「キリストと共に生きる」 テモテへの手紙二2章1節~13節

「キリストと共に生きるようになる。」今日、わたしたちに与えられた聖書はそう語っています。

それは、先に進む者が、後を走る者を信じて走っているかのようです。

陸上競技のリレーレースでは、バトンを握って走る走者は、次の走者にそのバトンを渡します。

今、走っている者も、次に走ろうとする者も、懸命に走り、走ろうとします。

そのためにバトンパスは大切なことなのです。

ゴールを目指して走るために渡さなければならないのであります。

今日の聖書で、今、走っているのは使徒パウロであり、その次を走ろうとしているのは同じ働きをするテモテでありました。

年齢は違いますが、同じ働き、福音を宣べ伝える働きをしておりました。

しかし、この働きを良く整備された環境の中で行われるものではありませんでした。

与えられた働きをするのには、どちらかと言うと厳しい環境ということができました。

目に見える領域、そして目に見えない領域のいずれにおいても、厳しい環境においてつなぎ、働かなければなりませんでした。

今、走るパウロも、次走るテモテも、とても緊張していました。

しかし、それは臆病の霊に取りつかれてしまったかのようではなく、愛と力によって強く支えられた中での緊張感と言えます。

大変厳しい環境を、多くの障害物がある。

そのような中を進んで行かなければならない。

しかし、目を向ける、視線を向ける、そのものは、はっきりしていたのでありました。

早い速度で走っていると、目を向けたものに向かって進んで行ってしまうということがあります。

特にコーナーを回る時には、何か他のものに気をとられ見当違いのものに目を向けると、それに向かって突き進み、とても危ない走りとなることがあります。

コースを外れ、また何かと接触し、ぶつかってしまうことがあります。

そこで使徒パウロは、後を走る者を信じて、筆を執り手紙を書いたのでありました。

今日、わたしたちの開きました聖書は、新約聖書テモテへの手紙2章1節から13節、新共同訳聖書では、「キリスト・イエスの兵士として」という小見出しが付されています。

使徒パウロが、同労者であるテモテに手紙を書き送ったのであります。

この手紙の始まり1章1節2節には、同じ働きをしている同労者テモテ、ある時には一緒に働き、そして今は離れているテモテ、そして、愛し信頼しているテモテへ、パウロは挨拶の言葉を送っています。

それは、パウロのテモテへの溢れる思いと、こうでこうあってほしい、こうであるようにという祈り願いの言葉から始まっています。

そしてこれらの言葉は、パウロからテモテへという関係のみではなく、聖書に収められている通り、すべてのキリスト者に、今日のわたしたちに働いている愛であり、祈り願いであります。

「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主イエス・キリストからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」

パウロは、「キリスト・イエスによって与えられる命の約束」と言っています。

この言葉を書き記した時、パウロは、キリスト・イエスの名によって捕らえられ、ローマの牢の中にいました。

それは初めてのことではなく、二回目のことでありました。

パウロには、罪に当たるようなことは見当たりませんでしたが、当時のこの世の力によって捕らえられ、牢につながれていたのでありました。

そしてその拘束は解かれることなく、釈放されることがない、そのことが分かっていました。再び自由に外へ出ることがない、そして、この世の力によって死を迎えることがパウロにはわかっていたのでありました。

その時にパウロは、自分を見出し、人々を愛し、赦し、救われるキリスト・イエスに目を向けているのです。

そして同労者であり仲間であるテモテにも、この状況下で、この世では道理に合わず、不条理であり、悲しく、痛ましい中にあっても、目を上げ、挨拶を送っているのであります。

それは、胸の中に、悲しくつらいことが深くあっても、笑顔を絶やさず毎朝、挨拶をしている人のようです。

そんなに無理をしなくても、と思います。

泣きたい時は泣いたほうがいい、とも思います。

が、パウロの握りしめていたものは違ったのでありました。

その胸の中には、「キリスト・イエスによって与えられる命の約束」があったのです。

自分からではなく、神から与えられているその約束は、愛と赦しから来るものであり、パウロは、その神の御心を受け取った者として、その愛をテモテへ伝えつなぎます。

そして、どうかテモテの上に、神の恵みと憐み、そして平安が、主キリスト・イエスのみ名によって豊かにあるように、と祈り願っているのであります。

これが死を前にしたパウロのひたすら願う祈りです。

パウロよりも年若く、少し気が弱く、臆病でもあったテモテをパウロは気遣います。

テモテの手紙一では、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」とパウロはテモテの心と身体の健康を心配し助言しています。

この人に、主キリスト・イエスからのよきものがありますように。

恵みがあり、憐みがあり、そして、平安がありますように。

死を待ち、「命の約束」に生きるパウロの思いです。

パウロはなぜそのような思いを抱いていたのか、それは、苦難を受けられ、十字架の死につれ、復活された主キリスト・イエスに出会ったからでありました。

そしてパウロは、そのキリスト・イエスを宣べ伝えたのであります。

それは、死を待つ人、この世のすべての人々の救いのために来られたお方に報いるためでありますが、キリスト・イエスは、それをはるかに超えた恵みと憐み、そして、愛をお与えくださっています。

恵みを与えられている、憐みを受けている、そして、愛されている、そのことがパウロの勇気となっています。

四面楚歌、助けもなく、孤立して、周囲を問題ばかりに囲まれているようでありましたけれどもパウロは上を見上げ、天の父なる神が、主キリスト・イエスをお与えになられたこと、この愛は、この憐み、この恵みに生きることができたのです。

そしてまた使徒パウロが、ローマに捕らえられたことにより、アジア州のキリスト者たちがパウロから離れていく中、エフェソの教会のキリスト者であったオネシフォロの家族は、牢に捕らえられたパウロを励まし、パウロが囚人の身であることを恥とも思わず、ローマまで来て、熱心にパウロを探し求め見つけ出したということがありました。

神の愛と憐み、そして、神の恵みは、このようにして広げられていったのです。

そしてテモテへの手紙二2章1節2節「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」

パウロは、後に続くテモテに、そしてまた、後に続くすべての人々へ、「わたしの子よ」と愛をもって語りかけます。

「強くなりなさい」と勧めます。

しかし、この世にあってわたしたちはそうなれないと思います。

いくつもの制限があって、たくさんの制約があって、心も身体も強くなれないと思います。

しかし主キリスト・イエスは、十字架の主であり、復活の主であります。

このお方の恵みによって強くなることをパウロは語ります。

それは、弱さに力が少しずつついてというよりは、ただキリスト・イエスによってということです。

離れないでということです。

そしてパウロは、テモテにゆだねることを勧めています。

キリスト・イエスを信じる多くの証し人、その人々の前で使徒パウロから聞いたキリスト・イエスの福音、良い知らせを他の人にゆだねなさいと言うのですが、それは「教えることのできる忠実な人たちに」と大切な点をパウロはテモテに伝えています。

それは、伝える者として走るパウロが、その身をもって学び、学び続けていることでもありました。

3節「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」

「兵士」とありますがこれは、武力を持った兵士ではなく、信じる信仰、信じる心、信心を盾にして、方々から飛んでくる火の矢を防ぐ者のことであります。

それをキリスト・イエスの立派な、よい兵士と言い、「立派な」というのは、適正な、よくあてはままって、正しいこと、という意味であります。

そのような「キリスト・イエスのよい兵士として、共に苦しみを忍びなさい」とパウロは述べます。

キリスト・イエスの愛の力にゆだねるのであります。

そのようなキリスト・イエスのよい兵士、すなわち、4節5節「兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。」

パウロは、キリスト・イエスから呼び出され、召し出されていることを再び思い出すように勧めています。

それは兵士のようにして招集者に忠実であること、そして、競技する者のように誠実であることです。

そして忠実であること、誠実であることは、どのように神の愛にお応えしていくのかを指し示しています。

ひたすら主に仕える道に度々出てくる道路標識です。

そして、パウロは栄冠を目指し、後に続くテモテへ栄冠を目指せと勧めています。

6節7節「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。テモテは、パウロよりも年若いということではありますが、さまざまな経験をしていました。

それは、よいこともそうでないことも、楽しいこともつらいことも、その労苦を主は決して忘れることなく、その実りにあずかることになる、パウロは、キリスト・イエスの命の約束と共に、そのことをテモテに語ります。

この世にある命よ、聞きなさい。

主は、あなたがすべてを理解することのできる力を授けてくださいます。

この世で弱りはててさえいるテモテ、パウロはやがて理解する時が来るだから、焦らないで、急がないで、そして、止まらないで、と言うのです。

そして8節から10節「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この日のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」

パウロは、「イエス・キリストを思いなさい」と言います。

それは走る時だけではなく、走れなくなった時も、元気な時だけでなく、病気の時も、嬉しい時だけでなく、悲しい時も、パウロは福音というよい知らせを宣べ伝えているのです。

それは聖書を通して語られている通り、ダビデの子孫すなわち歴史的にお生まれになり、そして、十字架の死から復活されたイエス・キリストです。

このお方のために、この福音のために、パウロは牢につながれてしまいますが、それでもつながれていないものをパウロは見ています。

それは神の御言葉です。

人は人を鎖によってつなぐことが出来るかもしれませんが、人は神の御言葉を鎖でつなぐことができません。

そしてこの神の御言葉は生きています。

永遠の栄光に輝いているからです。

この輝きが、パウロの中にもあったので、パウロはあらゆることを耐え忍んでいます。

ですから11節から13節「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストとともに支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自分を否むことができないからである。』」パウロは手紙の中で讃美歌を引用してその言葉を記します。

キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得る讃美歌と言ってよいかもしれません。キリストと共に生きる、共に支配するというのは分かち合うということです。

キリストと死を分かち合い、キリストをと耐え忍ぶ、忍耐を分かち合うということです。

そうすれば、この人生を共に生き、共に治めることができるというのです。

キリストは否むことではなく、受け入れることを望んでおられます。

そしてそのことを、あなたに任せるという愛をもって待っておられます。

キリストはいつもいつまでも変わらず、真実であられます。

わたしたちの思いは変わりやすいものでありますが、キリストの真実、キリストの愛は、変わらないのでそれを否むことができません。

使徒パウロは、後に続く者たちを信じて走り、キリスト・イエスは、そのことをすべて受け入れられたのです。

そして今、わたしたちは、キリスト・イエスにおける恵みによって、キリスト・イエスと共に生きるようになったのであります。