「主イエスにおいて」 テサロニケの信徒への手紙一5章12節~28節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

これは、新約聖書に登場するパウロという人物が書き記した手紙にある言葉です。

そしてこの言葉は、わたしたちむさし小山教会、教会付属アライアンス幼稚園の月毎の暗唱聖句の一つでもあります。

聖句というのは、聖書の中の言葉ということですが、これは神さまの言葉だということです。

パウロという人もこれこそが神さまのお望みになっていることだ、と書き記したのであります。

新しい年を迎え、2022年の歩みを、思いも新たに始めておられる方々もおられることと思います。

そして、人生の節目と言われるような時を、目の前にしておられる方々もおられるとお察しいたします。

竹の木の節目、節目は成長とともに増えて行きますが、その節目は竹が大きくなることとそのしなやかさと強さを増すのに必要であると言えます。

楽しいことばかりではなく、辛く、苦しいこともやって来ることがあるかもしれません。

その時は、この節目が大きな支えになることもあるのではないでしょうか。

その人生の節目は、年齢によって定められることもありますが、そうでないこともあります。

何かがある時おきてということ、そしてまた、何がおきたのかはよくわからなかったけれど振り返ってみると、あの時が節目であったのかもしれないな、と思えるようなことがあるかもしれません。

数字では表すことのできない質的な変化というのが、わたしたちの人生にはあるのではないでしょうか。

教会では、毎週日曜日に礼拝をおささげしています。

「ささげる」というのは、わたしたちの持っているものを慎みの心を持って差し出すということを表しています。

そしてそれは、目に見える物質的なものだけではなく、「時間」や「心」をということをも意味しています。

あるいは礼拝を守ると教会では言うことがあります。

キリスト教会が日曜日に礼拝を「守る」のは、それが大切な意味を持っているからです。

そしてそれは、日曜日は平日ではなく休日だからということではありません。

イエスさまがよみがえった日だからです。

死からよみがえられた、これを復活と言います。

時どき、何かが勢いが無くなって低迷してよくない状態から抜け出せなくなってしまうことがあるかもしれませんが、そのような状態から再び勢いが回復して元気になって「復活した」と言うことがあります。

それはそれでとてもよいことではありますが、イエスさまがよみがえられたという復活は少し違います。

イエスさまが復活されたのは、神さまの愛が現されたということでした。

教会が日曜日に礼拝を守っているのは、神さまの愛が現された日だからです。

そのことを思い起こすためです。

そしてさらに、イエスさまは復活されたので、目には見えないけれど今も生きておられるということです。

わたしたちはこれを日々、日常生活を送る人生の節目にしているのです。

今も生きておられるイエスさま、主イエス・キリストと共にいるということをとても大切にしているのです。

そして今日、わたしたちに与えられている聖書、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一を書き記したパウロという人物も、この主イエス・キリストと共にあることをとても大きな喜びとしていました。

その喜びの大きさは、パウロの人生を大きく変えて行きました。

時には激しく、時には静かに、この人の人生は変えられて行くこととなったのです。

もともとパウロという人は、イエスさまに反対している人でありまた。

イエスさまを信じている人たちを迫害していた人でもありました。

妬みのためでしょうか、憎しみでしょうか、パウロという人は自分の正しさを強く主張し、イエスさまを信じるキリスト者をだれかれかまわず捕らえてしまう、そのような指導者でもあったのです。

しかし彼は、紀元一世紀当時、ユダヤで正しい人物であったかもしれませんが、大切なことから外れてしまっていました。

愛から外れていたのです。

神さまの愛から外れてしまっている。

矢が的を外してしまっているように、離れてしまっている、失ってしまっていたのです。

神さまの愛を、その的を外してしまっている状態を、聖書では罪と呼んでいますが、その罪のために神さまの愛から離れ、遠ざかり、慈しむ、ということを失ってしまったのでありました。

その心は激しく燃えていたようでありますがどこか冷たいのです。

他人に、そして自分自身に対しても、その凍てつく冷たさから逃れようとしていたのかもしれません。

自分自身の正しさを追求すればするほど、何かが違うという重い思いから逃れようとしていたのかもしれません。

このままでは失ってしまう、自分自身を失ってしまう、破滅してしまう、とさえ思える黒い闇が心に迫っていたのかもしれません。

その心の内にある恐怖が、彼を駆り立てていたのかもしれません。

紀元一世紀当時、ユダヤの指導者たちも、イエスさまに対する妬みと憎しみにより、ついに主イエス・キリストを十字架の死につけてしまいます。

イエスさまは、神さまから遣わされた救い主であるのにもかかわらず、わたしたちはまだ離れていたい、つまり、的を外したままでいたい、という状態でいることを人々は望んでいたのです。

神さまの目から見るとそれは失われた状態でありました。

しかし人々は、自分たちの持っている恐れと不安がどこから来るのかを知ってか知らずか、突き進んで行き、救い主イエスさまを苦しめ、十字架の死につけてしまったのでありました。

パウロという人もそのことに賛成をしていたのでありました。

しかしです。それにもかかわらず、十字架にかけられたイエスさまは復活されました。

日曜日に復活されたイエスさまは、親しい者たちに現れました。

わたしたち人と人とが再会するかのように、イエスさまはその弟子たちに現れたのです。

そして「平和があるように、心安らかであるように」とおっしゃったのです。

そしてこの復活されたイエスさまは、パウロにも現れたのです。

死から復活されたイエスさまは「なぜわたしを迫害するのか」とパウロに呼びかけられたのです。

パウロはそこで光に打たれ、目が見えなくなってしまいましたが、イエスさまによってもと通り見えるようになりました。

そして月日を経て、イエスさまは待ち望んでいた救い主であることを皆に伝え始めたのでした。

初めは、まわりの人々は、パウロを恐れ怪しみましたが、パウロは与えられたことを伝えて行きました。

彼の歩みは、人から教えられたようにというよりは、神さまから教えられ、イエスさまに導かれるようにして進んで行きました。

あるところでは、激しい反対にも遭い、命からがら逃れることもありました。

それでも神さまの愛は離れることはありませんでした。

パウロを助け出されるのであります。

彼はイエスさまが救い主であることを人々に宣べ伝え、苦労し、苦悩し、教会をつくり立て上げて行きました。

失敗し、心折れることもたくさんあって、問題も山積みになっていました。

心に体に衝撃を受け、動揺することもしばしばありました。

そしてまた、出会いがあり、別れもありました。

得ることも失うこともあったのです。

ありとあらゆることをパウロは経験して行きました。

どれも復活された主イエス・キリストが、パウロに呼びかけることがなければ無かったこともありました。

しかし、パウロは喜びに満ちていました。

イエスさまが共におられる、人生のどの道を進む時にも、海の上を行く時も、眠っている時も、起きている時も、いつ、どこにおいても、イエスさまが共におられて、神さまの愛から離れることがないことをパウロは知ったのです。

そしてそのことをパウロは人々に伝えて行ったのです。

紀元一世紀、パウロは地中海周辺の各地域に教会をつくって行きましたが、マケドニア州のテサロニケという港町にも教会ができました。

テサロニケは商業、貿易の栄えた町でもありました。

パウロはテサロニケの教会から遠く離れていましたが、さまざまな問題を聞き、それに応えたのが今日のテサロニケの信徒への手紙一です。

そして人々が目覚めていても眠っていても、主イエス・キリストと共に生きるようにパウロは勧め、励まして、この手紙の結びの言葉を書き記しました。

それがテサロニケの信徒への手紙15章12節以下です。

12節、13節にはこうあります。「兄弟たちあなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」

パウロは人々に勧めているのです。

それは、どのような人の心にも慰めと励ましが与えられるように、「敬う」ということを大切にしなさいということです。

何か問題があったらこのことに気を止めてみなさいということでもあります。

主なる神さまに結ばれた者として、神さまがわたしたちを愛してくださったように「敬う」ということが、平和、平安へとわたしたちを導きます。

愛とゆるしをもって、安らかな、穏やかな、心でいるように。

そのためにいくつかのことをパウロは述べています。

14節、15節「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」

特にパウロは、「悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」と気をつける点を上げています。

悪の連鎖に陥らないように、気をつける点はここです、と言うのです。

そして神さまが、イエスさまが、あなたに望んでおられることはこれです、とパウロは述べます。

16節から18節「いつも喜んでいない。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」

パウロを動かし、パウロが生きていたのはこのことであり、わたしたちを動かし、わたしたちが生きるのは、このことと言うことができます。

喜び、祈り、感謝する、ということです。

そしてそれは、自然とそのような思いが生じるのを待っているのではなく、いつも、絶えず、どんなことにも、であるのです。

先に喜び、先に祈り、先に感謝する、ということです。

予めそうするということです。

もうすでにそうであると、予めそうするのです。

未来から喜びを受け取るのです。

そしてそれを支えるために19節から22節でパウロは言います。「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

“霊”の火とは、聖なる霊のことですが、聖なるものを見分け、吟味して、悪いものを遠ざけ、良いものを大事にすることが喜びへとつながっています。

神さまの望んでおられることと、つながりあって合って来るからです。

しかしそれは、自分自身がそうしているというよりは、神さまがそうしてくださるとパウロは言うのです。

ですから、23節、24節「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたをまったく聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなた方をお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。」

神さまご自身があなたをお守りになられると言うのです。

救い主イエス・キリストによって、そして、わたしたちを招いてくださったお方は、真実であり、必ずそうしてくださると述べ、25節から28節で、敬愛する人々に向けた手紙をパウロは結びます。

「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに聖なる口づけによって挨拶しなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしたちは主によって強く命じます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。」

イエスさまの恵みがここにある、そのことを思い起こすように、喜び、祈り、感謝する、ことを見出すことができるように。

そしてそれは、いつも、絶えず、どんなことにも、イエスさまが共におられることを見出すことであり、すでに、ここに実現しているのです。

イエスさまのお名前によって、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

すべての人に神さまの御言葉という花束をお贈りし、神さまに礼拝をおささげいたします。