「天に属する者」 コリントの信徒への手紙一15章35節~49節

「わたしたちは、天に属するその人の似姿にもなるのです。」

今日の聖書、新約聖書コリントの信徒への手紙一において、使徒パウロはそのように述べました。

どこに属しているのかということを、わたしたちは大切にしていると言うことができます。

この国を出国するのも帰国するのも、その出入国、出発、到着に際しては、どの国に属しているのかという国籍が大切なことであります。

また、国の中においても、例えば日本では緩やかであってもどこの都道府県に属しているのかということが特にコロナ禍の中においては気になるところであるかもしれません。

どこに属しているのか、何に属しているのかということが、心だけに関わる問題だけではなく、体に関わる問題でもあり、時によっては、場合によっては、この世での命に関わることでもあるのです。

わたしたちの日常の暮らしの中において、当たり前と思っていたことが当たり前ではなく、当たり前ではないと思っていたことが当たり前になる、ということがあるかもしれません。今日、わたしたちに与えられた聖書で使徒パウロは、キリスト・イエスに出会うことによって、当たり前と考えていたことが当たり前ではなかったという経験をいたしました。

そしてそれは、パウロの歩みを闇から光へ引き出すこととなったのであります。

それは、パウロが、知らなかったことを少しだけ知ったということではなく、パウロが、パウロ自身を見る目が、まったくかわってしまったということなのです。

キリスト・イエスとの出会いの出来事は、一瞬のこととしてということと、また、キリスト・イエスとの出会いの出来事は、長い時を通してということがあります。

一瞬のことと長い時を通して、そのどちらも救い主キリスト・イエスのみ思いの中で起こる出来事であります。

パウロは、ユダヤ人の中のユダヤ人であり、律法学者ファリサイ派の中のファリサイ派としてキリスト者たちに反対し、キリスト者であればだれかれかまわず迫害を加えるほどのものでありました。

そのパウロが、キリスト・イエスに出会ったのです。

そしてそのキリスト・イエスは復活の主でありました。

十字架の死より復活されたキリスト・イエスに、パウロは出会ったのでありました。

パウロはどこまでもキリスト者たちを否定し、非難し、攻撃してもいたのです。

主イエスが復活され天に上げられた後、主イエスの12人の弟子たちは自分たちの他に、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人7人を選びました。

まわりに大勢となったキリスト者たちのお世話にあたる人々です。

その選ばれた7人のうちにステファノという人物がいましたが、知恵と霊によって人々に語るステファノは、当時のユダヤの宗教的指導者たちと人々により石を打たれ殉教してしまいます。

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言います。

そしてひざまついて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と大声で叫びステファノは息を引き取ります。

その時まだキリスト者たちに反対していたパウロは若者でありましたが、ステファノの殺害に賛成し、この出来事を目撃していたのでありました。

しかしその後、キリスト・イエスのみ思いの中で、パウロは復活の主に出会います。

主イエスは、十字架にかけられ死につかれ、ステファノは石を投げつけられて殉教します。

迫害と殺害に賛成をしていたパウロにとってこれほど当たり前のことはなかったかもしれません。

しかし、人の思いと人の知るところをはるかに超えているキリスト・イエスは、人々の思いと人々の知るところのパウロに呼びかけるのであります。

死より復活させられた主イエス・キリストは、パウロに現れたのであります。

それは、今までなかったものに何かが付け加えられたという出来事ではありません。

今まで足りなかったものに何かが付け足されたのでもありません。

まったくかわったのです。

それまで死へ追いやり、滅びへと追いやる、死と滅びしかない、それが当たり前だと受け止めていたことがまったくかわったのです。

復活です。

主イエスは、キリスト、救い主であり、復活され、パウロは、その出来事の中にキリストの、み思いの中におかれたのです。

死と滅びのみと思っていたことが、死と滅びだけと思っていたことが、そうではなくなったのであります。

まったくかわったのです。

キリストにかえられ、その後キリストを宣べ伝えることとなった使徒パウロは、このことで、復活のことで、揺れ動き、傾き、倒れそうになっているコリントの人々にさっと手を差し伸べるように語ります。

コリントの信徒への手紙一15章の1節から5節でパウロはこう述べています。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これはあなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。」

パウロは、人々にとって良い知らせである福音は、「わたしも受けたものです」と語ります。

そしてそれは、人々の罪の赦しのためキリスト・イエスは、十字架にかけられ、復活されたことだと言うのです。

そして今日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙一15章35節「しかし、死者はどんな風に復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者が入るかもしれません。」

コリントの人々が抱いていた思い、聞きたいと思っていたことをパウロはここで言っています。

パウロは、揺れ動き、傾き、倒れそうになっている人々に共感するように語ります。

しかしです。

36節から38節「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。パウロは眠った人を呼び、目覚めさせようと「愚かな人」という言葉さえ用いて人々に気づきを引き起こそうとします。

かたくなになって失った心を取り戻そうとするのです。

ある時、主イエス・キリストはおっしゃいました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」

主イエスのおっしゃる「一粒の麦」と「多くの実」が結び付けられているのは死によってであります。

しかし、一粒の麦、その種が本当に死んでしまっているのであれば、実を結ぶことはありません。

多くの実を結ぶということは、そこに命があるからと言えます。

主イエス・キリストは、神の愛とゆるしを人々にお与えになるためにご自身の命を十字架の死にかけられ、わたしたちに命をお与えになられたのです。

そしてパウロは、あなたの蒔く種には、命があること、それは神がお造りになられた出来事を思い起こさせます。

神は御心のままに一つひとつの被造物を造られ、神はこれを見て、良し、とされたのです。一つひとつの種がそうです。

神は、この地に、この世に、種から命を芽生えさせられたのです。

そして39節「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。」

そして神はみ心のままにこれらを造られ、これを見て、良し、とされました。

40節、41節「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天井の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」

パウロは、この世の中の造られたもの、被造物のそれぞれの違い、地上のものから、天上のものへと移って行きます。

天上の体と地上の体があるというのです。

そして、天上の体は、地上の体を見つめており、地上の体は、天上の体を見上げているのであります。

ですので、天上の体は、地上の体に「あり」、地上の体は、天上の体に「ある」、ということでもあります。

お互いにつながっていると言えます。

しかし、輝きが違っているので、つながっているようには見えず、つながりはないように見えます。

遠く翳っているようにさえ見えます。

それは、太陽、月、星々の輝きにも違いがある通りであります。

パウロはなぜここで輝きについて、光について取り上げているのかと言うと、主なる神のみ言葉を信じ、信頼していたからでありました。

旧約聖書に登場します預言者ダニエルという人物を通して告げ示された預言。

「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」

主なる神のみ思いのうちに主なるイエス・キリストのみ守りのうちに助けられ、救われて、多くの人々が地の塵の中の眠りから目覚めるのです。

主イエスはある時こうおっしゃいました。「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

わたしたちは、この世にあって、それがたとえ暗い夜であって、くじけそうな心であっても、翼を広げ昇ることができるのです。

使徒パウロは、まったくかわってしまうという世界を語ります。

そこは、遠くに響くサイレンも届かず、聞こえず、まったくかわってしまうという世界です。

コリントの信徒への手紙一15章42節から44節「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、“霊”の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、“霊”の体もあるわけです。」

わたしたちは、朽ちないものに復活し、輝かしいものに復活し、そして、力強いものに復活するのであります。

この世の中では朽ちるもの、卑しいもの弱いものがあります。

それが悪いのでは決してありませんが、このようにおいてはこれらのものが強調されることがあります。

この世のものは過ぎ去ります。

使徒パウロは、復活された主イエス・キリストと出会いまったくかわってしまう世界に入ったのです。

それは霊の体から見るということです。

そして、こう述べます。45節から49節「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

最初に霊の体があったのではありません。

自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。

土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられました。

人はこうして生きる者となったのでした。

これが最初の人アダム。

そして「最後のアダム」とパウロが言うのは、主イエス・キリストであり、霊により命をお与えになるお方です。

キリスト・イエスを通して神は告げられるのです。

「主のみ言葉を聞きなさい。この世で渇きを覚え、渇いている者たちよ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはあなたたちの中に霊を吹き込む。すると、あなたたちは生き返る。」

人は神を与えになる命の霊によって生きるのです。

この“霊”によって神の息を吹き入れられ、人は天に属する者となるのです。

そして、わたしたちは天に属する者です。

神によって土からできたアダムの似姿となっているように、天に属する人の似姿にもなるのです。

本国は天にあるからです。

天にはこの地とは違う輝きがあり、光があり、この地のわたしたちを照らしていることをわたしたちは知っています。

ですから、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28、29節でこう述べました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」

主イエス・キリストは、わたしたちを生き返らせてくださいます。

神の霊によってであります。

小さな光を探している暗い夜に、輝きと光を照らし、生き返らせてくださいます。

必ずわたしたちを照らしてくださいます。

なぜなら、救い主イエス・キリストにより、わたしたちは天に属する者だからです。