いながら、言葉を交わしているのです。
使徒パウロは、このようにも言っています。
「わたしはあなたがたのことを思い出す度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」
今は遠く離れているかもしれない、時代的にも時間的にも空間的にも離れてしまっているかもしれない、しかし、主イエス・キリストによって、その交わりは愛と赦しのある喜びの交わりであることにはかわりはないのです。
主イエス・キリストが、わたしたちの中で、その御業を始められたのです。
そして、このお方ご自身が、ご自分の日までに、その御業を成し遂げてくださるのです。
救い主としての御業は、わたしたちに、喜びがない時にも恵みをお与えくださいます。
ご自身の日とは、キリスト・イエスとお会いする日のことです。
「わたしは信仰を立派に戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠がわたしを待っている」と主イエス・キリストの日、このむさし小山の地が御業の成し遂げられた信仰の山の頂でありますように。
そしてここで、主イエスとお会いすることを常に楽しみに待ち望むことができますように。
キリストを信じるだけではなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていた使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章12節でこう述べています。
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
パウロは、フィリピのキリスト者たちを知っておりました。
その顔を思い出しながら、心がけることを勧めています。
「だから」というのは、主イエス・キリストがわたしたちのために成し遂げてくださっただからということです。
キリストは神でありながらも、それに固執なさらず、ご自分を無にされ、僕の身分となられ、人間と同じ者、人間の姿で現れました。
へりくだって、十字架の死に至るまで従順であったのです。
それは、わたしたちの罪の赦しのため、救いのため、でありました。
わたしたちは、他の誰でもなく、このお方に対して生きるようにしてくださったのです。
使徒パウロは、この喜びを共にしたいと願ったのです。
「だから」、主に対して従順であるように、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するようにとパウロは述べるのです。
それは、決して堅苦しいことではなく、喜ぶこと、再び、喜ぶことでありました。
主イエスの従順な御姿に、自分は生かされ、救われているという喜びをパウロは語るのです。
そして、あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは、神であるからです、とパウロは言います。
わたしたちの敬愛する兄弟姉妹、先達の方々、教師、信徒の方々、その内に働いてくださるお方がおられるのです。
主の御心のままに望ませ、行わせておられるお方がいるのです。
信仰を与えられ、御言葉を聞くことを与えられ、それが魂を救うことだと気づき、向きを変える人が現れるのです。
神は、扉を閉ざすようでありますが、また、開かれます。
それがよいとか、そうではないとか、わたしたちは言うことは出来ません。
しかし、主なる神は必ずわたしたちを導かれるのです。
そして、その御手の働きを止めることがありません。
パウロは言います。
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」
そのことを知った人は、感謝を知った人であります。
よいとか、そうでないとか、ということではなく、ただ感謝しつつ、神の光のあるところに赴くのです。
歩けなくても、走れなくとも、神の光が差すところに向かって行き、そこにとどまるのです。
そこにこそ、あふれる感謝がわき出ているからです。
恵みに感謝する。
そうすれば、とパウロは言います。
「とがめられることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
とがめられることがないのです。
それは、自分自身の中にある声、良い心の良心の声を聞いているからであります。
その心の声を聞くことが大事であるとパウロは言っているのです。
そうすれば、とがめられること、自分自身で心を痛めてしまうこと、自分自身をいつまでも責め続けることはないのです。
道に外れていること、ぶれてしまっていること、そのような時代の中にあっても、主によって、何事も、不平や理屈を言わず感謝に生きるなら、主の御前に、非のうちどころのない神の子としてくださるのです。
この世にあって、光の子どもとして、地上の星として、輝くのです。
そして、神の光を受け、見ているので、命の言葉をしっかり保つのです。
それは、保ち続けること、持ち続けることであります。
なぜなら光は闇の中で輝くからです。
困難の中にあっても、声をあげ、主に向かって叫び、声を上げ、主に向かって憐みを求めるのです。
御前にわたしたちの悩みを注ぎ出し、御前に苦しみを訴えるのです。
こうして、とパウロは言います。
「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったとキリストの日に誇ることができるでしょう。」
キリストと共に歩み、生きたのです。
1950年代、 60年代、70年代、80年代、90年代、 2000年代、10年代、20年代。
キリストと共に走ったのです。
それは、はやく走った時も、おそく走った時もあったのです。
その歩みは、無駄では決してありませんでした。
今わたしたちは、先に見るべきものが与えられているからです。
労苦したことも無駄ではない、と見ることが与えられているのです。
それは、キリストの日です。
苦難と十字架の死につかれ、復活された主イエス・キリストとお会いする日が必ず訪れるからです。
それは、裁きの時でありますが、どがめられることなく、非のうちどころのないものとして、 キリストとお会いすることが出来るのであります。
わたしたちの先達方々は走りました。
そして今、わたしたちも走ります。
キリストの日の誇り、栄光が現れるからです。
そして、パウロはさらに述べます。
「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。 わたしと一緒に喜びなさい。」
使徒パウロは、人々の救いのためにキリストの血が流されたことを知っており、信仰を持って受け止めていました。
そして、キリストと共に生きたので、たとえわたしの血が注がれるとしてもと述べたのです。
そうであっても、わたしは喜びますと言います。
喜びの源となるお方が、確かにおられると確信しているからです。
喜ぶことが出来なくとも、再び、喜ぶことが出来るのです。
復活の主が、わたしたちと共におられ、今日、教会創立記念のこの日、天にあるものも地にあるものも、再び、共に喜びます。