「良い種を蒔く」 マタイによる福音書13章34節~43節

「良い種を蒔く者は人の子」と、主イエス・キリストはおっしゃって、その「人の子」とは、主イエスご自身のことでありました。

今日、8月15日。戦争によるすべての戦没者を追悼し平和を祈念する日に、過ちは繰り返しませぬから、という思いを持って深い悲しみを新たにいたします。

日本国内では今、感染症の再拡大、また、大雨による自然災害など、再び新たな困難に直面していますが、命を守り、命が守られる世界の平和を祈り、求め続けていくことを心から願っています。

わたしたちは今、ここで祈り、願い、求め続けて行くという「心の向き」を思います。

そしてその心の向きについて、復活された主イエス・キリストにより使徒とされたパウロが、手紙を通してこう述べています。

新約聖書のローマの信徒への手紙8章18節から25節という聖書箇所で、「将来の栄光」と新共同訳聖書では小見出しがつけられています。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけではなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれが望むでしょう。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

使徒パウロは、わたしたちの心の向きが希望に向けられていることを語ります。救い主キリスト・イエスによって希望を与えられ、それによって救われているというのです。

ですので、現在の苦しみの中に、将来わたしたちに現わされる栄光が隠されているのです。

パウロはこの世の中で、重さと苦しみを担うすべての人々に、この栄光が、主なる神の栄光が、現在の苦しみの中に隠されていることを喜び、そのことをうめきながらでも待ち望んでいるのです。

そして、栄光に輝く自由にあずかるのです。

この世では不安が消えることがありません。

この世の重さと苦しみはいつまでもつきまとうかのようであります。

しかし、救い主が来られ、キリスト・イエスが来られ、このお方によってわたしたちは死と滅びから解き放たれ自由とされるのです。

主なる神の栄光がこのように現わされるので「隷属から」、支配を受けてその言いなりになることから解放されるのであります。

パウロの心の向きは、この栄光に向かっていたのであります。

そして、この栄光からパウロは自分自身を見ていたのでありました。

それは、神の子とされた神の子たちが、このように神に見つめられているということでもありました。

そのことからパウロは、いつまでも不安が消えず、どこまでも恐れが続くかのようであっても、ともにうめき、希望をもって忍耐し、待ち望んでいるという姿勢を保ち続けるのです。

この世においては目に見えないものであるかもしれません。

またこの世において、表面ではわからず、隠されているものであるかもしれませんが、明らかに主イエス・キリストはお語りになっておられるのであります。

そして主イエスがお方になられる時、群衆に向かってお語りなられる時と、弟子たちに向かってお語りになられる時がありました。

群衆とは、群がり集まったさまざまな人々、と言うことができます。

そして弟子たちというのは、主イエスの近くで教えを受け、聞き従った人たちと言うことができます。

主イエスの弟子たちは、ある時、主イエスに近寄ってたずねました。

「なぜ、あの人たち(群衆)には、たとえを用いてお話になるのですか。」

主イエスがたとえを用いられてお話なられることが多かったからであります。

弟子たちの問いに主イエスはお答えになられました。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることは許されているが、あの人たちには許されていないからである。」

主イエスのお答えには、「あの人たち」という群衆と「弟子たち」の違いが表されています。そしてそれは、「天の国の秘密を悟ること」が「許されている」か、「許されていない」か、ということです。

ここでの「許す」は「認める」という意味での許可ということです。

つまり、主イエスのおっしゃる弟子たちと群衆の違いは、許されているか、許されていないか、であり、それは何をかと言うと、「天の国の秘密を悟ること」です。

「悟る」とは、知ること、また、心動かされること、であります。

これが弟子たちと群衆の違う点です。

しかしそれは、表面的には分かりません。

心の向きに関わることであるからです。

そして、悟ること、知ること、心動かされることは許されているけれども、そのことを自分自身で許可していないということもあります。

主イエスは、たとえで人々に語りかけられました。

そして、今日の聖書箇所、新約聖書マタイによる福音書13章34節35節「イエスは、これらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった。わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

主イエスは、群衆にはたとえのみを用いて、お語りになられたというのです。それは、当時、ユダヤの民の宗教的指導者、教師たちの間で普通に用いられていた形式でありました。

たとえは、当時よく用いられる説明方法であり、たとえを通して真理を教えようとするものでした。

そのために、日常の具体的な例や比較、寓話などの物語の助けをかりて、人々が理解できるようにということであります。

そのようなたとえを、主イエスは群衆にお語りになられたのです。

そしてそれは、預言者を通して言われたことが実現するためであったと、マタイによる福音書は語ります。

神は、目覚めた人、神を求める人、従う人々の群れにおられるのです。

そして神は、たとえを用いて口を開かれ、過ぎ去った時代から、天地創造の時から、隠され、不明であった言葉を解き明かされるというのであります。

不明である、明らかでないことを前にして人は、不安になることがあります。

当時の群衆に、主イエスがそれまで教師たちが行っていた通り、たとえを用いてお語りになられます。

そして主イエスは、人々を救い出そうとされるのであります。

明らかでないこと、不明であることの中で、主なる神の成し遂げられる驚くべきお働きを、主イエスは伝えようとされます。

主は、口を開かれ、伝え、告げられるのであります。

マタイによる福音書13章36節「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った。」

主イエスは、「群衆を後に残して」とあります。

家にお入りになった。

外から内に、中に、お入りになり、外には群衆、内には弟子たち。

中と外の間には扉があって、その扉は、「天の国の秘密を悟る」という扉であります。

人はこの扉を通って群衆のいる外へ、また、主イエスの弟子たちのいる内へと出入りすることが許可されているのです。

主イエスが家に入られると、弟子たちが近寄って来て、「たとえの説明をしてください」と言います。

そのたとえは、畑の毒麦のたとえでありました。

マタイによる福音書の13章24節から30節で、主イエスがお語りになっておられるたとえであり、天の国は、このようにたとえられると主イエスはおっしゃるのです。

「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま。畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、弟子たちが、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。』」

主イエスは、群衆に天の国のたとえとして、人々の日常生活に当てはまる事柄を通してお語りになられました。

毒麦は、夜中、悪い者によって蒔かれることが実際にあって、育ってくると色や形が違ってくること、ですのではっきりするまで待ってから選び抜き、良い麦は残さなければならないこと、また、その実は毒であり、嘔吐、下痢、めまい、しびれ、を引き起こすこともあります。また、集められた毒麦の束は、燃料として用いられてもいました。

主イエスが群衆にお語りになられた畑の毒麦のたとえの説明を弟子たちは求めています。

天の国の秘密を知りたいと心動かされたのであります。

そこで、37節38節「イエスはお答えになった。良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者とは、天使たちである。」

「良い種を蒔く者は人の子」、すなわち、主イエス・キリストご自身です。

主は、「畑」であるこの世界に来られ、人と人、また、その人の中に来られたのであります。そして、「良い種」というのは御国の子たち、すなわち、主イエス・キリストを信じ従う人たちのことです。

そして「毒麦を蒔く者」と「毒麦」とは、悪魔とその悪い者の子たちであります。

主イエス・キリストによって与えられる御国が差し出されているのにもかかわらず、それをかたくなに拒む者たちのことであります。

世の終わり、刈り入れの時、天使たちが選び刈り入れるのであります。

その時、キリスト者たちが、何が良くて何が悪いのかを選り分けるのではありません。

天使たちが刈り入れるのであります。

ですから、40節から43節「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。その時、正しい人々はその父の国で太陽に輝く。耳のある者は聞きなさい。」

主イエス・キリストは、良い種、良い麦が、必ず現れることをお語りになります。

その時がいつなのかは、父なる神のみがご存知で、わたしたちには分かりませんが、

わたしたちではなく、天使たちが刈り入れをしてくれます。

主イエスによって罪ゆるされ、永遠の命を与えられ、光のもとへやって来るのです。

光がやって来たのにもかかわらず闇の方を好み、光を憎み、行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない毒麦の種。

しかしそれでも、主イエスは救い主として苦難を受けられ、十字架の死につかれ、そのご遺体は一度墓に納められますが、復活され、良い種を蒔かれます。

この種は愛とゆるしの実を結びます。

こころ、すこやかであれ。

そして、平和と平安の花を咲かせます。

その時まで、天使たちがすぐ近くで守り、その時が来れば、神の御言葉を聞く多くの人々は眠りから目覚め、永遠の命に入ります。

良い種を蒔く主イエス・キリストにより目覚めた人々は、大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝くのです。

主は、父なる神の国に、希望の良い種が発芽して成長し、喜びの歌とともに刈り入れをするため、わたしたちに光を与え、太陽の光のように輝くようにしてくださるのです。

心の向きを主の光に向け信じ、お受けするのです。

主イエス・キリストは、「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいます。

主は、心をすませて聴く幸いを、わたしたちにお与えになられたのです。