「後なる者は先に」 マタイによる福音書20章1節~16節

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というたとえを主イエス・キリストはお語りになられました。

主イエスは天の国のたとえとしてお語りなっておられるのですが、それは、今現在のわたしたちにとっても、まったく思いがけないことをお語りになっておられます。

思いがけないというのは、この地上にあって、人々の思いと考えの向きが異なっているかのようであるからです。

しかし、主イエス・キリストのおっしゃる御言葉は、この地上において、すべての人の光となるものでありました。

主イエスは、この地上で、そのご使命を始められる時にこのようにお語りになられました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

「悔い改めよ」というのは、このままではなく向きを変え、そして、立ち返れということです。

主イエスは、あなたがたは今この時、そうせよと現在形でおっしゃって宣べ伝えておられます。

父なる神よりこの地へと主イエスは遣わされ、救い主すなわちキリストとしてそのお働きをなされるその始まりに、たたんであったものを広げるように宣べ伝え始められたのは「悔い改めよ」ということでした。

そして主イエスが何故そのようにお語りになられたのかと言うと、「天の国は近づいた」からでありました。

天国は近づいた、とおっしゃるのは完了している、すでにそれは実現しているということであります。

マタイによる福音書は、主イエスがこのようにを語り始められたのは、救い主キリストのお働き、そのつとめが始まった時、としています。

それは、主イエスがキリストとして救い主として、どこから来られ、今どこにおられ、そして、どこに行こうとされているのかを指し示しておられると言えます。

そして、このキリスト・イエスの御言葉を聞くわたしたちがどこから来て、今どこにいて、どこに行くのかということでもあるのです。

主イエスが宣べ伝え始められた時、旧約聖書イザヤ書に登場する預言者イザヤを通してあらかじめ言われていたことが実現するためであったと、マタイによる福音書は述べています。

預言者イザヤは、苦難と闇暗、暗黒と苦悩が、被っている暗闇のこの世にあって、人々は逃れるすべもない。

そこに、思いがけないことが起こる、と言うのです。

人は、苦悩の中でそのことに気づかないで、何もしないでいるかもしれません。

しかし、闇の中を歩む民、暗闇に住む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が射し込んだ、とイザヤは告げるのです。

神は、深い喜びと大きな楽しみをお与えになられると、預言者イザヤは知らせるのであります。

主イエスは、父なる神の告げ知らされた御言葉の通りであり、それがこの世において、この地上において実現したのでありました。

主イエスの働きは、光のもとに、光のみ前に、人々が喜び祝うことのできるよう導きに入れることでありました。

天の国が間近にある、あなたの喜びと楽しみと祝いが近くに実現している、思いがけない、しかし、良い知らせであります。

そして主イエスは、人々の思ってもみない、意外なことを、天の国についてお語りになられます。

山の上で主イエスは、お教えになられました。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

主イエスは、今そうであるとおっしゃいます。

乏しく、苦しく、満たされていない心を持っている人は、幸せだと主イエスはおっしゃるのです。

義のために、人と人との間の義、神と人との間の義、その正しさのために迫害され、追い詰められ、苦しめられる人々は幸せだと主イエスはおっしゃるのです。

これを聞いた人々はまったく驚き、また、怪しんだ人もいたことでしょう。

道から外れている、道理から外れている、と思う人もいたことでしょう。

しかし、主イエスは、天の国はその人たちのものであると「心の貧しい人々」、「義のために迫害される人々」をお語りなられました。

思ってもみないことです。

そして主イエスは、エルサレムへ行く道の途上でお語りになられるのであります。

人々の救いのため、苦難を受けられ、十字架の死へと向かって行く、しかし、神の愛と赦しの大きさを現わされ復活されることとなっている、エルサレムへ行く道の途中です。

主イエスは、仕えるために、ご自分の命を献げるために来られた、その道でありました。

そして天の国が間近に実現してることを、たとえを通して主イエスはお語りになられます。

マタイによる福音書20章1節「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」

主イエスは、天の国のたとえを思いがけないところからお語り始められます。

それは、主人である雇い主と労働者という人々が出てくるたとえであります。

主イエスがこのたとえをお語りになられた当時、人々の間ではぶどう園で働くということはよく親しんでいる、そのような労働の場所であったのです。

ぶどう園の収穫期ともなれば多くの人手が必要となり、ぶどう園の主人も働いてくれる労働者を多く求めなければならなかったのです。

主人の思いは、天と地の恵みであるぶどうの実りを喜び祝いの声と共に取り入れるため、人々を求めることにありました。

そして、古代の詩人が詩篇90篇17節で歌っている通りの思いを抱いていたことでありましょう。

「わたしたちの神、主の喜びが、

わたしたちの上にありますように。

わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、

わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。」

ぶどう園の主人も雇用主として、神の喜びが溢れ出る、そのような働きの場にしたいと望んでいたのではないでしょうか。

そして、主なる神のもとにあって、天の下にあって、地の上にあって、働くわたしたちの手を働きを、わたしたちのために確かなものとしてくださいますように、と求人募集活動の中にあっても願っていたのではないでしょうか。

主イエスのたとえでは、主人はぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。

一日の早い時間から主人は出かけて行きます。

そして、マタイによる福音書20章2節「主人は一日につき一デナリオンの約束で、労働者はぶどう園に送った。」

デナリオンとは当時の通貨でありローマの銀貨、その価値は一日の賃金に等しいと云われています。

夜明けに主人は、一日分の賃金を支払う約束で、働く場であるぶどう園に労働者を送ります。

早朝一番からのお仕事で、一日の労働分の対価が約束されているという正当な約束でありますが、朝が少し早いかなというところが気になるかもしれませんが、働く人は求めていたのでありました。

主イエスのたとえで、主人は、3節から5節「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。」

主人は、労働者等を求めて夜明けに出て行き、その次は朝九時、昼十二時、午後三時と、広場に出て行きます。

すると、そこに何もしないで立っている人がいるので、主人は言うのです。

「あなたたちもぶどう園に行きなさい。」

主人にとって、何もしないで立っているのは、何か少し思いがけないことであったのでしょうか。

ふさわしい賃金を支払うことを約束して、ぶどう園に労働者たちを送ります。

そして主イエスのたとえ6節7節「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです。』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」

主イエスのたとえでは、主人は一日の早い時間、夜明けから活動を始めています。

そこには一つのことをひたすら強く求める意志が感じられます。

そして、この一日を精一杯働き、ぶどう園の主人としてよい日であることを願う姿があります。

たわわに実ったぶどうの収穫作業を、天と地への感謝と共に働く人々と分かち合いたいという思いが、主人を動かすその動機付けとなっていたのでありましょう。

主人は、その後も働く人々を求めて出かけて行き、一日のうち五回も足を運んでいます。

主人が出かけて行くには、いろいろな事情があるのかもしれませんが、その回数は多いようにも感じます。

五回目、五時に行っても何もしないで立っている人々がいたと言うのであります。

その人々には、「だれも雇ってくれない」という理由があったのですが、主人は「ぶどう園に行きなさい」と言い伝えます。

そして、時間が経って、8節「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」

夕方という時がぶどう園にもやって来たのでありました。

そこでぶどう園の主人は、現場の監督に指示を出します。

「最後に来たものから賃金を払いなさい。」

午後5時に来た者、午後3時に来た者、昼12時、朝9時、そして、夜明けに、早朝に来た者の順です。

この賃金を支払われる順についても、順序が、順番が、違うような気がします。

しかも夜明けから長時間働いている人々から賃金は支払うべきであるのでは、とも思います。

しかし、夜明けから働いていた人々は、その後の何もしないで広場に立っている人々とは違って、長時間働いていたのでありました。

そして、9節10節「そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。

しかし、彼らも一デナリオンずつ受け取った。

労働者たち思いは揺さぶられました。

労働時間が短ければ少なく、労働時間が長ければ多い、と思っていたその考えが揺さぶられ、そして、不平を言い出すことになりました。

朝早く最初にぶどう園にやって来た人々です。

短ければ少なく、長ければ多く、そうでなければならないとだれもがそう考えます。

11節12節「それで、受け取ると主人に不平を言った。最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」

当然のこと、当たり前のことを言っていると思います。

働いた時間としても11時間ぐらいは違うでしょうか。

それでも同じ一デナリオンを受け取ったというのです。

不平を言う人13節から15節「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」

たとえのぶどう園の主人は、不平を言う者に、約束したことを思い起こさせます。

そして、最後に来た者にもその約束と同じことをしたいのだ、と言うのです。

そしてそれは、自分のものを自分のしたいようにしている、と主人は言います。

さらにたとえの主人は、気前の良さ、それは、自分のこととさえ言っているかのようです。

主イエスのお語りになった天の国のたとえは、この世のこと、この地上のことに重ね合わせると、思いがけないことが多く含まれています。

主イエス・キリストは、神のお働きの大きさ、広さ、深さをお語りになれます。

その寛容、その寛大さは、この世の考えと思いを超えています。

そしてそれは、そのまま神の恵みの大きさであります。

人はその恵みを小さくし、ゆがめ、神を小さくし、ゆがめようとしてしまいます。

しかし、神の寛容、神の寛大さは、人の思いをはるかに超えていることは主イエス・キリストの十字架の死と復活において現わされました。

主イエスがたとえでおっしゃる通り、神は気前がよく、度量が大きく、むやみに人を責めず咎めず、人を愛しゆるします。

主イエスは、天の国のたとえでこうおっしゃいます。

「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

それは、ぶどう園の主人と労働者のたとえで、後にいる者が先に受け、先にいる者が後に受けるのですが、主イエスはすべての人が、このたとえの中の後にいる者のように恵みの中で愛されており、神の愛は、先に今も働いているということをお語りになるのです。

天の国は、わたしたちのすぐ近くにあり、神の愛と恵みはすでにここにある、その始まりをこの朝、教えているのです。