2020年4月19日主日礼拝説教

「幸いはどこに」 ヨハネによる福音書20章24節~31節

 

「見ないのに信じる人は、幸いである。」

復活の主イエス・キリストは、そうお語りになりました。

イースターを迎え、教会暦では復活節を歩むこの日、また昨日ひとときの強い雨の後の主の日、昨年の台風や大雨の影響により、被害のあった地域の方々の生活、暮らしの、再建に励んでおられる方々を思い起こし、今、対策に取り組んでいます疫病の目に見えないものへの不安と恐れをも、わたしたちは受け止めています。

そして、どうにかそれを受け止めつつも、この先が「わからない」ということへの不確かさに戸惑いと憂慮を覚えて、ただ佇んでしまうということがあるかもしれません。「立ち止まる」ということが、時にあるのかもしれません。それは、文字通り、しばらくその場に「立っている」ということもありますし、また、字引きによると「佇む」という言葉には「立っている」ということと、「さまよう」という意味が記されています。人の目から見れば、立ち止まっているようであっても、その心は「さまよっている」ということもあるのです。

ある大きな出来事を前に、わたしたちは、ただ佇まざるを得ないことがあるように、今日、わたしたちのもとに届けられました聖書は、ある大きな出来事、人生を全く変えてしまう意外とも言える「出会い」を語っています。

本日の聖書は、新約聖書のヨハネによる福音書20章24節から31節、新共同訳聖書では、「イエスとトマス」そして「本書の目的」と小見出しが付けられています。

その24節にはこのようにあります。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。

父なる神から遣わされた。主イエス・キリストは、人々の罪の赦しのため、この世を歩まれました。罪とは、神から離れてしまっていること、背いてしまっていること、また道から外れてしまっていること、でもありますが、罪とは、神の愛と調和から離れ、背き、外れてしまっていること、と言えます。

主イエスは、そのことのために人々と触れることを試みられます。町や村を巡り、また会堂においても、直接、人に手を置かれて癒され、祝福されたということもございましたが、おもに言葉を通して、主イエスは人々に触れられたのでありました。

しかし、ある人々は、その主イエスの言葉に触れ、激しい憎しみを覚え、「やっつけたい」という思いを表します。それは、新約聖書の福音書において、紀元一世紀当時ユダヤの宗教的指導者たちでありましたが、彼らは人の持つ頑なさという重く固い妬みを表したのでありました。人々の主に対する憎しみ、深い抵抗の思い、そして、妬みにより、主イエスは苦しみを受け、十字架につけられました。その痛ましい凄惨な死、その後、ご遺体は十字架から降ろされ、主イエスを愛する人々の手により、布に包まれ、墓に納められますが、日曜日の朝、主は復活されます。

そして、「わたしは主を見ました」という言葉が、人から人へ伝えられて行きます。

主に触れた者たちの冷たくなってしまっていたはずの心に、火がともりました。主に触れた者たちは、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」のであります。

「わたしは主を見ました」という声は、人から人へと伝えられて行きます。

しかし、それを受けた主イエスの弟子たちは、恐れと不安の中、家の戸に鍵をかけてその中にいたのでありますが、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃる復活の主イエスに出会います。また、それは「出会う」というよりは、主イエス・キリストがそこに入って来られ、現れ、「おはよう」「こんにちは」とおっしゃって、人に触れてくださったのであります。

そして、今日の聖書箇所のすぐ前、ヨハネによる福音書20章23節「誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と主イエスはおっしゃいました。主イエスが触れられ、主イエスに触れた人々が、そこにいて、主は、罪の赦しを語られました。

人々の心には「我らに罪をおかす者を、我らがゆるす如く、我らの罪をも赦したまえ」との炎が燃え始め、その炎が点りました。

しかし、その時、すでに一人の弟子がその場にいなかったのであります。裏切ることの「しるし」としてパンを受け取り、すぐに出て行ったイスカリオテのユダはいませんでした。しかし、今日のヨハネによる福音書は、主イエスの弟子十二人に、そのユダを含んで数えています。

そして、その十二人の弟子の一人、ディディモと呼ばれるトマスがいましたが、弟子たちのいる家に、復活された主イエスが現れたとき、トマスはその場にいなかったのであります。

トマスは、主イエスの弟子であったのでありますが、その場所にいなかった。

そこで、ヨハネによる福音書20章25節「ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」。

トマスは、復活の主が弟子たちのいた家に現れた時、何故その家にいなかったのかよく分かりません。どこかをさまよっていたのでしょうか。主イエスを捕らえた人々が襲ってくるその不安と恐れのため、戸に鍵をかけて、その家の中に入ることに、何か抵抗を感じていたのでしょうか・・・。

かつて、ベタニアの村でマリアとマルタ、その兄弟ラザロが死に至る病気のとき、主イエスはラザロのもとに「行く」とおっしゃいました。すると、トマスは仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。そしてまた、かつて主イエスが弟子たちに、「わたしがどこへ行くのかその道をあなたがたは知っている。」とおっしゃると、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。

トマトは、その時どきに、非常に勇ましくあったり、そうではなかったりと、その「人らしさ」というものを表しています。

そしてまた、ほかの弟子たちが、死からよみがえった、復活の「主を見た」と言っても、トマスは信じなかったのでありました。

そのようなことが八日間続きました。26節「さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。

前に、復活の主イエスが現れたたとき、ほかの弟子たちと一緒にトマスはいなかったのです。

そして、しばらくの間、トマスの心は不確かで落ち着くことのない、さらに、その思いは、声にならなくても深い嘆きと呻きによって、一杯いっぱいになっていたのではないでしょうか。

そこに、主イエス・キリストが入って来られます。熱意をもって触れようとお思いになられ、入って来られるのです。

八日後、それは、一週間後の週の初めの日。復活の主イエス・キリストは、「あなたがたに平和があるように」といつものように挨拶され、入って来られ、皆の、また、わたしたちの真ん中にお立ちになられるのです。

それから27節「トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」。

復活された主イエスは、トマスの目の前に現れ、お立ちになる前に、トマスの言っていたことをお聞きになっておられました。「こうしてみなければ信じない」とほかの弟子たちに言うトマスに、「そうしてみなさい」と主イエスはおっしゃったのであります。

主は家の中にいるトマスにおっしゃったのです。「あなたの言ってるようにしてみなさい」そして「信じないものではなく、信じる者になりなさい」。

この福音書を記したと云われるヨハネは、ヨハネの手紙一1章1節でこう述べました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について」。

トマスは、「初めからあったもの」に出会ったのです。トマスが触れてみなければ信じないと言っていたのにもかかわらず、「初めからあったお方」が現れ、入って来てくださり、目の前にお立ちくださっていることに、トマスは言葉に言い尽くせない、すばらしいよろこびに満ち溢れたのです。

それは、もはや、人と人とが再会するよろこびをはるかに超えた「初めからあった」大きなよろこびです。

トマスは、魂の救いを目の前に受けたのであります。この救いは、キリスト・イエスの恵みでありそのよろこびはあまりにも大きく、トマスは答えて、28節「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。

「初めからあったお方」を古代の詩人は、詩編63編2節から4節でこう歌いました。
「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂は、あなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、渇ききった大地のように衰え、水の内地のように渇き果てています。今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にまさる恵み。」

自分の考えていた命をはるかに超えて大きな命に出会い、立ち返り、命の言(ことば)を聴き、すばらしいよろこびに満たされたのです。

新約聖書にある四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネで、「主イエス」を「わたしの神よ」と告白しているのは、このヨハネによる福音書20章28節の主イエスがトマスに現れた一つの場面のみです。ここにすべての福音書の大きなよろこびの、いただき、頂点があります。

イエスはトマスに言われた。29節「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

復活の主イエスは、「見ないのに信じる人は幸い」とお語りになります。

その「幸い」は、初めからおられるお方に返ることであり、このお方の愛と赦しに返ることであり、重く固い罪にひどく圧迫され、生きる望みさえ失い、また不安と恐れにとりつかれることがあっても、トマスと弟子たちが家にいたように、その場で解放され、その場で自由にされる大きなよろこびであります。

そして、ヨハネによ福音書は語ります。30節31節「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが、書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により、命を受けるためである」。

これがわたしたちの命の言(ことば)であり、今、すべての壁を破り、言葉に言い表せないよろこびをお与えになる、主イエス・キリストによる大いなる幸いです。

あなたの、また、わたしたちの救い主はおっしゃいます。

「見ないのに信じる人は、幸いである」。

 

「むさし小山教会」にご来会くださり、ありがとうございます。

ご健康が守られますように、神様の恵みと平安をお祈りいたします。