「キリストに向かって」 エフェソの信徒への手紙4章1節~16節

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

わたしたちむさし小山教会七十周年を迎え、今日、わたしたちはこの礼拝堂に集いました。年月が満たされ、現在コロナ禍という中にあっても、礼拝堂において、そして、それぞれに与えられた場所において、主の日の礼拝をお献げできますことは、大きな恵みであります。

七十年間、主の日ごとに礼拝が守られ、続けられますことは、この世にあって奇跡であり、大きな恵みです。

むさし小山教会は、1951年(昭和26年)9月16日に創立されました。

初代牧師小林寿(ひさし)先生が五十八歳にしてこの地に開拓伝道を始められたのでありました。

第二次世界大戦前は、「荏原中延協同基督教会」の牧師を小林寿先生されておられましたが、戦争中その会堂が強制疎開にあい、倒されてしまいました。

そこで牧師としての自分の使命は終わったという経験をされます。

兄妹姉妹共に礼拝を献げ、目の前にしていた会堂が強制的に取り壊されたのでありました。その喪失感はとても大きなものであったかと存じます。

しかし、日本で約六十年間伝道したクリスチャンアンドミッショナリアライアンスのアメリカ人宣教師ミス・フランシス師から、「牧会伝道は充分できなくても、人を愛することはできるでしょう」と言われた言葉がきっかけとなり、再び立ち上がる決断をされたのでありました。

その当時、東急池上線の荏原中延に教会があったことをかえりみて、その近辺に土地を入手されました。

ところが品川区より、ぜひその土地を譲ってほしい、お望みのところがあったら代替地として保証する、ということから、小林寿先生は品川区の依頼を受けることにされました。

品川区はそこに荏原文化会館を建てることとなります。

そこで、小林寿先生ご夫妻は、ふさわしい場所を見つけるべく連日探し回り、当時畠であったこの地を示されました。

当時、「誰にも譲らない」と言っていた地主さんに話したところ、「教会を建てるなら」ということで譲ってもらうこととなったのです。

会堂を建てる資金不足でありましたが、「時機を得た助け」を受けて、むさし小山教会は出発することとなったのでありました。

教会附属アライアンス幼稚園前園長阿部和子先生は、むさし小山教会三十年史に、「教会の木」と題して教会出発の頃のことを記しておられます。

「昭和26年8月2日、夏の盛りに、東玉川の家から、杉、梅、椿、椎、柿、いちじく、八つ手などの植木を、ここ、むさし小山の地に移植いたしました。両親は(小林寿先生ご夫妻は)、折角植えた木を枯らすまいと、移転までの一週間、毎日水やりに通いました。8月11日荷物発送と同時に、移転後は、私共も動員され、毎日、植木が根づきますように懸命に水やりをいたしました。裏の大高さんの井戸水をバケツに汲んで裸足で走りながらしたものです。その後、松山のフランシス先生から頂いたくるみの種、井原さんより藤の苗、イチョウ、アオバヤのおばあさまから桃、若林信太郎氏より八重桜、宇都宮徳馬代議士から送られた樟など、色々な方々の好意で庭が飾られ、四季折々どんなに私共の心が慰め慰められてきたことでしょう。その後二度の大工事で、桃、桜、イチョウなど、大切な木を失ってしまいました。進歩発展のためとはいえ残念でなりません。あの美事な八重桜!あの可愛い桃!あのきれいなイチョウと、一本一本の木にどれ程深い思い出と愛着があるかはかりり知れません。今天空高くそびえ、豊かな緑で私共を慰めてくれるくるみの木は、三十年(そして今年七十年)に及ぶ教会幼稚園の歴史を秘めてしっかり大地に根づいています。小さい庭なればこそ、そこここに立つ木はいとしさも格別です。召天した父の面影を宿し、教会幼稚園の歩みをじっと見詰めていてくれる木々と共にこれからも私は歩みを続けてまいります。」

先達の敬愛する先生方の祈り願い、初代牧師小林寿先生のモットーは「フィリピの教会にならう教会」言い換えると「愛と喜びの満ちた教会」。

これを受け継がれました第二代牧師小林宥(すすむ)先生はある時、主の日の礼拝説教で語っておられます。

聖なる霊は、弁護者であり、慰め主であり、助け主であって、この聖なる霊は、原語では「風」や「息」そして「命」を表し、聖霊は具体的に地上の歩みをされた「キリストの風」と言える。この弁護士、慰め主、助け主なる「キリストの風」を受け、三つのR、リポーズ(魂の休息)、リフレッシュメント(清新)、レスタレーション(回復)を提言されます。「魂の休息」、「清く新たにされる」、「回復」を提供する泉である場として歩みたいものですと、小林宥牧師は、その多くのご経験から言葉を紡ぎ出されました。

あなたの魂に休息があり、この地にあって清められ新たにされ、あなたの命が回復するように、この教会に流れるキリスト・イエスのみ名による祈り願いです。

キリスト・イエスはわたしたちの内に働くみ力です。

このみ力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになるお方です。

このお方により、また、教会により、栄光が世々限りなくあるように祈り願うのです。

今日、この教会創立記念礼拝においてささげられました讃美歌二編167のアメイジング・グレイス、作詞ジョン・ニュートンのその詞の直訳は次の通りになっています。

  1. 驚くべき恵み―何と胸をときめかせる言葉か―私のような無頼漢さえ救いたもうたとは!私はかつて失われていたのですが、今や神に見出され、かつて目が見えなかったのですが、今や見ることができます。
  2. み恵みが私に恐怖を教え、そのみ恵みが私を恐怖から救ってくれました。そのみ恵みは何と貴く見えたことでしょうか。私が初めて信じた時に!
  3. 多くの危険、困難や誘惑を私はくぐり抜けてきました。み恵みがここまで私を安全に導いてくれたのです。そしてみ恵みが私を天の故郷に導いてくれます。
  4. 主は私に恵みを約束されました。主のみ御言葉に私は望みをおきます。主こそ私の盾、分け前です。私が生きるかぎり。私の心と体が弱り、地上の生が終わるとき、天国において喜びと平安が与えられるのです。
  5. 大地はやがて雪のように溶け、太陽も光も失う時が来ます。しかし、私を地上において招きたもうた神は、とこしえに私のものです。

この神に栄光がありますように。神がここにおられることを受け止め、肯定することができますように。

今日、わたしたちに与えられた与えられ開きました聖書は、新約聖書エフェソの信徒への手紙であります。

人々の罪の赦しのため、受難と十字架の死、そして、復活を成し遂げられた主イエス・キリストの愛によって、使徒パウロは言葉を遺しました。

しかしこの言葉は、死んだ言葉ではなく、今も命を持った生きた言葉であり、わたしたちに慰めを与え、励ましを与えてくださいます。

それは愛によるからです。

エフェソの信徒への手紙4章1節から13節「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

使徒パウロは、キリスト・イエスの名によりローマに捕らえられ、獄中よりこの手紙を書いています。

パウロ自身、危険な状況にありながらも柔和であること、寛容の心を持つよう呼びかけています。

愛による忍耐、そして、キリストの平和があなたがたの心を支配するように、と言います。

このキリストの平和にあずからせるために、あなたがたは教会に招かれているのですと言うのです。

弁護者であり、慰め主であり、助け主なる霊により、平安が保たれるのであります。

すべての点で主に喜ばれるように、主に従って歩み、あらゆるよい業を行って実を結び、神をますます深く知るようにと願っているのです。

そしてパウロは、一つのことを大事にするように勧めています。

4節から7節「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人ひとりに、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」

パウロは「一つ」であることを語ります。それぞれに違い異なるのであると言えますが、「一つ」であるのです。

主なる神は唯一であって、このお方が結び、お働きになり、すべての内におられます。

信じる信仰の内に、希望の内に、神はおられます。

神の中で生き、動き、存在するので、わたしたちは心強いのであります。

万物は神から出、わたしたちはこの神に帰って行きます。

そしてただ一人の主イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在します。

このようにすべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かって行くのです。

わたしたち教会の歩みは七十年という年月を満たしましたが、この歩みは神から出て、神によって守られ、神に向かっています。

これは、わたしたち一人ひとりに与えられた恵みです。

多くの危険と危機、困難と誘惑をくぐり抜けて来ました。

喜びも悲しみも分かち合ってきました。

そしてその恵みにより感謝することを覚えました。

さらに恵みは、わたしたちを導いてくださっています。

パウロは言います。8節から10節「そこで、『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」

主イエス・キリストがこの世へと降って来てくださったこと、そして、昇ってくださったこと、その恵みが、わたしたちにはあります。

目には見えませんが、わたしたちのところへと主イエス・キリストは来られ、そして上げられ、すべてのものを満たしてくださるのです。

わたしたちの魂は、このお方によって、たとえ夜のようなこの世にあっても、主は曙の光のように必ず現れてくださるのであります。

12節から15節「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適したものとされ、キリストの体を造り上げて行き、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して行きます。」

ひとりなる神は、教会の中に色々な人をお立てになられ準備をされます。

人の栄光ではなく、神の栄光を現し、永遠に神を賛美するためであります。

そこには神の愛があるので喜びが満ちています。

ひとりなる神は、ひとつの体を造り上げ成長して行きます。

キリストに向かっているのです。

行き先がわからないのではありません。

わたしたちはキリストに向かっているのです。

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。

そして、16節「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら 愛によって造り上げられてゆくのです。」

落胆してはなりません。

神の憐れみを受け、この歩みは続いています。

神の愛と喜びの、弁護者、慰め主、そして、助け主と共にある歩みは続いています。

わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えます。

そして今日、わたしたちは、「ありがとう」との言葉を今、先達の兄妹姉妹に伝え、先達の方々と共に、七十年の年月が満ち、キリストの体を愛によって造り上げ続ける、その日に立ったのであります。

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます。」