「神の国は来たのである」 ルカによる福音書11章14節~26節

「神の国はあなたがたのところに来たのだ。」

主イエス・キリストはそうおっしゃいました。

わたしたちの暮らしの中において、予測のできない大きなことがあります。

東日本大震災から12年が経とうとしています。

それまで何回か、地震はあったのですが、その時が来て、これほど大きなものが来るとは、と誰もが思ったのではないでしょうか。

その時のことを思い、その時の人と出会うと、今も涙が出て来るという方々がいることを覚え、主なる神の平安を、そして、霊と魂の慰めを心から祈ります。

この世にあって、せわしくもあって、多くのことを思い悩む、心を乱している、わたしたちに、今、主なる神が、命じられた通りにする神に従う無垢な人のように、生き延びるようにしなさい、と主は御言葉をお語りになられます。

神の御言葉はキリストを証します。

救い主を語っています。

この世にあって、世に属する者として、この世のことを語り、耳を傾けているのではありません。

この世にあって、キリストを語り、救い主を証しているのです。

神の御言葉は、今、生きておられるのです。

今日、わたしたちに与えられました神の御言葉、聖書は、新約聖書ルカによる福音書11章でありますが、その始まりは、救い主イエス・キリストが、祈るときはこう祈りなさいと言葉をお教えになられました。

ルカによる福音書では、

「父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

わたしたちの罪を赦してください。

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」

とあります。

父なる神に祈っておられた主イエスに、わたしたちにも祈りを教えてください、と言う弟子たちに、主イエスはお教えになられ、主の祈りとなりました。

この世にあって、救い主は、父なる神に祈ることをお伝えになられたのでありました。

そして、救い主イエス・キリストはこうおっしゃいました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」

父なる神は、神に求める者に良いものをお与えになる、と主イエスはおっしゃいます。

人が自分自身で制限をかける、というよりは、先に良いものが神によって用意されていると言えます。

神は、それを知っておられるのです。

そして、さらに父なる神は、求める者に聖なる霊、聖霊をお与えになる、と主イエスはおっしゃいました。

主イエスは、聖霊ではないものがあることを前提にお語りになっておられます。

勿論、この世のすべてがそうではありません。

あれが悪い、これが悪い、とすべて聖霊でないもののせいにしてしまうということでは決してありません。

主イエスの弟子の一人で、高齢まで生きてこの世で多くのことを経験したヨハネは、その手紙の中でこう述べています。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって、人となられて来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出た者です。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」

この世において、苦難を受けられ、十字架の死につかれた主イエスは、真の人となられたのですが、真の神であって、復活されたのです。

復活の力によって、死から命へと移ったのであります。

聖霊は、このことを知っています。

主イエスの弟子ヨハネも、自分が死から命へ移ったことを知っています、と述べています。

そこに働いているのは復活の力であり、その復活の力とは何かと言うと、それは愛なのです。神の愛によって、死から命へと移ったことを自分は知っていると言うのです。

しかしこの世は、この世に属する者は、そうでなかったのであります。

神は、その大いなる愛により、救い主により、人々を救おうとされます。

そして神は、求める者に聖霊をお与えになって、救い主イエス・キリストを証しされるのです。

そして、その救い主が、人々の間で働いておられるのです。

ルカによる福音書11章14節にはこうあります。

「イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。」

主イエスは、追い出していた、と云うのです。

そこにおられて、救い主として追い出されていたのです。

人々を救う、そのために悪霊を追い出しておられたのであります。

救い主であれば、受け入れられる、という姿を先ず思い描くことも出来るのですが、主イエスは、おられて、追い出されるのです。

それは、口を利けなくする悪霊でありました。

主イエスは、神の御言葉の権威より、祈り、悪霊に命じられて、出て行け、と悪霊を追放していたので、人々は驚いたのでありました。

まわりの人々は、口の利けない人が、ものを言い始めたので驚いたのです。

この世において、新しく生きた言葉を聞き、新しく生まれた出来事を見たので、人々は大変驚いたのでありました。

しかし、中にはこう言う人々がおりました。

「あの男は、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している。」

また、主イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者もいました。

主イエスは、救い主の権威をお持ちになっておられることを受け入れられない人々がいました。

この世の権威に属する者、また、それに関連する者たちでありました。

ですので、主イエスは、何の力で働いておられるのかが見えなくなってしまい、分からなくなってしまっていたのです。

ベルゼブルというのは、悪霊の頭と言われ、価値あるものを無価値にしてしまう者、道に外れている者と言うことが出来ます。

口を利けなくしてしまう悪霊がいたということから、言葉の価値を無価値にし、救いの道を外してしまう霊がいたということであります。

その悪霊の頭の力で、主イエスは悪霊を追い出しているのだ、と言う人がいたのです。

権威ある者として、その権威を実行するということだけを考えるのであれば、そのように言うことも出来るのでありますが、全く的を外してしまっています。

人々は何かしるしを求めます。

しるしを見て判断するのは、自分であるとの姿勢を崩すことなく、どこまでも変わることがなく、手放すことがありません。

しかし、主イエスは、彼らの心を見抜いておっしゃいます。

「内輪で争えば、どんな国も荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。サタンもまた内輪もめすれば、どうしてその国は立ち行けよう。というのも、あなたがたはわたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言っているからだ。」

自分自身に逆らって分かれ争うことになれば、どんな国も荒れ廃れるというのです。

また、家に逆らう家は倒れる、と主イエスはおっしゃいます。

分かれ争い、逆らうということは、自らを苦しめることになる、とおっしゃるのです。

主イエスは、聖霊と悪霊は違うということをお示しになっておられます。

悪霊は、人自らに苦しみを苦しむことのみをもたらしますが、聖霊は、愛と調和をもたらします。

一見、苦しいように見えることも、受け入れ、分入ってみると、愛と調和に満たされていることがあります。

聖霊が導かれるのです。

しかし悪霊には、どこまで行っても苦しみを苦しむことのみが残ります。

悪霊は、死から命へと移り、命を証しすることができないからであります。

「救い主イエスはおっしゃいます。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのであれば、あなたがたの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたがたを裁く者となる。」

主イエスは、人々が心の中で何を思っているのかをご存知であって、その人、その人に応じられるかのようにお答えになっておられます。

悪霊を追い出すのは、悪霊の頭ベルゼブルの力だと言うのならば、あなたたちの仲間にも悪霊を追い出す人がいるではありませんか、と主イエスはおっしゃるのです。

その人たちもそうではありませんか、とおっしゃるのです。

あなたがたの考えが正しいかどうか、その人たちに聞いてみたらどうでしょうか、と主イエスはおっしゃいます。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と主イエスはおっしゃいます。

主イエスは、神の指とおっしゃいます。

それは、神の力を表し、神の業を表しています。

神の指は、神の御言葉を石の板に、人の心の板に、刻むことが出来るのです。

その力と御業です。

神の力で悪霊を追い出す主イエスは、すでにもう、神の国があなたがたのところに来ているとおっしゃるのです。

主イエスがおっしゃられる、そこに神の国が来たと主イエスはおっしゃるのです。

救い主の力、神の力が働いたからです。

わたしたちは、主なる神の指の業を仰ぎます。

そして、主イエスは続けておっしゃいました。

「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物、財産は、安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を奪い、分捕り品を分配し、分け合う。」

主イエスは、捕らわれた人々を取り返され、暴君から救い出されることを語りになられます。

主が、あなたと争う者と争い、主が、あなたたちを救う、とおっしゃるのです。

そのために主イエスは、苦しみを受けになられ、自らをなげうち、十字架の死につかれ、罪人の一人に数えられますが、復活されるのです。

多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人、主イエス・キリストであったのです。

「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は、散らしている。」主イエスは、共に集める者をお求めになっておられます。

それは、争い合うことではなく、愛すること、赦すことであり、主の祈りに生きることであるのです。

集めない者となるのではなく、散らす者となるのでもなく、共に集め、共に生きることをお語りになられます。

しかし、汚れた霊は、と主イエスはお語りになります。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが見つからない。それで、『出てきた我が家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

主イエスは、悪霊の存在に注意を促しておられます。

そして、聖霊をお与えになられる父なる神に、求め、探し、門を叩くように、勧めておられるのです。

良いものをお与えなられる父なる神は、そこにおられます。

神の国は来ているからです。

世界も、生も、死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切は、わたしたち人を救うものであり、わたしたちは、キリストのものであり、キリストは神のものです。

神の国は来たのです。

この世にあって、キリストが、わたしたちを救い出され、わたしたちの中に、神の国、神のご支配が始まったのです。

主が、神の指で悪霊を追い出され、神の国は、わたしたちのところに来たのです。