「何によって歩む」 エフェソの信徒への手紙5章1節~5節

「あなた方も愛によって歩みなさい」と今日わたしたちに届けられました聖書は語っています。

わたしたちは日々、日の出、日の入りを繰り返し、時を重ね、年月を重ねています。

昼の長さと夜の長さが同じになる秋分に入ろうとするこの時、わたしたちは実りの秋を迎えようとしています。

この季節、農作物の豊作ということを思い浮かべることもあるかと思います。

そして、人生を四つの季節に例えたその中での秋、人生の秋、と言うこともできるかもしれません。

夏に続く秋の季節は、わたしたちに人生の意味とは何か、という問いを投げかけてくるだけの日の長さを運んで来るのであります。

激しい雨と風の時もあれば、穏やかで爽やかな秋晴れの時もあって、日が昇り、日が沈む、その流れの中で、夏の季節、あれだけ青々と繁っていた木々の葉が色づいて落葉して行く。

地面に落ちた黄色い葉を幼い子どもらが手にとって喜んでいる。

その光景を目を細めて見つめている大人たち。

そこには、どれだけのことができるか、そして、どれだけのものを持っているか、ということを超えた何かがあって、その光が、わたしたちを人生の意味の探求、わたしたちの人生の意味とは何か、という探し求める旅へと導いているのであります。

そしてこの旅は終わることがないのです。

なぜ終わりがないのか、それは初めであり終わりであるお方がご一緒してくださっておられるからです。

日の光が昇り、朝があり昼があり、日の光が入り、日が暮れる、そのようにわたしたちの日々の初めに、そして、日々の終わりに、わたしたちの主イエス・キリストはおられて、その光をわたしたちの暮らしの中に投げかけてくださっておられるのです。

そして、秋になって冬が来る前に、冬の雪の重さを逃し、雪の重量に耐え、命が守られ、命をつなぐために葉を落とし、身軽になって寒い冬に備える樹々のように、生き生きとこの地にあって、わたしたちは生きるのであります。

生きるとは、キリストであります。

人々の救いのため、命をかけられ、人々の罪の赦しのために苦しみを受けられ十字架の死につかれ、一度、墓にご遺体は納められますが、三日目に復活されます。

完全に死に、完全に復活されたのであります。

主イエス・キリストは、人々の罪の赦しを成し遂げられたのです。

命をもって、命を救われたのでありました。

この復活の主イエス・キリストにより使徒となった、すなわち、神の福音を宣べ伝える者となったパウロは、深い、驚くばかりの感謝を与えられ、その感謝は、神からの愛とゆるしによっていることを知ったのでありました。

そして、パウロは「知った」ということだけではなくて、それを行動に移したのでありました。

わたしたちは皆、パウロのようにならなければならないのでは決してありません。

パウロの言っていること、行っていることすべてをそのままなぞってその通りにしなければならないのでは決してありません。

パウロは、何に深く感謝していたのかということです。

パウロは、何をそんなにもほめたたえ、大きく感じ入っていたのか、ということであります。パウロは死より復活されたキリスト・イエスに出会った後、樹々が葉を落として次の季節に備え、本来、持っている命を輝かすように、その命の源に集中することとなったのでありました。

それは、過去のかつてではなく、未来のこれからでもなく、今ここにおいて輝いているのであります。

キリスト・イエスは生きておられるからです。

ですので、ある特定の日を重んじる人は、主イエス・キリストのために重んじ、ある食べ物を食べる人は、主イエス・キリストのために食べる、とパウロは言いました。

それは、キリスト・イエスにすべての意識を集めることとなったパウロの人生そのものでありました。

勿論、この世の中でそのような思いや考え、そして、意識を持たない人々が大勢いることもパウロはよく知っていて、その人々との関わりなくしては、この世で生きていくこともできないということをパウロはよく知っていました。

その上で、パウロはキリスト・イエスに向き合っていたのであります。

それは先ず、復活のキリスト・イエスがパウロと向き合ってくださったからでありました。

復活のキリスト・イエスとは、永遠のキリストであります。

永遠、それだからこそ、今ここで、思いと考えと、そして、信じる心をキリストに集めるのであります。

神への感謝、キリストへの感謝が、パウロを動かしていたのでありました。

ですから、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とパウロは言いました。

ここに、災いの多いこの世を走り抜き、生き抜く力が与えられ、救い主キリスト・イエスはわたしたちがその力にあずかるようにしてくださったのです。

キリスト・イエスが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となられるためでありました。

パウロの思いと深い関心、そして、心からの感謝はここにあります。

主なる神の道に従って、命を得ることができますように、主なる神の恵みの働きによって命をさせてください、という祈り願いが、感謝とともにパウロの中にはあるのです。

スイス、ジュネーブで精神療法を中心とする内科医として多くの診療に携わったポール・トゥルニエという方の「人生の四季」という書物の中に次のような文章があります。

「ほんとうに、何が人生の意味なのでしょうか。この問いは、一日で解けるようなものではありません。この問いは、体力や活動力が減退していくにしたがって、ますます激しく迫って来ます。それは、だんだんと老齢に近づいている人の心をたえず占める問いとなることでしょう。老年とは価値の再検討の時期であり、つかの間の価値から永遠的な価値への、困難ではありますが前進的な移行期なのです。」「私がなし、学び、獲得することができたことはだんだん価値を失いつつあります。「行為」や「所有」が、「生きること」から切り捨てられていきます。老年の人々にとって重要なことは、彼らが現在どういう人間であるかということであって、彼らがまだこれから何ができるかということでもなければ、自分で持ち運ぶことのできないほど山と積み上げられた彼らの所有でもありません。」そしてトゥルニエは「何が価値あるものかという問いを解こうと試みる時」が「老年期である」と述べるのです。

使徒パウロが出会い見出した価値、それは「感謝」であると言えます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。」

パウロの心に、この言葉が授けられ、いつもその言葉が心に響いたのでありました。

それはパウロが、何が価値あるものなのかを、問う、人生の歩みの中で、見出し、与えられ授けられた道であったのです。

これこそ、キリスト・イエスにおいて、神がわたしたちに望んでおられることなのです。

神がキリスト・イエスによって愛しゆるしてくださったように、わたしたちも愛とゆるしに生きるようにパウロは勧めます。

そして、今日の聖書、新約聖書エフェソの信徒への手紙5章1節「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者になりなさい。」

ある時、人々が大勢いる中に主イエスがあったその時、祈っていただこうと人々が子どもたちを連れて来ましたが、主イエスの弟子たちは、その人々を叱ってしまいます。

ダメだダメだと言って近づけないのです。

しかし、主イエスはおっしゃいました。「子どもたちを来させなさい。」

弟子たちが、よくない、ダメだと言う。

しかし、主イエスは「来させなさい」とおっしゃる。

そしてその間に子どもたちがいるのです。

パウロは「子ども」に主イエス・キリストの愛を見るのです。

「あなた方は神に愛されている子どもですから」、「神に愛された子どもとして、神に倣う者となりなさい」とパウロは言うのです。

神は、よいお方であるので、よいことをなさるのです。

神は、情け深いお方なので、情け深いことをなされ、憐れみ深いお方なので、憐れみ深いことをなされるのです。

なぜなら、恵みがあるように。

ここに恵みがあり、この恵みによって人が生きること、生き返ることができるように、であります。

神の愛は、遍く及ぶのです。

ある人がいけないと言っても、神の愛はすべての地へと響いています。

ユダヤの律法学者たちがいけないと言っても、神の愛はすべての異邦人へと伝えられて行くのです。

神の愛と恵みは、それほどまでに深いのです。

2節「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」ユダヤの民にとって、神との関係をやわらげるための「香りのよい供え物」、それは、神にささげられる「宥めの香りの献げ物」と言われていました。

そして、わたしたちにはその焼き尽くして煙とし、その香りをささげる献げものではなく、いけにえとして、わたしたちのために命を献げられた主イエスがおられ、このお方の愛によって歩むようにとパウロは語ります。

それにより、険しい道においても、その人の心にやわらぎが広がるのです。

そして3節から5節「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神の国との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」

パウロは、これでもかこれでもかとこの世にある多くの事々を取り上げていますが、それよりは、命を与えられ命に預かる言葉に近づき、愛ある言葉と一緒にいなさいと勧め、その道を示します。

救い主キリスト・イエスを知るという知識の香りが漂う道を進むことができるようにです。

神の国を受け継ぐことができるように、それがパウロの祈り願いです。

キリスト・イエスに聞く人に、恵みがあり、その人が造り上げられていくようにとの願いです。

神は、いつもわたしたちをキリストの勝利、死と滅びに打ち勝つ勝利の行進につらなされてくださいます。

わたしたちは神に感謝いたします。

道の途上、神ご自身を待望している一人ひとりに神は救いをもたらすために現れてくださいます。

どうか、わたしたちの生涯に加えられた恵みをひとつひとつ数えることができる歩みでありますように。

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。