「平和があるように」 マタイによる福音書10章5節~15節

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」と主イエス・キリストは、その弟子たちにおっしゃいました。

2021年、早くも8月に入りましたが、現在、新型コロナウイルスの感染拡大という中にあって、人が集い、繋がることが決して簡単ではないということが引き続いています。

そのような状況の中で、さまざまな場面で努力を続けておられる方々、また、今もその事を支えておられる方々のご努力を思い、敬意を表します。

感染症を防ぎ、暑い気候に気をつけつつ、どうか健やかに、と祈ります。

平和と調和がありますように。

1964年の東京オリンピックの閉会式で各国選手団が国ごとではなく、混ざり合って仲良く更新するその姿があって、人々の希望となったとのことでした。

試練を乗り越えていくためには、国内外を問わず協力していくことが大切であるという思いがそこから与えられます。

8月は、6日、9日、15日と、広島、長崎、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典ならびに全国戦没者追悼記念式が行われ、「原爆の日」そして「終戦の日」を迎えます。

昨年の広島市長平和宣言の中には次のようにあります。

「1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、『75年間は草木も生えぬ』と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。今、私たちは新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かいもがいていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界を恐怖に陥れました。その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界対戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。・・・原爆投下の翌日、橋の上にはずらりと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた、という惨状を体験し、『自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです』という当時13歳であった男性の訴え。2019年11月、被爆地を訪れ、『思い出し、ともに歩み、守る、この三つは倫理的命令です。』と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。そして国連難民高等弁務官として難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の『大切なことは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。』という実体験からの言葉。これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように『連帯』して立ち向かうべきであることを示唆しています。」

「連帯」という言葉を字引で見てみますと、「二つ以上のものが結びついていること」また「二人以上の者が共同である行為また結果に対して責任を負うこと」とあります。

今日、わたしたちの開きました聖書は、主イエス・キリストが二人以上、それは十二人でありますが連帯する者たちを選ばれて、ある行い、また、その結果についてお語りになっておられる聖書箇所であります。

新約聖書のマタイによる福音書10章の1節から4節では、主イエスが弟子たちを選ばれ、このようにあります。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」

そしてその十二人を使徒と呼び、その名は、ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルファの子ヤコブ、タダイ、シモン、ユダ、でありました。

主イエスは、ここではただお一人で行おうとされるのではなく、連帯するかのようにして弟子たちを呼び寄せられます。

そして、あなたたちこそがこのことを行うのだ、ということを伝えられるのであります。

そしてその行いを行う力を、主イエスは授けられたというのです。

権能という「行うことの許された力」を主イエスが授けられるその前、主イエスはご覧になっておられたのであります。

それは、被災地にいち早く到着した記者が、その惨状の事実を何とか記事にして世界へ発信するかのような、その時の記者の思い、そしてその記者の眼差し、のようであるかもしれません。

主イエスは、弟子たちを使徒として呼び寄せられる前、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」のでありました。

主イエスが「深く憐れまれた」というのは人の内臓の動きを表しています。

肉体的、身体的な動き、しめつけられ、よじれるような痛みを感じたというのであります。

そのようなことがあって、この世の深い悲しみが滔々と流れる深い川のように、そこに在って、主イエスは弟子たちを呼び寄せ、主イエス・キリストとその弟子たちの結びつきをつくられようとされるのです。

そして、マタイによる福音書10章5節「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリヤ人の町に入ってはならない。』」

派遣というのは、使命を持っておもむかせるということです。

そのために、主イエスは弟子たちを遣わし、弟子たちは主イエスによって遣わされたのであります。

その使命を行うために主は命じられました。

「異邦人の道に行ってはならない。」「サマリヤ人の町に入ってはならない。」

主イエスはこの時、弟子たちにその時の状況に適った言葉を語られました。

それは、主イエスの弟子たちにとっては厳しくもあり、また心優しい主イエスの言葉がけでもありました。

弟子たちが「憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けをいただくため」であったからであります。

「異邦人」または「サマリア人」と主イエスがおっしゃっているのは、ユダヤの人々から見て、もともと本来そうあるべきものだということから外れてしまい、ずいぶんと離れてしまっていると見え、考え、思われていた人々を指していました。

そのような事に至るまでの人々の思い、歴史的な経緯というものもありますが、もともとの源から外れ、離れてしまっているということを、当時、「異邦人」「サマリヤ人」という呼び方は表していたと言えます。

主イエスは、そのようなところではなく、6節「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とおっしゃるのです。

「イスラエルの家の失われた羊」とは、当時、ユダヤの人々は「異邦人」と呼ばれる人々が住む地域にも住んでいたことを表しています。

イスラエル、すなわちユダヤの人々は、それぞれの地域へと離れ散って行き、離散していました。

「失われた羊」と主イエスがおっしゃっておられるのはそのようなユダヤの民、そしてそれは日々暮らしている生活のその中で、まことの神を求め続けている人と言うことができます。

日が出て昇り、そしてまた、日が入り暮れてゆく、その日々を繰り返してゆく命に、まことの光をお与えになる神を静かに求め続けている人々であります。

その所へ行って、7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と主イエスはおっしゃいます。

自分は何かを失ってしまったのではないか、また、何かをなくしてしまったのだろうか、と恐れ、不安の中にある「失われた羊」と言える人々、その所へ行って伝えなさい、大切な言葉を届けなさい、と主イエスはおっしゃるのです。

「天の国」「神の国」は近づいた、そして、すぐ近くにあるということであります。

それは、それを語る主イエス・キリストが近づかれ、近くにおられるからです。

それを失い、なくしてしまっていたお方が、近くにおられて、寄り添っていてくださり、共に歩んでおられ、愛してくださっておられたことを知るように、ということであります。

そして主イエスは、呼び寄せられたその弟子たちにおっしゃいます。

8節「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

病をいやされ、死者を生き返らせ、悪霊を追い出されたのは、主イエス・キリストご本人です。

そしてここで主イエスは、そのように病んでいる人たちをいやし、死者たちをよみがえらせ、悪霊を追い出せ、とおっしゃるのです。

それらは、価なしで受けたのだから、価なしで与えなさい、とおっしゃるのです。

それは、主なる神との結びつきの確かさをお語りなっておられます。

主なる神のいつくしみ、主なる神の愛との結びつきが確かにあるのだからということです。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。」

主イエスはおっしゃいます。9節、10節「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」

命の主と結ばれているのだから、命は養われ、支えられ、守られるのです。

主が命じておられることを忘れないように、あれこれと持つものを心配することではなく、導かれること、導かれていること、を思い起こしなさいと主イエスはおっしゃるのです。

それほどまでにこの使命は、主イエスを通して主なる神と結ばれていなければならない働きであったので、11節、12節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとに止まりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

主イエスは「探りなさい」とおっしゃいます。

そこで誰がふさわしいかをと指示を出されます。

そして、あちらこちら、次から次へとではなく、とどまることの大切さを示されます。

そしてその家に入るとき挨拶をしなさい。

「平和があるように」それは普通の挨拶です。

何か特別な挨拶ということではありません。

それが普通であると感じられる家である、ということでもあります。

穏やかなごく普通の挨拶が人の心を和ませているそのような家、と言えます。

さらに、主イエスはおっしゃいます。

13節から15節「家の人々がそれを受け入れにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなた方に返ってくる。あなた方を迎え入れもせず、あなたが他の言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

「裁きの日」というのはいつであるのかわかりません。

しかしそれは、主イエス・キリストの来られる「キリストの日」と言えます。

「ソドムやゴモラの地」というのは、旧約聖書創世記19章によると、神のみ前に非常に重い罪があったので火と硫黄によって滅ぼされてしまいました。

それほどの事よりも、主イエスを通してその弟子たちが伝える平和を受け入れない人の方が大きな重いものを負っているのです。

なぜなら、人々の罪の赦しのため、苦しみを受けられ、十字架の死と復活を成し遂げられた主イエス・キリストの平和がここにもあるにもかかわらず、それを「ない」ものにし、受け止めようとしないからであります。

「ある」ものを「ない」とするその罪の大きさと重さを主イエスはおっしゃっておられるのです。

ここに、主イエス・キリストの愛とゆるしという平和があることを、わたしたちは感謝いたします。

あなたに平和がありますように。

あなたの家に平和がありますように。

そして、あなたのものすべてに平和がありますように。