「イエスのために」 ルカによる福音書9章21節~27節

「わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と、主イエス・キリストはおっしゃいました。

去りゆく季節をわたしたちは送っています。

冬が去り、寒さが行き、サナギが羽化して蝶となって羽ばたく時を迎えようとしています。

その時が来るのです。

わたしどもの救い主イエス・キリストも、時が来ることに、やって来ることに、従っておられました。

主イエスは、町や村を巡って、神の国を宣べ伝えておられました。

主イエスご自身が、父なる神よりこの世に遣わされたお方として、神のご支配される神の国、その愛と赦しの及ぶ神の国がどのようなものであるのかを、主イエスはご存知でありました。

この世を救うため、この世の人々の救いのために遣わされた主イエスは、神の国を宣べ伝えられました。

そして、その良い知らせは、多くの人々に向けられているのでありますが、それと同時に、一人の人に向かって、救い主イエスは来られて、お語りになっておられると言えます。

主イエスは、ある安息日、会堂でこのようにお語りになられたことがありました。

それは旧約聖書に記されていることでした。

「エリヤの時代に三年六ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

それは、神の恵みが一人の人、そして、一人ひとりに向けられ、もたらされたということが出来ます。

そして、その大きな恵みを一人ひとりが受け入れたということであります。

それは思いもよらぬ形でもたらされたということですが、一人の人が考えていた範囲を、違うところから、大きく超えたまなざしが向けられていたということです。

一人の人に向かって、神の恵みのまなざしが向けられていることに気づき、知った人は、ときを与えられ、癒されたのでありました。

主イエスは、父なる神の御心を人々の間でお語りになり、お伝えになられて、閉ざされた扉を開いて行こうとされました。

しかし、その主イエスのお語りなられること、行われることに、ひどく腹を立てる人々がいました。

主イエスを町から追い出し、崖から突き落とそうとする者たちまで現れました。

当時ユダヤの領主であったヘロデは、それらの出来事をすべて聞いて、とまどっていました。

ユダヤの地を支配しているこの人物は、主イエスについてさまざまな情報を得ていました。その中には、「あの洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人や、「預言者エリヤが現れたのだ」と言う人、また、「昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいました。

それは、人々の間から生じる噂と言えるものでありましたが、主イエスに対して人々はそのように見ていたということでありました。

そして、時の権力者、ユダヤの領主ヘロデも、主イエスとはいったい何者だろうと、会ってみたいと思っていたのでありました。

主イエスは、一人ひとりの心に働いて、そのまなざしを一人ひとりに向けておられます。

それは、直接相対して、対面していないとしても、主イエスは働きかけておられるのです。

そして、何者であるのかを問われておられるのです。

主イエスは、またあるとき、弟子たちにおっしゃいました。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

そこは人里離れた所、五千人もの人々がいたのでありました。

しかし、弟子たちにはパン五つと魚が二匹。

主イエスは、それらのパンと魚を手にお取りになられて、天を仰いで賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちにお渡しになられました。

それを弟子たちは、群衆に一人ひとり配ったのでありました。

わずかなものを、今あるものを、主イエスは神の恵みとして分かち合われて、皆が満たされたという時がありました。

神の恵みの大きさに、皆の心が湧き上がるような出来事があった後、主イエスの弟子ペトロは、人々が主イエスに対していろいろなことを言っている中、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とおっしゃる主イエスに言いました。

「神からのメシアです。」

ペトロは答えました。

主イエスは、神からの救い主だ、と答えたのでありました。

それは、主イエスが町や村で行なっておられること、病を癒し、悪霊を追い出し、神の国を宣べ伝えている、そして、奇跡と言われる出来事に思いがけなく出会う、主イエスとご一緒する中で、湧き上がってきた言葉でありました。

外からやってきた神の御言葉が、主イエスの弟子の一人ペトロの中から、主イエスは神からのメシア、という言葉となって出て来たのであります。

主イエスは救い主である、そのことはどんなに大きな喜びであったことでしょう。

人々は、かつての「あのような人」「このような人」の再来だと言っている。

それは、人々の思い描く範囲を超えることのない人物像でありました。

しかし、この世にあって、人を超えて、人々を救うお方が、今、目の前におられるという大きな喜びであります。

新たな世界の入口に立っているかのような、喜びであり、そのことに気づいたのが一人だけではないという喜びであり、このお方がここにおられることでどれほど強くなれたことかという大きな喜びであります。

主イエスは、かつてのある人のようであり、預言者のようでありますが、何よりも、救い主であるのです。

この救い主が来られた喜びに、溢れたのであります。

このお方は今も変わりません。

そして、今日の聖書、ルカによる福音書9章21節、22節にはこうあります。

「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人この子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」

主イエスは、「このこと」をだれにも話さないように命じられたのでした。

「このこと」とは、神からのメシア、すなわち、神からの救い主だということです。

主イエスは、救い主だということをだれにも話さないように、沈黙するようにと、お命じになられます。

しかも、それを戒められて、命じられたのだ、というのです。

そして、主イエスは、こうならなければならない、こうなることになっている、と語りになられます。

神の救い主であるのにもかかわらず、多くの苦しみを受けられ、排斥され、殺されてしまうとおっしゃるのです。

当時の宗教的政治的指導者たち、長老、祭司長、律法学者たち、と主イエスはおっしゃいますが、彼らはユダヤの最高法院、その構成員でありました。

そのような立場の者たちの力によって、主イエスは、十字架刑にかけられてしまいます。

それは、主イエスに対する激しい妬みと憎しみにからめ捕らえられた者たちによってでありました。

神からの救い主を、彼らは恐れ、退け、排斥したのでありました。

しかし、十字架の死より主イエスは復活させられます。

三日目にというのは、当日を一日目とする数え方で、三日目、すなわち、金曜日、土曜日、そして、日曜日に、ということです。

主イエスは、そうなっている、ねばならない、どうしたって必ずそうなると決まっている、それ以外にはありえない、とおっしゃっておられます。

それは、父なる神の愛と赦しによるものであるからです。

神から離れ、背き、外れてしまっている、その罪を必ずお赦しになられるということ、十字架の死につくことにより、そして、復活することにより、罪と滅びは拭い去られ、人は神と生きるようになる、その道を主イエスは救い主として備えられたのです。

主イエスは、父なる神のなされることに、忠実であられて、人々の罪を償うために、人として、人と同じように、十字架におかかりになられたのです。

試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。

神のみ前に、十字架の光を主イエスは輝かされたのであります。

突然に会えなくなる。

明日から会えなくなる。

望んでも会えなくなる。

そのような大きな哀しみの出来事があっても、なお、十字架は輝いているのであります。

復活することになっている、死より復活させられねばならない、とおっしゃるのです。

そして主イエスは、弟子たちと多くの人々にお語りになられました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

神からの救い主イエスが、「わたしについて来たい者きは」と呼びかけておられます。

神からの救い主であるのにもかかわらず、苦しみを受けられ、十字架の死におつきになられる、しかし、その後、復活させられねばならない、とおっしゃる。

このお方に従う者は、主イエスと同行する者は、とおっしゃるのです。

神のご計画で避けようがなく定まっている、必ずそうなる、それ以外にありえない道を共に歩む者は、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいます。

その信じて従う歩みは、復活へと続いています。

「自分を捨て」とは、場所を開け、受け入れることです。

救い主イエス・キリストを信じ、受け入れることであります。

このお方には、復活させられねばならないという必然性があります。

そして、日々、自分の十字架を背負うとは、日々、死んで生きること。

そして、朽ちないものに復活し、力強いものに復活し、輝かしいものに復活する、その道を歩むこと、主イエスと同行し、共に歩むことであります。

主イエスはおっしゃいます。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

主イエスとガリラヤ地方を、そして、エルサレムへと共に歩んでいた多くの人々がいましたが、ある時、多くの者たちが主イエスのもとから離れ去り、もはや主イエスと共に歩まなくなります。

そこで、主イエスは、十二人の弟子たちにおっしゃいました。

「あなたがたも離れていきたいか。」

主イエスは、最初から信じない者たちがだれであるか、また、ご自分を裏切る者がだれであるかをご存知であられました。

その上で、自分の命を救いたいと思う者、そして、わたしのために命を失う者、とおっしゃったのでした。

そして、主イエスはおっしゃいます。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があるだろうか。」

全世界とは、富と言えますが、その全世界をもし得ても、自らを滅ぼしたり、失ったりして、どのように人は利益を受けるのか、とおっしゃるのです。

キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさは、他の一切のものを損失と見るほどであります。

キリスト・イエスを得ること、キリスト・イエスのうちにいる者と神に認められることは、わたしたち人の大きな喜びです。

主イエスはおっしゃいます。

「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちと栄光に輝いてくるときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

主イエスの御言葉は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。

神の力が、わたしたちの内に及んでいるのです。

救い主に慰められ、勇気を得て、そうであるのにもかかわらずという自分の十字架を背負って、主イエスと共に歩むのであります。

自分一人ではありません。

主イエスと同行するのです。

やがて、主イエス・キリストは、父なる神と聖霊と天使たちとの栄光に輝いて来られるとき、主の御言葉を聴き、よく聴いてとどめた者たちを主のみもとに引き寄せられます。

味わい見るのです。

主の恵み深さを。

主を畏れる者には何も欠けることがないのです。

主に従う人には災いが重なることがあるかもしれませんが、主はそのすべてから救い出してくださり、損なわれることのないように守ってくださるのです。

主が、わたしたちを負われ、担ってくださったのです。

わたしたちは、生まれた時から背負われ、母の胎を出た時から担われて来たのです。

同じように、主は、わたしたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行かれます。

主は、わたしたちを担い、背負い、救い出してくださいます。

主イエス・キリストのために命を失う者は、救い主イエス・キリストによって、それを、すなわち、本来の命を救うのであります。