「イエスのみ名によって」 マタイによる福音書18章15節~20節

「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と、主イエス・キリストは、その弟子たちにおっしゃいました。

人と人との物理的距離を空けるようにと言われるようになって1年半以上になります。

人々が集まるということにおいては、細かいところまで心を配る細心の注意が求められているのがわたしたち社会の現状であります。

そのような中で、今日、主イエスは二人または三人がとおっしゃっておられ、それはイエスのみ名によってというのであります。

主イエスは、この世に来られ、ユダヤのガリラヤ地方からその働きを始められました。

町や村を巡って神の国を宣べ伝え、会堂で教え、病をいやし、悪霊を追い出されました。

それは人々を救い出すためでありました。

一人ひとりの魂を救い出すためでありました。

主イエスの働きは、人々に大きな影響を与え、その心に深い慰めが広がったのでありました。直接主イエスを見たこと、直に主イエスに触れたということがなくとも、人々の心には平安が訪れたのでありました。

そこに、少しずつ神の国というものが広げられ始めたのであります。

神の国というのは、神ご支配ということであります。

主イエスご自身が父なる神のご支配のもと、この世へと来られたのであります。

ですから、その父なる神のみ心が主イエスを通して広げられていったということであります。

神の国は神の御心、すなわち、愛とゆるしがこの世に実現していくということであります。

心に重荷と傷を負い、苦しみ、悩み、息が切れそうになってさえいる人々に、「あなたを愛している」「あなたにはゆるしがある」ということを主イエスは現わしてくださったのです。主イエスの働きは、町や村で暮らしていた人々に、とても大きな光となって輝いたのでありました。

そして、神の国へ向きを変え、神の国に向かって向きを合わせる人々が起こされたのでありました。

主イエスの働きは多くの人々の間で力強く進んで行ったのでありました。

そしてある時、主イエスの弟子の一人でるぺトロが、主イエスがお尋ねになられたので答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です。」

もともとペトロはガリラヤの湖で漁師をする漁師でありました。

主イエスに招かれ、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼び出されたのでありました。

主イエスの弟子となったペトロは、主イエスと共に歩むこととなり、多くの人々がまことの命を求めているのを目の当たりにしました。

そこにはそれまでに色々なことを見てきた人々、そして様々な経験をしてきた人々がいたのでありました。

悲しみと苦しみがあることをその眼は静かに語っていました。

しかし、主イエスに光を見、まことの光を求める人々がいることを主イエスの弟子ペトロはすぐ近くで見たのでありました。

人間をとる漁師となりつつあるペトロは、ついに心の中で思っていたことをありのままに打ち明けたのでありました。

主イエスはそれをお聞きになり、お受け止めになられてペトロにおっしゃいました。

「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる。」

そして、弟子のペトロがその信じる信仰を言い表した時から、主イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたのでありました。

主イエスのお働きは、多くの人々の間で続いて行われている、その途上で主イエスはおっしゃったのでありました。

主イエスは死と復活をあらかじめ告げられたのでありますが、弟子たちは死の方へと意識が引き寄せられ、恐れを抱いたのでありました。

それは、この世の人生の途上で色々なものを見、様々なことを経験したことをそのまま表した立場ということができるかもしれません。

この世の不安と恐れをもととした立場に立ち、見渡してみるとそこには死と滅びしかないかのような情景が広がっているのです。

神の国は、神の愛とゆるしは、どこに行ってしまったのかと思えるような惨状が知らされているのです。

主イエスは弟子たちに、「天の国に入るのには」とおっしゃいました。

「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と主イエスはおっしゃいました。

先ず心を、と主イエスはおっしゃって、「自分を低くして子どものようになる人が天の国でいちばん偉いのだ、わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とある時、一人の子どもを呼び寄せ、主イエスは弟子たちにおっしゃいました。

この地で偉い者ではなく、天の国で偉い者を主イエスはお語りになられました。

そしてそのように、主イエスの名によって小さな者を受け入れる者は、主イエスを受け入れるのだとおっしゃるのです。

ですから、主イエスは小さな者を軽んじないようにとおっしゃいます。

そしてそれは、数多くの小さな者というよりは、たった一人であってもということであります。

それだけ、父なる神の御心は一人ひとりに向けられて、広げられているのであります。

そしてそのたった一人の小さな者にも天使がいるのです。

天ではその天使たちが、父なる神の御顔を仰いでいつでも助けと守りに出ていけるようにと呼びかけ、呼び出されるのを待っているのです。

ですので、新約聖書のマタイによる福音書18章14節にはこうあります。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

主イエスは、救いを求める人々を、目指す地、この地上において神の国へと導くためにおっしゃいます。

神の御心である神の愛とゆるしへと入ることができるようにと、主イエスは働きかけられるのです。

そこで、子どものように喜んで生きることができるのです。

小さな者が一人も滅びることのないようにであります。

しかしながら、この地上においては人と人との間に問題が生じます。

今日の聖書、マタイによる福音書18章15節で主イエスはおっしゃいます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れられたら、兄弟を得たことになる。」

主イエスは、小さな者が一人でも滅びることは、天の父なる神の御心ではないことから、兄弟という者たちも同じように神の御心の内に置くことを語りになられます。

のちに、人々の罪をゆるしと神の愛の大いなることを主イエス・キリストは十字架の死と復活によって現わされますが、死より復活された主イエスは、婦人たちにこうおっしゃいます。

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

主イエスは「わたしの兄弟たち」とおっしゃいます。

それは、かつて弟子のひとりペトロが、「あなたはメシア、救い主です」と主イエスに言い表したように、主イエスは救い主であると信じる者たちのことであります。

「兄弟たち」とは、主イエスを救い主と信じる兄妹姉妹たちということです。

しかし、そこに、何か罪と言われることが起こった時にこうしなさいと主イエスはおっしゃいます。

それは、批判しなさい、非難しなさいということでは決してなく、忠告しなさいと主イエスはおっしゃいます。

「忠告」というのは、「まごころを込めて相手の過ちを、戒め諭すこと」であります。

主イエスがお教えになられるのは、兄弟の間に過ちが起きてしまう場面があることを考え、そのような時には、こうしなさいということです。

それはまごころを込めてということです。

なぜなら主イエスは、「兄弟を得る」ことのためにそうおっしゃいます。

退けるためではありません。

「言うことを聞き入れたら兄弟を得たことになる」と「得る」ためにおっしゃるのです。

神の愛とゆるしの中にすべてのことが進められていくことを主イエスは願っておられるのです。

しかし、そうならず、16節「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」

第一の方法がよくなければ第二の方法であります。

ユダヤの律法の書である旧約聖書、申命記19章15節という所にはこのような言葉があります。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証することはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」

証拠をあげて事実を証明するのは、二人または三人の証人の証言によってと言うのです。

それによって確定される、確実なものになると言うのです。

しかし、第二の方法がよくなければ、第三の方法であります。

17節「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と主イエスはおっしゃいます。

主イエスは、教会に委ねることをおっしゃいます。

それは神が、主イエス・キリストを通して招き、呼びかけ、呼び寄せられた者たちの集いであるからです。

神が、主イエス・キリストにより招かれ、招集した者たち教会に神の御心があらわされるからであります。

主イエスがここで、兄弟が聞き入れないなら異邦人か徴税人とみなしなさいとおっしゃっておられるのは、当時のユダヤの人々が、その異邦人と徴税人を自分たちとはっきり分けて捉えていたことによります。

主イエスはそのユダヤの人々の考えをここで取り入れていますが、主イエスご自身は異邦人や徴税人に対し深い愛を示されました。

兄弟の犯した罪に対して、第三の方法もよくなければ、ありのまま救い主に委ねるのであります。

わたしたちが神をジャッジ、判定するのではありません。

主なる神に委ねるのであります。

愛は多くの罪を覆うからであります。

そこで主イエスはおっしゃいます。18節「はっきり言っておく。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ここでは「つなぐ」ことは「禁じる」ことであり、「解く」ことは「赦す」こととも言えます。

いずれにしても、「つなぐ」と「解く」という、その力があなたがた教会には、授けられているのだから、愛とゆるしをもって、励ましと寛容の心をもっていなさいということであります。

主に求める人には良いものの欠けることがないのです。

ですから、わたしたちは主なる神を、災いを避ける、避けどころとするのです。

「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。」と歌うのです。

マタイによる福音書18章19節、20節主イエスはおっしゃいます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

二人または三人の証人によって証言が明らかに確定され、確実となるように、主イエス・キリストのみ名によって、神の御心は現わされます。

主イエスのみ名は、わたしたちを助け守ります。

苦難を受けられ、十字架の死につかれ、復活された主イエス・キリストは、わたしたちと共におられるのです。

そして、愛とゆるしによる互いの交わりにおられ、神御自身、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」とおっしゃいます。

主イエス・キリストのみ名は、「いるよ。ここにいるよ。」と今も呼びかけてくださっているのです。「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」