2020年4月12日イースター礼拝説教

「主の復活」 マタイによる福音書28章1節~10節

「イエスは言われた。恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

今日、このイースターの日、わたしたちに主イエス・キリストはお語りになっておられます。

現在、わたしたちの社会は、感染症拡大の防止のため様々な対策をとっています。そして、今年のイースター礼拝は、その対策の真っ直中におささげすることとなりました。このことは、何かの意味が問われているのだろうかと思います。これまで当たり前と思っていた、また、思いに上がるまでもなく当然のように行っていたことが 、制限される、そのような事態に至って、わたしたちは立ち止まることとなったのであります。これまで近かったものを遠ざけたり、一つに集まっていたものを分けてみたり、行っていたものを行わなくしてみたりしています。様々な工夫をしているということができます。それによって、今までとは違う、新しいことへとつながって行くということでもあるかもしれません。しかし、今、多くの人々が感染症による不安と恐れ、また苦しみと悲しみ、そして辛さの中にあり、また、その渦中にあってひたすら解放されることを待ち望んでいる方々が大勢いるのであります。

主イエス・キリストが、あのエルサレムの都に入場される時、人々は「ホサナ」と叫びました。「ホサナ」とは「今、救ってください」という意味です。その言葉が人々の表面的なところから、また、奥深いところから、叫びとなって現れたのであります。

主イエス・キリストはこの地上において、人々の救いのためにやって来られたのです。父なる神によってこの世へと遣わされた主イエスは、その魂の救いのために町や村を巡り、病を癒され、悪霊を追い出し、そして、会堂にて神の国の教えを語られました。主イエスはそのことに力を尽くされ、そのただ一つのこと、魂の救いのために、癒し、追い出し、教えられたのでありました。

ガリラヤ湖周辺の村々から始まり、多くの町々へと弟子たちと一緒に、主イエスは出かけて行くこととなります。 一般に「人生は旅のようだ」と言いますが、主イエスとの旅は、人の人生のようであります。人生の道の途上において、出会う喜び、そして別れる悲しみというのが繰り返されると申し上げることができます。辛く苦しい思いを人間関係において、健康上において、また、お仕事において経験することもあるかもしれません。主イエスはその時その時において、その人の背景にも触れておられたのではないでしょうか。その人と出会った一瞬だけということではなく、その人が背負っているものをも見つめておられたのではないでしょうか。

人々が「ああ言っている」「こう言っている」。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった。」と言えるような時代の中で、父なる神から遣わされた独り子なる主イエスはおっしゃいました。「すべてのことは父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

「軛」とは牛や馬にかける横木のことでありますが、その軛を一緒にするということは、主イエスと共に歩むということであり、その歩調を主イエスと合わせることであります。そのことから、主イエスのみ心と心を合わせることができるように、そして、主イエスのみ心と心を合わせようとするその中において、安らぎを得るのであります。

主イエスのおっしゃる「安らぎ」は英語訳ではrestと訳されていますが、 古い英語の意味では「休憩所」であり「(仕事また苦痛などの)一時的休止」を表しています。「一時止まること」また「一時止めること」であります。疲れた者、重荷を負う者は主イエス・キリストのもとへ行くことであります。そこに、安らぎを得るのであります。

そして、そのために「学びなさい」また「まねびなさい」と主イエスはご自身を示されます。そして、主イエスは何を「学びなさい」とおっしゃるのかと言うと、柔和であり謙遜であるということです。

子ろばに乗ってエルサレムに入場された主イエスは、柔和なお方であり、子どもたちを招かれた主イエスは、謙遜なお方でありました。主イエスは、そこにとどまり、安らぎを得るようおすすめになられるのです。

主イエス・キリストは、わたしたちの痛みを負ってくださいました。僕のようであります。

旧約聖書の預言者イザヤの書にこのようにあります。イザヤ書53章11節後半から12節。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた人のために執り成しをしたのは、この人であった」。

主イエスを見て、救い主を見て、このお方は僕のようであるけれども、多くの者を担い、執り成すお方、それは、「この人であった」と語るのです。

そして、主イエス・キリストが、神に背き、神から離れ、そのことをよしとしている、その罪から人々を救うために苦しみを受けられ、十字架の死につかれた時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ息を引き取られました。

主イエスの十字架の死の出来事において、この地に、当たり前だと思っていたところ、当然だと思っていたところが、震え動きました。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とマタイによる福音書は語ります。

そして、人々は十字架の死につかれた主イエス・キリストの出来事を見て、今、起きていることを非常に恐れて言いました。「本当に、この人は神の子だった」。 主イエスのご遺体は、行動の制限されるユダヤの安息日が迫っていたので、急いで布に包まれ墓に葬られました。岩を掘った墓の入り口には、大きな石を転がして、閉じ、封印も施され番兵もつくことになりました。

そして、今日の聖書マタイによる福音書28章1節。「さて安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」。

ユダヤの安息日は土曜日。そして、その安息日が明けて週の初めの日、日曜日の朝にあのエルサレムで起きた大きな出来事。人々の叫び「ホサナ」の声から始まり、「十字架につけろ」の声、そして、渦を巻くかのような人々の恐れと不安。人々の憎しみと妬みが熱狂の暴風となって主イエスは十字架にかけられました。

その三日後の朝早く、女性たちは主イエスのご遺体が納められた墓を見に行ったのです。

すると、2節から4節。人々の立っていた地が揺れ動いたのでありました。「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。

女性たちは、そして墓の見張りをしていた兵士たちは、恐ろしさに包まれてしまいました。その「出会い」が、また、その「出現」が、あまりにも大きかったからでありました。

それまでのことが、閉ざされていたことが開かれ、暗黒のような朝が白く輝く朝となって、それまでないと思っていた、また、そのような意識もなかった、天使たちが目の前に現れたのでありました。恐れの中に、なにか明るい光が見えて来ます。

5節から7節。「天使は婦人たちに言った。恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

主に呼び出され、共に歩んだあのガリラヤで、再び主イエスと出会う。苦しみを負われ十字架の死につかれた主は復活され、「あなたがたより先に行かれる」と言うのです。

「伝えなさい」と主の天使に告げられた女性たちは、8節。「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り」ました。主イエスの弟子たちに知らせるために走って行ったこの人たちの恐れには、喜びが含まれ、喜びのすぐかたわらには恐れがあったのです。恐れながらも大喜びで走ったのです。恐れと喜びが並走しているのであります。墓の中を覗き込み続けることなく、来た道を喜びのうちに戻って行ったのです。

すると、9節10節。「イエスが行く手に立っていて『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

女性たちの走って行く先におられる主。主イエスは、わたしたちの行く手に立っておられます。わたしたちの人生、また、わたしたちの知らないところにおいて、主は「導き手」であるからです。

そして、ごく当たり前の当然の挨拶をされるのです。「おはよう」。何か大きなことを告げられるのでも、何か大きなことを計画し行うのでもなく、ごくささやかないつもの通りの、しかし、とても大きな命のつながりをもたらされるのです。

命がよみがえり、魂が震えたのです。ですから、主イエスに近づき、み前にひれ伏し、礼拝をささげるのです。

主イエスはおっしゃいました。10節。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさ。そこで、わたしに会うことになる」。

主の天使が運んで来たみ言葉を、復活された主イエス・キリストは確かなこととしてお語りになられました。

疲れた者、重荷を負う者、苦労している者たちに、「恐れるな」と慰めと励ましをお与えになられます。

主イエス・キリストの復活は、まことの命の復活であります。

ですから、恐れることはないのです。

ここで、主イエス・キリストにお会いするからであります。

 

「むさし小山教会」にご来会くださり、ありがとうございます。

ご健康が守られますように、神様の恵みと平安をお祈りいたします。