2020年4月5日礼拝説教

「祝福があるように」マタイによる福音書21章1節~11節

「主の名によって来られる方に、祝福があるように。」

今日(4月5日)、教会の暦では、イースター(復活祭)の前の日曜日、棕梠の主日を迎え、この日から受難週に入りました。「聖なる週」と呼ばれる一週間の始まりです。

現在、世界中で疫病が広がりその不安と恐れの対応が続いています。この混沌として予断を許さない事態は、どこまで続くのかも、また何回波がやってくるのかもわからず、わたしたちは、また、実に多くの人々が、胸を痛めています。そのような中、今日わたしたちに与えられました聖書は、主イエス・キリストが、弟子たちと旅をし、エルサレムにやって来たという場面を語っています。

今日の聖書箇所、新共同訳聖書では、「エルサレムに迎えられる」と小見出しのついたところは 四つの福音書に記され、主イエス・キリストのこの地上でのご生涯において、重要な時点を語っているのであります。マタイによる福音書21章1節には、こう福音書記者が述べています。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来た時、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。主イエスは、この時、連れ立った人々、同行者たちと移動をしたのでありました。

同じ空気、同じ陽の光、同じ風に吹かれ、そのようにして同じ道を歩んできた人々。それは、主イエスの弟子たちでありました。エルサレムから遠く離れたあのガリラヤ湖の周辺、マタイが収税所に座っていたカファルナウムの町を始め、ガリラヤ地方で主イエスが町や村をめぐり宣教活動を行われたその地方から、一緒に彼らは進んで来たのでありました。その途上、いろいろな人々と出会ったことでありましょう。また、様々なことを語り合ったことでありましょう。そして、人々の生きるその場所、その環境、そして、その中でどのようなことを感じ、どのように思っているのかにも触れて来たのではないでしょうか。人々の年齢、性別、生育歴など、それぞれに違う数字では表せない、顔、声、そして人生に、彼らは出会って来たのではないでしょうか。

それらの道を通り、主イエスの一行は、エルサレム近くにやって来たのでありました オリーブ山というのはエルサレムの東にある南北に4 km ほど伸びた山脈で3ないし4つの標高800 m前後の山からなっていると言われます。エルサレムから約1㎞ほどの距離で比較的近くにこのオリーブ山はありました。

旧約聖書のゼカリヤ書では、終末の時、メシアがオリーブ山に立つと預言され、ゼカリヤ書 14章4節には、「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山に立たれる。 オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。」とあって、このゼカリヤ書の預言の終わり14章21節の最後には、「その日には万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる」と述べられ閉じています。そしてそれは、マタイによる福音書、今日の聖書箇所の次の箇所で、主イエスが「神殿から商人を追い出す」ということにつながっています。

マタイによる福音書 21章1節で、主イエスはエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲという所に行きます。この村は主イエスが通られたエリコの町からエルサレムに至る街道沿いにあり、オリーブ山の南、エルサレムの東に位置しておりました。ベトファゲという村に来た時、主イエスは準備を始めるのであります。ある出来事の前に、その必要なものや体制を前もって整える段階でありますが、主イエスはその準備を始められます。二人の弟子を使いに出そうとしておっしゃいました。

マタイによる福音書21章2節、3節「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」。主イエスは一緒に歩んできた弟子たちのうち二人の弟子を準備のために使いに出します。主イエスが、キリストであること、救い主であることを、現されるそのことに向かって整えて行こうとされるのです。

主イエスのおっしゃる「向こうの村」というのは、ベトファゲの側から見ると、それはベタニアの村でありました。ベタニアはエルサレムの南東約3㎞。オリーブ山の麓にある村でありました。この村には、あのラザロとその姉妹マルタとマリアが住んでおり、主イエスはこのベタニアの村をよく訪れていました。そして、これから始まる主イエスのこの地上での一週間、十字架の死にかけられるまでの一週間の間も、主イエスはこのベタニアの村からエルサレムへ通われたと云われます。

ベタニアの村は、主イエスにとって、深く心に残る「思い出の村」と言ってよいかもしれません。ある時、マルタが主イエスと弟子たち一行のお世話ともてなしのために心配をして、「マリアに手伝ってくれるよう言ってください」と主イエスに訴えたところ、主イエスは主のみことばに心を傾け聞いていた「マリアは良い方を選んだ」とおっしゃったベタニアの村。

死んだラザロを主イエスがよみがえらせた奇跡のべたベタニアの村。

一人の女性がナルドの香油を主イエスに注ぎ献げた出来事など、主イエスとベタニアの村は、愛とゆるしの香りによって深く結ばれていました。

そして、今この時もわたしたちの世界に起きている疫病の大きな災いの中で対処し対応していることにおいてもどうか愛をもってすべてのことがなされていくように、と祈り願うのであります。

主イエスがベタニアの村に、愛する人々のいる村に行って、すでにいるつながれた子ろばを見つけ、ほどき、誰かが何かを言ったら、「主がお入り用なのです」と伝えるのです。
主イエスはキリストとして、救い主として「主がお入り用なのです」と伝えなさいとおっしゃいます。そしてそれは、小さな子ろばであり、強く立派な馬ではありません。しかし、重荷を負うことのできる「柔和な」存在であります。大きくはありません。早く走ることもありません。しかし、屈することがありません。その子ろばを「主はお入り用なのです」。

そして、マタイによる福音書は、このように語ります。4節、5節「それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」 そこで預言者というのは、ここで「預言者」というのは旧約聖書のイザヤ書とゼカリヤ書です。

イザヤ書62章11節には、「娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」とあります。「娘シオン』とは、擬人化されていますが、神によって永遠に祝福された世界を表しています。そして、主なる神の救いが進んで来て、その主の働きの多くの実り、愛とゆるしの実りが進んでやって来るというのです。

そして、ゼカリヤ書9章9節というところにはこうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられたもの高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」

勝利を与えられた者は、軍馬ではなく、ろばに乗ってやって来ると言うのであります。

マタイによる福音書は、このようにかつて預言者を通して告げられた神のみ言葉は生きて働き、主イエス・キリストに現れたと語ります。そして、今、主イエスのみ名により、このみ言葉を聴くわたしたちにも実現したことであるのです。

マタイによる福音書21章6節、7節でした。「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」。人々の罪のゆるしと救いのため、苦難を受けられ、十字架の死に向かって行かれる主イエス・キリストは、圧迫されても倒れない、倒れたとしても立ち上がり起き上がる、したたかな強さを持つろばにお乗りになって、ご自分は何者であるのかを現すための一つの準備を整えられます。子ろばの上には服がかけられ、その上に主イエスはお乗りになられ、

8節「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、他の人々は木の枝を切って道に敷いた」。「服を敷いた」というのは、このお方は王であるということを表す行為のひとつでありました。そしてまた、木の枝、棕梠の枝を切って道に敷くことによって、このお方は王であるという人々の思いを表しています。大勢の群衆は、この時、主イエスが弟子たち一行とガリラヤから始まり行って来たことを知っていたのでありました。そこには称賛があり賛美がありました。握手も手拍子もわき起こっていたことでしょう。

そして9節「群衆は、イエスの前を行くものも後に従うものも叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。

この群集が、一週間と経たないうちに、主イエスを十字架につけろと叫び出すことになりますが、この時、群衆が叫んでいた言葉は「ダビデの子にホサナ」。その「ホサナ」は「今、救ってください」という意味です。主イエスをほめ称えて歓迎していると共に、今、わたしたちを救ってくださいという叫びでもあります。

そのような多くの大きな声の中、10節「イエスがエルサレムに入ると、都中のものが『いったいこれはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」。

このお方は王であるという思い、そして、神のみ言葉を告知する預言者であるというのです。そしてこのお方に感謝し、ほめたたえるのです。

「祝福があるように」それは今、闇に包まれ、暗黒が国々を覆うような時にも、このお方によって祝福があるように。祝福とは、「変化」です。悲しみから喜びへ、そして、すべてのことが愛とゆるしへと変化していくように。すべてのことを受け入れられた救い主イエス・ キリストにより、王の王、主の主であるお方の祝福があなたにありますように。

 

「むさし小山教会」にご来会くださり、ありがとうございます。

ご健康が守られますように、神様の恵みと平安をお祈りいたします。