「わたしのもとに来なさい」 マタイによる福音書11章25節~30節

主の年2022年を迎えました。

一年の始まりにあたり、心新たにする、そのような方々も多くおられることと存じます。

一昨年からの新型コロナウイルス感染拡大により、わたしたちの生活にその影響を大きく受けています。

疫病流行の中において、労苦と悲しみを背負っておられる方々、不安の重さにくずおれるように、その場に倒れ、座り込んでしまっているかのような方々もおられるかもしれません。

年改まると言えども、どこまでも何ものかが、わたしたちを追いかけてくるかのような状態にわたしたちがいるかのような、不安定な思いもどこからともなくやって来ます。

しかし、聖書が告げている、わたしたちが立っているところ、わたしたちに与えられていることは、この世の暗闇に光が到来した、主イエス・キリストの御降誕の出来事、その光は、変わることなく今ここに輝いているということです。

これが今、わたしたちの立っているところであります。

わたしたちは、主なる神に導かれ、そしてこの与えられた生涯に新しい年がまた一つ加えられたのであります。

同じ年は一つとしてありません。

昨年と今年は同じでなく、本年がどのような年であるかは、わたしたちには分かりません。しかし、そうであるけれども、わたしたちの立っているところは、主イエスのお生まれになったところであり、このお方が共におられるところです。

そして、ここに来て、集い、賛美の歌をうたい、礼拝するのです。

目には見えないけれども、主イエスは、この世の見える世界に、わたしたちと共におられ、約束を与え、捉えて離さない方であられます。

この世にて、わたしたちは引き裂かれ、引き離されて行き、あまりに悲しくて心が痛むこともあります。

しかし、人々の救いのため、十字架の死を通られ、復活された主イエスに呼び出され、召し出されたパウロという人物は、ローマの信徒への手紙8章35節でこう述べています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

そのすべてを経験したパウロは、続けてその38節、39節でこう手紙に書き記しました。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

パウロはこれを比喩、たとえとして語っているというのではなく、事実として語っているのです。

どのような所においても、どのような時においても、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない、と言うのであります。

わたしたち人の方から遠く離れて行こうとすることがあるかもしれません。

どこまでも下って行こうとする力が働くことがあるかもしれません。

しかし、主キリスト・イエスは、静かに待っておられるのです。

強制することも、無理をさせることもなく、ただ待っておられるのです。

待っている、そのことには大きな愛が必要です。

責めることなく、すべてを受け入れてくださる愛で待っていてくださるのです。

キリスト・イエスは、神の愛を示してくださっておられるのです。

この約束は、決して尽きることなく変わることがありません。

しかし、この世にてわからなくなり、探し求め、明らかにしようとするひとつの思いが沸き起こります。

「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」

今日の聖書は新約聖書マタイによる福音書11章ですが、その3節で洗礼者ヨハネはそのように主イエスに自分の弟子たちを通して尋ねた、とあります。

そのとき、洗礼者ヨハネは、牢の中に捕らえられていたからでありました。

洗礼者ヨハネは、人々を神のもとに立ち返らせる働きをしていました。

悔い改めを勧め、向きを変えて、神に立ち返る生き方に人々を導き、「来るべき方」に備えていたのであります。

その洗礼者ヨハネは、この世の理不尽な力、道理に合わない力に、この世の人の力によって捕らえられていたのでありますが、その中にあって、キリスト・イエスのなさったことを聞いていたのでありました。

そしてそのことが、偽りや見せかけではなく実際にそうであるかを洗礼者ヨハネは尋ねたのでありました。

そしてこの問いは、新しい年を迎えたわたしたちにとってもそうなのです。

新しい年になっても、わたしたちの力が改まるわけでもなく、疲れは疲れとして、弱さは弱さとして、わたしたちの心を捕らえようとしているかもしれません。

悲しみがあり、悩みがあり、思い煩いがあります。

そこから解き放たれることのない嘆きの中にあるかもしれません。

「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか。」

それは今、わたしたちの問いでもあるのです。

洗礼者ヨハネの問いに、主イエスは、マタイによる福音書11章5節、6節でこうお応えになっておられます。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

主イエスはこの世にあって、神のお働きをされたのでありました。

それは、この世に光を照らすことでありました。

暗闇の中に座して生きている者に、光を灯し、その光によって再び歩みだすことが出来るようにしてくださったのです。

神の愛と赦しがここにあり、見えるようになり、歩けるようになったのです。

主イエスは、神のお働きをなされ、人を清くし、聞こえるようにし、お語りになっておられるのです。

これらのお働きは、神へ向かってなされるので、人を救い、その道筋を整えるのです。

主イエスは、わたしたちの道筋を備え、整えてくださるのであります。

神の知恵はここに働いています。

そしてその神の知恵の正しさは、主イエス・キリストの働きによって証明されているのです。わたしたちは、主イエスに結ばれているのです。

そして、神の知恵に結ばれ、それはだれ一人、神のみ前で誇ることがないようにであります。

誇る者は、主なる神を誇るがよいのです。

目覚めて、主なる神を知ることを主は喜ばれるのであります。

しかし、人は誇りたかぶります。

マタイによる福音書11章は、人々が誇りたかぶり、主イエス・キリストを受け入れようとしない町々があったことを記しています。

11章20節にはこうあります。「それからイエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」

人々は自ら誇りたかぶっていたので、謙遜でへりくだったお姿の主イエスを受け入れることができず、悔い改める、すなわち、向きを変えることができなかったのです。

そしてそれは、人の救いに向きをむけ、合わせることをしなかったということでもありました。

神の愛とゆるしが待っているのにもかかわらず、救い主から遠ざかり離れようとするこの世の力が働いている、その支配の中にとどまろうとするのであります。

それでも、人々が悔い改め、向きを変えることをしなかったので、主イエスは「叱り始められた」というのは、愛の悲しみによることだったのです。

そして、今日の聖書マタイによる福音書11章25節、26節にはこうあります。「そのときイエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」

主イエスは神の愛とゆるしを受け入れず、自ら誇りたかぶるその町々をお叱りになりますが、それは神の愛による悲しみからであり、町々が主なる神の守りを受け入れないことによります。

主なる神ご自身が守ってくださるそのことを拒み、受け入れることのできない頑なさによる悲しみです。

主イエスは、人々の無関心を嘆かれたのでありました。

死と滅びへと至るそのことを主は嘆かれたのです。

そしてそのとき、主イエスは父なる神に祈られたのです。

この世で、神の御心から遠く離れてしまっているような中から、主イエスご自身が父なる神に立ち返るのであります。

そしてそれは、この福音書を読み聴くわたしたちにお教えになられるお姿であります。

この天と地を創造された父なる神に祈るのです。

それは、主イエスにとって立ち返ることでもありました。

立ち返ることによって、今、どこにいるかがわかるのです。

主イエスは、父なる神をほめたたえます。

それは、二つのこと、「心から同意すること」、そして、「賛美し感謝すること」を意味とします。

何に同意し感謝しているのかというと、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に示している」ことです。

「これらのこと」とは、主イエスの宣べ伝えられていた神の国、または、天の国のことであります。

神の国、天の国は近づいて、主イエスによってこの世に来ているのです。

そして、幼子のようでなければ入ることのできない純粋さが求められているのです。

しかしこの世の国の人々は、自らの誇りとたかぶりにより、頑なとなってしまい、神の御心を受け入れることができません。

幼子のような者に示される、それは、父なる神の御心に適うことであり、父なる神の目には喜びでありました。

27節、主イエスは続けます。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

ここにすべてのことは任せられているという父と子、父なる神と御子イエスの関係が語られています。

主イエスには、父なる神から与えられ、続けられそして委ねられているものがあるのです。

それが父と子の関係で語られています。

父は子を知っており、子は父を知っているのです。

そして、驚くべきことを主イエスはお語りになっておられます。

それは、「子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」ということです。

すなわち、主イエスが示そうと思う者とは、「幼子のような者」のことです。

主イエスが喜んでそうすること、父なる神を知ることを望んでいるのは、幼子のような者です。

招きを聴き従う者であるのです。

そのような者を、主イエスは喜んでおられるのです。

喜んで望んでおられるのです。

そして、主イエスはおっしゃいます。

28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

主イエスは、父なる神の愛とゆるしがあることを前提にしてお語りになっておられます。

徹底的に神の愛とゆるしがあなたにあるのです。

ですから、主イエスはあなたを招かれるのです。

「来なさい」、「休ませてあげよう」、とおっしゃるのです。

たくさんの義務、心に身体に堪えがたい重労働を課せられて、疲れている人よ、「わたのもとに来なさい」と主イエスはおっしゃるのです。

「休ませてあげよう」、さざ波の絶えない心を穏やかにしてあげよう、心からの喜びを分かち合えるように。

主は、重荷を負わせ、圧し潰そうとするものから守って下さいます。

主イエスのおっしゃる「わたしのもとに来なさい」とは、わたしの方に振り返りなさいということです。

向きを変え、顔を向けるということです。

そのようにして、とどまり、休むことができるのです。

休むこととは、憩うことで、息が整うことであります。

深呼吸といってよいかもしれません。

あるいは、調子が合ってくると言うこともできます。

29節、30節、主イエスはおっしゃいます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

軛とは、農作業で二頭の牛の首に負わせる横木のことです。

その横木の役割は、二頭の牛を進むべき方向へ導くためであります。

その軛を負うとは、頭を下げ、その軛を首に乗せるということです。

頭を下げ、同じ方向に進んで行くのです。

そしてその在り方は、主イエス・キリストにとどまるという姿を現しています。

主イエスに学ぶのです。

柔和で謙遜のお方に学び、憩うのです。

その道を見分け、魂に安らぎを得るのです。

救い主イエス・キリストが共におられるので、その軛は負いやすく、荷は軽く、心地良く、そして、楽しくもあるのです。

主イエス・キリストがおられ、救いがあるので、心朗らかです。

そして今までよりも多くの愛を見出すのです。

主イエス・キリストと共に歩むことを志し、主イエスの学び舎に入り、主の愛とゆるしを知るのです。

「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と愛の主イエス・キリストはおっしゃって、この新しい年、どこにおいても、心の内に安らぎを与えくださり、新たな力を回復させてくださいます。